昼下がり。職人通りの路地裏にある一軒のローブ工房の前に、一つの人影があった。
灰色の髪を後頭部で括り、薄墨色のコートを纏ってはいないものの、グレイその人である。
ややぴったりとした黒い厚手の長袖シャツに、少しダボッとした茶色い厚手のズボン。
革手袋に、上半身には胸当てを装備し、足元は金属で補強された編み上げブーツ。腰に巻き付けるように平たい鞄を身に着け、更にはショートソードが収められたベルト付きの鞘を、腰骨に引っ掛けるように提げている。
どこからどう見ても、冒険者──この街のどこかに居そうで、しかしどこにも居ない──の出で立ちだ。普段の格好よりは、初対面の者に警戒されづらいだろう。
グレイは逡巡するふりをしながら、ガラスが嵌め込まれた工房の扉の前を小さく往復する。
その様子はまるで、女性向けの服屋の前を行ったり来たりする、服屋に入った女の連れの男といった感じか。
この店は女性向けの服屋ではないが、受注生産の魔術師向けローブ専門工房である。魔術師であっても少々敷居が高い。
単独で、しかも魔術師ではないのならば、これが最も“自然な行動”だろう。
果たして彼の目論見通り、工房の扉が静かに開く。
「……私の工房に、何か御用かしら?」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、上品そうな婦人だった。
「あ、ああ。“イライザのローブ工房”は、ここで合っているのだろうか? ヴィオレッタに教えて貰って、来たのだが」
普段とは全く違う、グレイの口調。
演技。
仮面を被り、役をなぞるだけならば、彼にも出来る。
感情をほとんど表に出さない、無表情な彼にも。
「ああ、あの娘の紹介ですのね……。どうぞ、お入りになって」
白いブラウスに紺のロングスカートという出で立ちの婦人は、グレイを店の中へと招き入れた。
照明が抑えられた薄暗い店内。台の上には、素材も色も多種多様な布地が、綺麗に折り畳まれた状態で置かれている。
壁に沿うように置かれたトルソーには、おそらく見本品なのだろう、形態も様々なローブが着せられていた。
「初めまして、冒険者さん。私はこの工房の主で職人のイライザ。貴方は何をお求めなのかしら?」
婦人はグレイに向き直り、自己紹介をしながら、彼の姿を値踏みするように一瞥する。
『あの店主には“世話”になっているし──』
先程ヴィオレッタが言っていたことが、グレイの脳裏に浮かぶ。
──強かな女だ。
彼の鼠色の瞳の僅かな動きが、雄弁なまでにそう語っているが、イライザは気付いていないようだ。
「……知人の娘が魔術師でな。今度Cランクに昇格することになった。そこで、何かしら祝いを送ろうと考えたのだが、何にしようか迷っていてな。魔術師なら杖かローブだろうと言われて、見るだけ見てみようと思い、来てみたのだが」
勿論、嘘だ。
──こんな真っ赤な嘘をよく言えるものだ。
グレイ自身ですら内心呆れるような出鱈目だが、イライザの反応は違っていた。
「あらあら」
意味ありげに、微笑んでいる。
「……あの、何か?」
努めて怪訝そうな声色かつ、努めて怪訝そうな表情でグレイは尋ねる。
「あら、ごめんなさいね。お気に障ったかしら」
にこやかな笑みを口元に浮かべながら、イライザは続ける。
「先日来た坊やも、貴方と同じようなことを言っていたから。おまけに、入るか入るまいか迷っていたところも、貴方にそっくりでしたから」
「そっくり……ですか」
「ええ」
頷きながらイライザは、ゆったりとした動作で木製の丸椅子に腰掛ける。
黒檀製だろうか、きちんと手入れはされているらしく、艶のある褐色寄りの黒が薄暗い室内でもよく映える。
「確か、Bランクに昇格したお祝いに、一緒に組んでいる幼馴染の魔術師にローブを贈ってあげたい、それも出来るだけ良いものを、と、そう言っておりましたわね」
「Bランク……もしや“翠の鷹”、か?」
イライザは顔の動きで肯定を示しながら、グレイに椅子を勧める。
「私も冒険者を引退して久しいけれど、それでも多少の噂は耳に致しますわ。近頃、頭角を現している一団が居るって。その一人があの坊やでしたのね。貴方はご存知でしたの?」
名前くらいは、と返しながら、グレイは音もなく着席した。
「とにかく良いものを、とお願いされましたわ。生地もかなりの高級品を使って。一財産になりますわよと聞いてみたら、お金は貯めているし、何ならギルドのランク昇格時の装備購入補助制度使うからって。便利な世の中になったものですわねぇ」
──装備購入補助制度。確か、ランク昇格時に装備の買い替えを推奨するため、ギルドが装備に掛かった費用を一部を負担する制度だったか。
──品行方正。ならば、諸々の申請書類も過不足無く提出しているはずだ。勿論、このローブ工房で製作されたものに関しても。
「そうそう、注文の品を渡すときに、一騒動ありましてね」
思い出し笑いというよりは、眩しいものを見た記憶を思い出すような、イライザの表情。
「若いって良いわねと、つくづく思いましたわ」
──「ちょっとアレク! こんな凄く高いもの、受け取れる訳ないじゃない!」
──「お前のそのローブ、かなり昔から使ってるだろ? この機会に買い替えれば丁度いいじゃないか」
──「そ、それはそうだけど……。でもアレク、あなただって予備の剣欲しいって言ってたでしょ」
──「剣なんていつでも買い替えられるし買い足せるだろ。それに……」
──「それに、何よ」
──「こんな機会じゃないと、お前に、その……感謝なんて伝えられないし」
──「あ……」
──「その、何だ、と、とにかく、アリア……ありがとうな。お前だって色々忙しいのに、ギルドに出す書類とか、そういう雑用までしてくれて」
──「……う、うん」
──「だ、だからさ、これは俺だけじゃなくて、エレナやヴィクトルからの日頃の感謝も入ってるって、そういうことで」
──「……うん。ありがとうね、アレク」
「あらあら、ごめんなさいね、一人で喋ってしまって。貴方も、ローブを贈るかどうか迷ってらしてるのよね」
「まあ、あくまで候補の一つなのだが……検討材料はなるべく多く欲しいところではあるな」
グレイは店内をざっと見廻してみるが、あの布の断片と同じものは見当たらない。
ヴィオレッタ曰く超高級品の布地なのだそうだから、むしろこのような場所に置いておく方が不自然だろう。
「でしたら、冊子をお渡ししますわね。今、ここに無いような素材でも、予算次第で取り寄せることも出来ますのよ。他にも、ローブの形状による違いだとか、色々と載っておりますわ」
立ち上がり、近くの棚から小冊子を取り出すイライザ。
「是非お読みになって。そして、色好い返事を戴ければ幸いですわね」
手渡された冊子を、鞄の中に仕舞うグレイ。
「では、済まないが、これで」
軽く頭を下げながら、彼は扉へと向かう。
「またのご来店を」
最初よりは幾分かトーンの上向いた声色で見送るイライザ。
グレイは振り向かなかった。
路地を進み、店が完全に見えなくなった所で、グレイは壁に寄り掛かる。
大きなため息。
呼気と共に纏っていた仮面を吐き出せば、そこには普段通りの“彼”が居た。
──まさかギルドの書類に痕跡が残っていたとはな。
揶揄するつもりではないが、品行方正なのも褒められるべき美点だろうと、グレイは思った。
──これで、“布”の出処ははっきりしたはず。
彼は右手をポケットに挿し入れる。
革手袋越しに指に当たる、小さなガラス瓶に入った“それ”。
コートのポケットから移し替えた“それ”は、路地の薄暗い光の中でも、透かせば緑色に輝く。
翡翠製のメダリオンの破片。“翠の鷹”の証。
『色街狂いが居やがるのか、しょっちゅう高級娼館に繰り出してる奴が居るって話は聞くな』
思い出されるロコウからの情報。
高級娼館といえば、最低でも銀貨二十枚からが相場である。
一月を過ごすのに、銀貨が三十枚もあればかなり良い暮らしが出来ることを鑑みると、かなりよろしくない金遣いの荒さだ。
──この純度の翡翠ならば、上手く売り捌けば金貨十枚にはなる。だとすれば……。
グレイは、職人通りの本道とは逆方向に歩いていく。
一般に、治安が良くないとされている地区。その中にある、故買屋が集中している区画へと。