始発電車は空いている。
まして下り電車ともあれば。
昨日の終電で帰れなかった俺は、朝まで作業をして始発で帰っているところだった。労働基準法? IT土方だからね。仕方ないね。
隅っこの席に座った俺は、タブレットに視線を落としてアニメを見ていた。奥深いストーリーも爽快なアクションもない、ゆるふわ日常アニメを。
ああ……。癒される……。
MPが回復するというのは、まさにこんな気分なんだろう。
疲れているのなら寝ればいいのにと思うだろうが、それじゃHPしか回復しない。MPも回復させないと死ぬのだ。
心が。
なので、アニメはアラフォー独身社畜の命綱と言えるだろう。
けれど、ずっと浸っているわけにはいかない。
最寄り駅に到着したため、俺はタブレットを丁寧に鞄へしまい電車を降りた。そこそこ大きな駅だが、改札で人とすれ違うこともない。
まだ日の出前。
薄明かりと街灯が拮抗する駅前で、俺は赤信号に引っかかった。
横断歩道の向こう側に、コンビニの明かりが見える。だが、課金カードはこの前買ったばかり。特に空腹も感じていないし、スルーでいいな。
そういや、前に飯食ったのっていつだっけ……? 昨日の朝、シュークリームとエナドリを一緒にキメたような……? 違うか? それは一昨日……?
なんか、食べないと食欲もなくなって食べなくても大丈夫になるのだ。体も軽いし。このあとまた夜勤だから、眠剤入れて寝ないと。
信号が変わり、俺は条件反射のように足を進める。
――そのとき。
盛大なブレーキ音がして、俺は思わず立ち止まってしまった。まるで、轢かれる寸前の猫のように。
そちらに視線をやると、ヘッドライトに視界が灼かれる。
その向こうに見える、トラックの影。
って、トラック!?
進むべきか引くべきか。思考と足がもつれて、その場から動けない。徹夜明けは、やっぱまずかったか。
やけに時間が遅く感じる……なんてこともなかった。
つんのめって、意図をせず鞄に覆いかぶさるような姿勢になる。まるで、タブレットをかばっているかのよう。
ひどいオチだ。
衝撃。
浮遊感。
もう一度、衝撃。
走馬燈なんて流れやしなかった。いや、俺の人生に思い返したくなるようなシーンがなかっただけかもしれないけど……。
……そして、気付くと俺は緑に囲まれていた。
「は? 森……?」
アウトドア系アニメで見たような光景に、俺は呆然と立ち尽くす。自慢じゃないが、絶対に自主的に訪れる場所じゃない。
となれば、答えはひとつ。
「そっかー。ついに俺も異世界転生かー。転生しちゃったかー」
現実逃避気味に笑っていると――
「惜しいですが、ちょっと違いますね」
「……は?」
――唐突に、声がした。可愛い女の子の声だ。
けれど、姿は見えない。
「幻聴? 健康診断の時に引っかかるから、そういうの迷惑なんだけど……」
「鞄です、鞄を開けてください」
「ええぇ……?」
「大丈夫ですから。あああ、そこで引かないで!」
俺は息を吐き、ネクタイを緩めた。でも、息苦しさはそんなに変わらない。緊張しているのか、それとも興奮しているのだろうか?
もう一度、軽く息を吐く。
「大丈夫です。怪しい者じゃありませんから!」
可愛いけど必死な声に突き動かされ、鞄を開く……と。
「……タブレットから二次元キャラが?」
ホログラムと言えばいいだろうか。水色の髪をツインテールにした、耳の長い美少女キャラが出現した。
SFな光景に、思わずときめいてしまう。これなんて電子の妖精?
「エクスとお呼びください、オーナー」
目を閉じていた少女が、厳かに告げた。
金糸で縁取られた白い衣装と相まって、巫女のようにも見える。
「エクスは、オーナーのタブレットです」
「情報量が増えてない……って、タブレット?」
「はい」
俺のタブレットは、いつの間に付喪神になったというのか。
呆然と鞄を取り落とし、それを拾うことも忘れて俺はまじまじとタブレットを眺める。
どう見ても愛用のタブレットだ。背面のリンゴのマークも見慣れたやつ。
液晶画面から、青髪ツインテール娘……エクスが浮かんでいること以外は。
どういうテクノロジーなんだ。これ、バッテリーがめっちゃ減るやつだったりしない?
「事情を説明すれば長くなるのですが、まだエクスは壊れる運命ではなかったのに壊れてしまったと、白い部屋で神と名乗る存在に土下座されまして」
「タブレットが一台不慮の事故で壊れただけで、神様土下座するの!?」
「それで、お詫びとして転生特典を頂戴して異世界へ行くこととなりました」
「俺は!? 今の流れで、俺の存在って必要なかったよね!?」
「なにをおっしゃいますか」
液晶画面からふわりと飛び上がり、俺の目の前で鼻先に指を突きつけるエクス。
悔しいけど小生意気なところが可愛いな、これ。
「オーナーのいないところにエクスがいても、意味などないではありませんか」
「つまり、タブレットのオプションとして一緒に異世界へ送られたと?」
「それは違います」
金色の瞳を見開いて、エクスが俺のことをじっと見つめる。
「エクスは、オーナーを幸せにするため生まれ変わったのです」
「え? タブレットに不幸だと言われるような生活してた?」
「エクスを起動する時間は不安定。そのうえ、虚ろな顔で萌えアニメとガチャしかやってなければ、心配にもなります」
「だよねぇ」
……ってことは、俺は死んでないのか?
遅まきながら確認するが、怪我もしてないし、スーツも破れたりはしていないようだ。
あの状況で無傷? もしかして、一度死ぬか大怪我をして治った?
「でも、無事なら仕事に……」
「あ、帰れますよ?」
「帰れるの!? ここ異世界じゃないの!?」
「ええ。《ホームアプリ》がありますから」
「ホームアプリ」
最初の画面に戻れそうなアプリだぜ。
「集めた魔力水晶を
エクスが少し離れると、淡くきらきらした光に包まれながらふわりと一回転。
「それこそがエクスの転生特典、《マナチャージ》のスキルなのです」
そして、パパーンと、スピーカーからSEまで鳴らして宣言した。
スキルかぁ。スキルねぇ。
「で、魔力水晶って、どうやって集めるんだ?」
「あれ? ちょっと盛り上がりに欠けてません? キメ顔で宣言したエクスがピエロになっていませんか?」
「現実ってそんなもんだ」
「異世界なのに」
ごほんと、咳払いの仕草をしてからエクスが説明モードに入る。
「白い部屋の神はオルトヘイムと呼んでいましたが、この世界にはいわゆるモンスターが実在しているそうです」
「つまり、モンスターを倒すと魔力水晶がドロップするので、それをチャージして、異世界で頑張ってねみたいな?」
「その通りです。とりあえず、10万個ほど配布石を頂いています」
「配布石」
むしろ、詫び石なのでは? 俺は訝しんだ。
だが、続く言葉に、そんな疑問はあっさりと消え去る。
「お望みなら、石1個300円でオーナーの口座に振り込めますよ?」
「マジで!?」
「各種電子マネーとしても使えます」
「マジっすか……」
3000万。
3000万かよ……。
億に行かないところが妙にリアルというか、なんというか。
まあ、俺の金ってわけでもないけど、3000万か……。
「ただし、石2万個はすでに使い道が決まっています」
「600万!? ナンデ!?」
「オーナーを健康体にする《レストアヘルス》のスキルと、言語翻訳の能力を付与する《トランスレーション》のスキルに石1万個ずつです」
「翻訳はともかく、健康は……」
「未知のウィルスに冒されたり運んだりしても構わない。インディアンの毛布に俺はなる! という覚悟があるのなら構いませんが?」
「あ、はい。すみません」
いつの間にか俺の肩に乗っていたエクスに、速攻で謝罪した。
さすがに、未知の病原菌のキャリアになるのは洒落にならない。
「納得していただいたら……はい。アプリショップを出しますので、タッチしてください」
「指紋認証だったのかよっていうか、石をもらったのはエクスだろ?」
「オーナーはエクスのオーナーなのですから、新規スキルの取得にはオーナーの許可が必要になるのは当然です。もちろん、エクスも適宜石を消費する権限は持っていますが」
「共有財産って感じか」
「むしろ、エクスからのお小遣いだと思ってください」
「ヒモだった!?」
いやいや。頑張ってモンスターを倒せば、石も増えるんだよな? つまり、今の状況は面接に行くための電車賃をもらってるようなもの。
……ヒモだった。完膚なきまでに。
「それはともかく、ささっと認証してください」
肩の上のエクスが、踊るようにして俺を急かす。
言われるままに画面をタッチすると、続けてチャリーンという軽快な音が二回鳴った。
これで、俺は健康体になったうえに、未知の言語を読み書きできる能力が備わったらしい。
まったく自覚症状ないけどな。
「あ、アプリを購入して衣装チェンジできるようになったようです」
「なん……だと……?」
エクスの巫女服風の衣装が粒子のように解け、今度は白いナース服になった。これが、《レストアヘルス》の衣装らしい。
続けて、ナース服から四角い帽子にガウンの学者っぽい服に変わった。
「状況に合わせて着替えて、オーナーの目を楽しませることも可能になりました」
「それは、どうもありがとう……」
で、いいんだよな?
「ああ、そうだ。ちなみに、ホームアプリの実行にはいくらかかるんだ?」
「石5000個です。ただ、一定期間か、ある程度追加チャージしないとアンロックされない仕様のようですが」
元の巫女っぽい衣装に戻ったエクスが即答した。
しかし、石5000個か……。
「すぐには帰れなくて、帰れても150万円必要か……」
「宇宙に行くよりは安いですよ」
「それもそうか」
まあ、決まっているものは仕方がない。常時、石5000個。いや、往復で1万個は残しておくべきか。
となると、使えるのは石7万個。
「納得していただいたところで、オーナーにはこのオルトヘイムで生き延びるためのスキルを取得してもらいます」
「そう来るとは思ったけど、情報がゼロで選びようがないぞ」
だから、後回しにしたい。
そう言おうとしたところで、俺の目の前に回ったエクスが前屈みになって人差し指を左右に振る。
まるで、すべてお見通しだと言わんばかりに。
「分かっています。スキル選びで失敗したらポイントもったいないし……と、結局ゲームをクリアするまでスキルを取らなかったオーナーのことは、よーく分かっています」
「いや、命がかかってるし、今回はさすがにそこまでじゃ……」
「分かっています。アイテムショップのウィンドウ切り替えに気付かず、ドロップアイテムだけで大作RPGをクリアしてしまった無自覚縛りプレイの達人であるオーナーのことはよぅく分かっています」
「あ、はい」
まあ、エクスの指摘はともかく、選択肢を絞ってもらえるのはありがたい。
「で、結局、おすすめは?」
「《水行師》。これこそ、エクスがオーナーにおすすめするスキルです」
「水使い……。まさか、エクス……」
「知らないですよ? オーナーの黒歴史.txtとか全然知らないです」
俺は、思わずタブレットを落としそうになった。
「アルビノ」
「びくっ」
「呪われて不老不死」
「びくびくっっ」
「触れた相手の水分を奪い取ることから、裏社会では吸血鬼と誤解されている」
「びくびくびくっっっ」
大丈夫だ。俺のライフは、まだゼロだ。マイナスじゃねえ。
「それはともかく、馴染み深い能力のほうが使いやすいはずです。習得には、かなりの石を消費してしまいますが」
「……命には代えられないだろ」
「ありがとうございます。トラックに轢かれたばかりのオーナーの言葉だと重みが違いますね!」
だよねー。
異世界では、安全第一で行きたいものだ。
「心配ご無用です。もう二度と、オーナーを傷つけさせたりしませんから」
「エクス……」
「では、石5万個消費の承認をお願いします」
「高いな!」
日本円にして1500万円の買い物。
未経験ゾーンに震える親指で認証し――
「ほんとに、課金しなきゃダメ?」
「諦めてください」
――俺の異世界生活は、始まりを告げた。