「は、は、はっくしょん!」
クロの尻尾に鼻をくすぐられたタカラは、くしゃみと同時に上半身を起き上らせた。
「あれ、体が軽い。すっごくよく寝た気がする」
布団の周りに散らかっているスウエットやタオルをどかし、スマホを発掘して画面をつけると、鬼上司から着信50件の履歴が表示された。
「ひー!! まだ7時半なのに何でこんなに着信が! って、あれ? 日付が最後の記憶より3日進んでる?!」
「そりゃそうにゃ。3日間寝てたんにゃから」
「3日も寝てたのか。どうりで体が軽いはずだよ。そういえばお腹めっちゃ減ってる…じゃねーよ! 3日寝てた? ヤバッ! え、でも、待って。今から行ったところでどうにかなんの? ならねえって! けど、あの会社からばっくれられるわけない! やっぱ行かないと!」
「この社畜にゃ!」
玄関に向かおうとするタカラの足にクロが飛びついてきて、前足でしがみつきながら反転し、後ろ足でバシバシ蹴ってきた。
「トルネード攻撃! かわいいけど痛いやつ!」
「いい加減気づくにゃ。吾輩しゃべっとるし、尻尾も二股でこんなキュートなハートも作れるんにゃよ」
クロは二股に分かれた艶々の長いしっぽを合わせてハートの形を作って見せた。
「かわいい! 写真撮っとかないと。ていうか猫の一人称ってやっぱり吾輩なんだ」
スマホで撮影していると、クロがジャンピングアタックでスマホを叩き落とした。
「あっ、クロ!」
「アホにゃ! いくら吾輩がかわいいからって今は撮ってる場合じゃないにゃ!」
「そうだ、会…社?」
タカラは口と目を見開いて固まり、真っ黒な瞳でこちらを見上げてくるクロの顔をじっと見つめた。
「どうしたにゃ?」
タカラはへらっと笑って、クロの艶々で触り心地最高の頭をよしよしと撫でた。
「さすがに気づいたよ。これ、夢でしょ」
「夢じゃなくて現実にゃ!」
クロがすかさず、タカラの手の甲に猫パンチをお見舞いしてくる。
「痛いけど、かわいいから許す!」
「痛いんだから現実にゃ」
「夢だと痛く感じないとか迷信だって。夢で鬼部長に殴られたことあるけど、マジで痛かったし。ていうか、クロの尻尾が二股になってしゃべるとか現実なわけないって。それに、3日寝過ごして鬼部長からの鬼電って、現実だったら不幸すぎるっしょ。さすがにそろそろ起きなきゃ。遅刻が現実になったら笑えねえって。起きろ、俺!」
自分の頬をバシバシ叩き続けるタカラを、クロは呆れたような半目でじとーっと見つめた。
「もう起きてるにゃん。タカラが寝てる間に、吾輩が代わりに電話に出て会社辞めるって言ったにゃん。そしたらあの部長とかいう人間、吾輩に向かって高圧的で傲慢な態度とってきたにゃんよ。むかついたから貧乏神に協力してもらって、そいつと、ついでに会社も祟ってもらったにゃん。今頃、あの人間は仕事も家族もなくして一文無しで路頭に迷ってるはずにゃ。会社もじわじわ倒産に追い込まれてるにゃん」
クロは人間のようにニヤリと口を開き、不敵な笑みを浮かべる。タカラは一瞬背筋がひやっとして身震いをした。
「でも、安心するにゃん。タカラの未払いの給料と退職金払うよう脅しといたから、振り込まれてるはずにゃん」
「いやいや、そんなまさか。まさか、ねえ」
信じられないながらも、通帳の入金履歴をスマホで確認したタカラは表情が固まった。
「一、十、百、千、万…350万! 就職応募サイトに記載されてた年収分プラス50万が入ってる! あのサイト、幻じゃなかったんだ!」
「これで分かったかにゃ? 全部現実にゃ。吾輩が新しい仕事を仲介してやるから、ブラック企業のことは忘れて転職するにゃ」
クロは玄関に行くと、呆然としているタカラを振り返った。
「今から職場に行くから、早く髭剃って寝癖直して、きれいなスーツに着替えるにゃ」
「全然意味分からんけど、クロが転職先を斡旋してくれるってこと? やっぱり夢だってー。何で猫が仕事の仲介するんだよ。働きすぎてとうとう夢の世界までおかしくなったんだ。そうに違いない」
「ブツブツ言ってにゃいで早くやるにゃ!」
尻尾をブワッと逆立ててシャーッと牙をむき出しにしたクロに追いたてられ、タカラは髭を剃って髪の毛を整え、就活の時以来着ていないリクルートスーツに着替えると、一足しかない履き潰したボロボロの革靴を履いた。
タカラの肩にクロが飛び乗り、右前足をドアへ向けた。
「開けるにゃ」
「ほんとに転職できんの? ていうか、クロがしゃべってる時点で現実味まったくないんだけど。あの会社を退職できたのも、350万の入金も、やっぱり夢でしたとかなんじゃないの?」
「疑り深いやつにゃ。いい加減現実を受け入れるにゃ」
「そんな簡単に言うなよー。限界がきて精神錯乱した自分が見せてる夢にしか見えないって」
「百聞は一見に如かずにゃ。とにかくドアを開ければ分かるにゃ」
「じゃあさ、一応聞くけど、仲介してくれる転職先ってどこ? クロのおやつのにゃおにゅーる作ってる会社とか?」
「にゃおにゅーるはウマイけど、残念ながら人間界に吾輩のつてはないにゃ。妖界役所の所長をやってる古い知り合いが、新部署で働ける人間を探してたんだにゃん」
「ようかいやくしょ? 新部署?」
「人間界に住むあやかしの、相談窓口の責任者にゃ」
「はあ? なんだそれ。これ絶対、夢だって!」
「つべこべ言ってないでドアを開けるにゃ。いざ、妖界へ出陣にゃ!」
「普通のドアだよ、これ。開けたら異世界にいってるとか、そんなわけないじゃん。出陣って言われてもさ、どうせいつもと同じ道しかない……」
クロの言うことを全く信じていないタカラがドアを開けると、見慣れたアパートの前の小道、ではなく、狭いか広いかも分からない暗がりの空間が広がっていた。
目の前には、考える人の像がありそうな地獄の門に似た巨大な扉がそびえ立っている。ポカーンと口を開けたタカラはアホ面で6メートル以上もありそうな扉を見上げた。
「これ、ロダンの地獄の門? 俺、死んだ?」
「アホにゃ! タカラを死なせないために退職させたのに、死んでるわけないにゃ! これは妖界へ続く扉にゃ。吾輩を抱っこするにゃ」
「えっ、いいの? クロ様! 抱っこさせていただきます!」
クロの背中側からそっと抱き上げ、片方の手で両脇を支え、反対の手でお尻を支え、自分の胸に密着させるようにして縦抱きにした。
「扉の目の前まで近づくにゃ」
言われた通り足を前に踏み出して扉から10センチ程の距離まで近づいた。クロが濃いグレーの肉球をピタッと扉に押し付ける。
「妖界へ導く扉よ、開くのにゃ!」
すると扉はゴゴゴゴゴと岩が地面を削るような重々しい音を立てて開き始め、少しずつ光が差し込んできた。
タカラは眩しすぎる輝きに思わず目を閉じた。