『オープン・ザ・ワールド』
ザ……。
空が、一瞬だけざらついた。
砂嵐のようなノイズが視界を走り、現実の幕がほんのわずかに裂ける。
次の瞬間、グラウンドの風景が変わった。
白線は淡く発光するホログラムの魔法陣へ。器具庫のシャッターには、黒く禍々しい怪物の影。空中には、無数のアイテムカードが光を散らしながら浮遊している。
「すっげぇ!」
「マジVRかよ!」
騒ぎ出すクラスメイトたちをよそに、俺は無言でジャージの袖をまくった。
そして、色のない視線でフィールド全体を見渡す。
(……この構造、見覚えがある。例のβ版ゲームと、ほぼ一致。だが、現実の演算はチュートリアルよりも遥かに凶悪だ)
馴染み深い仮想世界が、俺の現実へと降臨していた。
「はいはい、整列ー!」
出てきたのは、シルディム科目担当――三田。
上半身は体操服。下半身は競技用の競パン。
筋骨隆々な肉体が妙に映える、ある意味バグじみたスタイル。
そして、もっこり……が、見えてはいけないものさえ現れていた。
「シルディムにおいて、臨機応変な判断を養うための実践的な授業だ。みんな、手を抜くんじゃないぞ!」
「あのぉ! 先生、はみ出てます! 大事なところがエンゲージされてません!」
「ん! 細かいことは気にするな! この肉体こそが教育の最前線だ」
「なんのだよ!」
「さぁ! さぁ! どうだ、この質感は!? 夢にまで出てきそうだろ!?」
「来るなぁぁぁ!」
逃げ出す男子生徒。振り返って視界に入ってくるのは、女子たちのシルエットだった。
目の保養である。
「オオオオ……」
男子より露出が少し多く、シャツは短めで、下はハイレグ型のスイムショーツ。
その中でも、意識せずとも目に入る――陽乃の、引き締まったふくらはぎ。
陶器のように白い太もも。シャツの隙間から覗く、柔らかな脇腹のカーブ。
(……見ていない。俺は、見てなどいない)
「フフフ……諸君、スマートフォンのカメラの用意はできたかな! 僕はこの日のために最新のスマートフォンに機種変更したからね! 準備にぬかりはないよ!」
隣で吉田が妙なテンションで語っていた。
「下心がスキルカードなら、お前はSSRだな」
と、誰かが冷静に突っ込む。
「シルディムではランキング一位でも、運動の一番は僕だよ! 実技は得意なんだ!」
「そうか……なら一位は譲ってやる」
「何を言うんだい? 嶺くん!」
「近い近い。お前なんかクサイぞ?」
「案ずることはない! この吉田新平が君に勝利を捧げよう!」
「わかったから、離れ……うぉえぇぇ」
「トイレで大きい方した後、蛇口が壊れていたからね! 少しこべりついたけど、洗ってないんだ。そのせいだよ、きっと!」
肩を叩かれる。
「触るなぁ!」
「ハハハハハハ!」
駄目だ、聞いてない。こいつから少しでも離れよう。俺は視線を前に戻した。
モテなどという不確かな概念に振り回されるのは、愚者のすることだ。
「どうせ体育テストも1位だよ。なんたって、学年主席だし。走るだけで女子の視線全部かっさらうに決まってる!」
また勝手にフラグを立ててくる連中。
「みんなー! 準備はいいか! ルール説明は資料を見ろ! 読解力もシルディムの重要なスキルだ!」
カードラン・バトル。ルールはこうだ。グラウンド上に点在する借り物カードを拾い、そこに書かれたアイテムを持ってゴールを目指す。体力、判断力、羞恥心――すべてが試される、実践型のトレーニング。
「準備はいいかい? 嶺くん!」
隣で吉田が、キメ顔で構えている。金魚のフンみたいにひっついてきやがる。
「感じないか?」
「何をだ?」
「僕たちは、視観されている! 女子たちに」
「だれもお前のことは見てないぞ」
「いいかい?! モテは速さ。速さはモテ。等号関係にあることは義務教育で学んだはずだ。今、走るということはッ……恋愛において大きなアドバンテージを得るチャンスなんだよ!」
「小学生かよ……」
「何を隠そう僕はこの脚で、時速35キロを出せる……ついに、モテ期到来だね!」
「……なら走って、現実と向き合え」
三田がピストルを空に構える。その動きに目を向けながら、俺は改めて深呼吸した。クラスメイトたちの笑い声や軽口が、遠ざかるように感じられる。
(……冷静に、だ。状況をしっかり把握して、必要な動きをするだけ)
「よーし。心の準備はできたなぁ、位置についてー……よーい!」
乾いた音がフィールドに鳴り響く寸前、隣で吉田が叫んだ。
「僕が一番だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
勢いよくダッシュを決め込んだ吉田だが、明らかに逆方向へ飛び出していく。その姿を、俺は半ば呆れた目で追った。
「ちょっ……吉田、そっちじゃねえ! 逆! 逆!」
クラス全員の視線が集中する中、三田がドヤ顔で高らかに宣言する。
「すまんなぁ、吉田ぁ! 不正対策バッチリの仮想空間なんだ。お前は、今から走ってもゴールすることはできない。一周するたぴに周回遅れになる」
「な、なにぃぃ! 図ったなぁぁ!」
「不正したやつの台詞じゃない!」
吉田は走る。ただ、ひたすらに走る。そして、彼の愚直な姿を横目に、俺たちの「カードラン・バトル」は始まった。
(さて、プラカードはこれか……)
フィールドを駆け抜ける音が周囲を埋める中、俺は最初のカードにゆっくりと手を伸ばす。かすかにカードが光る感触とともに、浮かび上がる文字――
『借り物:陽乃のスカート』
その瞬間、頭の中の時間がピタリと止まるような感覚に襲われる。
(……終わったかもしれん)
*
誰もいない更衣室で、静けさの中に西園寺拓真の低い笑い声が響く。
彼はカバンの中から取り出すと、手際よく黒板の上にカメラを仕込む。そして、スマートフォンで画面を確認すると、教室の隅々まで映し出された映像が広がっていた。
「これで奴も終わりだ。……悪く思うなよ」
その言葉に込められた暗い響きが教室の空気をわずかに変える。眩しい光が窓から差し込む中、影だけが妙に長く映り込んでいた。