ソフィア・エレナは王都の郊外に広大な領地を持つ、グランヴェル伯爵家の令嬢である。生まれながらにして上品な立ち振る舞いを身につけ、控えめながらも凛とした美しさを漂わせる彼女は、どこへ行っても人々の羨望を集める存在だった。
だが、そんなソフィアにも悩みがあった。それは、幼い頃から国王家の王子との婚約が決まっていたこと――そして、その婚約の裏に政治的思惑がうずまいていることだった。
彼女の婚約者であるエドワード王子は、王国の第二王子にあたる。第一王子である兄が病弱で、いつ王位を継承できなくなるか分からない――その可能性を考慮した国王が、急遽エドワードの将来を確固たるものにすべく、最も血筋の良い公爵家や伯爵家から花嫁を選定しようとした。そこに白羽の矢が立ったのが、当時まだ幼かったソフィアだったのである。
幼いソフィアは、「王子様のお嫁さんになる」ことを周りに祝福され、漠然とした憧れとともにその立場を受け入れてきた。けれど、歳を重ねるにつれて感じ始めたのは、王宮の中でも特に権力を握る貴族や王族の男性には、王家の『駒』として従わなくてはならないという窮屈さだった。いまだに父であるグランヴェル伯爵は、国王や王子に媚びへつらうように家門を支えている。その様子を見れば見るほど、ソフィアはこの結婚が何のために用意されたものなのかを考えてしまう。
ソフィアはただ、『愛されるために結婚したい』と願っていた。しかし生まれた家柄と、王国が置かれた複雑な政治情勢。これらを乗り越えて純粋な愛を手にすることが、どれほど難しいか。幼少期は無邪気に王子に憧れていたが、成長するにつれその憧れがどこか歪んだ現実に呑み込まれていくのを、彼女ははっきりと感じ取っていた。
それでもソフィアは、エドワード王子が優しい人間であってほしいと信じていたし、王子が賢く、誰かを思いやれる人物であるならば、それなりに幸せになれるのではないかとも思っていた。――少なくとも、数日前までは。
現在、彼女は奇妙な胸騒ぎに苛まれている。ここ数日でエドワード王子の様子が明らかにおかしかった。
いつもは定期的に贈り物が届くのだが、それがぱったり止んだ。王子の侍従からの連絡も滞り、文通の返事もこない。何かあったのではないか――そう考えるには十分な兆候がいくつもあったが、ソフィアの周囲は「大丈夫、きっとご公務が忙しいのでしょう」と気休めの言葉をかけるばかりだった。
しかし、本能的にソフィアは分かっていた。「これは何かある」と。その予感は的中することになる。
ある日の朝、いつになく慌ただしい空気をまとったグランヴェル伯爵が、ソフィアの部屋を訪れた。父は普段の落ち着きを失い、まるで幽霊を見たかのように青ざめた表情をしている。
「……お父さま、どうなさいましたの?」
ソフィアが問いかけると、伯爵は痛ましそうに眉間にしわを寄せながら、娘をまっすぐに見つめた。
「ソフィア……。話があるのだ。実は、先ほど王宮から正式な書簡が届いた。そこには、お前とエドワード王子の……婚約を破棄する、と」
「……! 婚約、破棄……ですか?」
一瞬、意味が理解できなかった。高貴な身分である王子が、一方的に婚約破棄を宣言するなど、あり得ない話だと思っていたからだ。だが、父の顔を見れば、それが現実に起きていることなのだと理解せざるを得ない。
「どうして……どうしてそんなことに?」
「詳しくは書かれていなかった。だが、国王陛下の御印が押されている以上、正式なものであることは間違いない……。おそらく、最近王宮で囁かれている“聖女”に関する話と関係しているのだろう」
「聖女……?」
この国では、定期的に“聖女の伝承”が噂になることがあった。神から選ばれた存在であり、その者が国を救済する力を持つのだという。近年、王都で“新たな聖女”を名乗る令嬢が現れたらしく、王子がそれに熱を上げている――そんな噂話はソフィアの耳にも届いていた。だが、まさかそれが自分の婚約の破棄に関係しているなどとは、思いも寄らなかった。
「そんな馬鹿な……。だって私は……」
「ソフィア、落ち着きなさい。今はまだ混乱しているだろうが、事実を受け止めるしかない。わたしも王宮に掛け合ってはみる。しかし、国王が自ら認めてしまった以上、わが伯爵家がひっくり返せる話ではないかもしれない。なんと無礼で、無責任な……」
伯爵は激昂しかけるが、やがてソフィアを気遣うように静かな声になる。
「お前が傷つく姿を見るのは、親として本当に胸が痛む。すまない……力になれなくて」
ソフィアは、そんな父の言葉すらどこか遠くに聞こえていた。頭の中が真っ白になり、自分が今どこにいるのかすら分からないほどの衝撃。だが、一方で、どこか納得している自分もいる。
(やっぱり……そういうことなのね)
エドワードのあの急な変化、突然の連絡の絶え間。すべてはこの結末を匂わせていたのだ。今更「嘘でした」と言われても、ソフィアは信じられないし、もはや動揺する気力もわいてこない。
ただただ、胸の奥が痛む。これまで「王子の婚約者」として生きてきた自分の存在意義が、根こそぎ否定されたような心地がした。
婚約破棄の知らせを受け取った日から、ソフィアは部屋に閉じこもりがちになった。表面上は平静を装っていても、心の中ではやはり大きな衝撃に打ちひしがれていたのだ。だが、この国の貴族社会は容赦なく、当人の心情などお構いなしに動き続ける。
次に彼女のもとへ舞い込んできたのは、なんと「新たな縁談」の話だった。
その話が正式に伯爵家へと届けられたのは、婚約破棄が公になってからわずか一週間後のこと。父が再び、息を切らしそうな勢いでソフィアの私室を訪れる。
「……ソフィア、入るぞ」
許可を得る間もなく扉が開かれ、伯爵がこちらを覗き込んでくる。ソフィアはベッドに座ったまま、うなだれていたが、父の切迫した様子を見て咄嗟に立ち上がり、姿勢を整える。
「お父さま。また何かあったのですか?」
「実は……先ほど王宮から、正式に“次の縁談”が決まったと通達があった。なんと、陛下自らがお前に……ヴァルフォード公爵との婚約を命じるそうだ」
「――公爵との婚約、ですか」
ソフィアが聞き返すとき、その声は自分でも驚くほど淡々と響いた。
ヴァルフォード公爵とは、王国内でも屈指の権力を誇る大貴族の一人だ。その家には歴戦の将軍や政治の枢要を担った人物が多く、一族の名は王国中にとどろいている。
そして現当主であるアレクシス・ヴァルフォードは、若くして公爵位を受け継ぎ、数々の武勲と手腕を示してきた人物――だが、その名声とは裏腹に、「冷酷な男」との悪名がついて回る。
聞くところによれば、戦場で敵兵に一切の容赦をしなかったとか、自国の裏切り者にも極刑をもって報いたとか、どれも眉をひそめたくなるような噂ばかり。
公の場では冷たく、感情を表に出さないため、「冷酷公爵」とも呼ばれているそうだ。さらに「女性にはまったく興味がない」という噂まである。自らが戦争へ駆り出され、国を守ってきた経験を考えれば、そうした冷徹さも必要だったのかもしれないが――結婚相手としては、全く魅力を感じない人物に思える。
「いったいどうして、そんな公爵が私と……?」
ソフィアはまだ状況が呑み込めず、呆然としたまま父を見る。伯爵は、まるで悲劇を嘆くかのように肩を落として吐息をこぼした。
「おそらく、国王陛下がソフィアを“持て余した”のだろう。最初はエドワードと結婚させるつもりだったが、それが破綻した今、お前が“厄介者”になってしまった。そこで陛下が、国内でも強大な権勢を誇るヴァルフォード公爵に半ば強制的に押しつけた……そういう流れだと推察している」
「押しつけた……」
ソフィアは悲しくなった。まるで、自分の意思や幸せなどどうでもいいかのように扱われている。たった一週間前に婚約を破棄され、今度は冷酷な公爵に嫁げと言われても、素直に気持ちが追いつくはずがない。
「わたしは……どうなるのでしょう。公爵が本当にわたしなんかを受け入れるのか、あるいは、結婚しても辛い結末しか待っていないのではないか……」
「ソフィア……」
伯爵は娘を慰めるようにそっとその肩に手を置いた。そして、俯く彼女の背中をさすりながら言う。
「心配はいらない……と言いたいところだが、正直この“政略”がどう転ぶかはわからない。しかし、お前が王家に嫁ぐのと同じくらい、あるいはそれ以上に、ヴァルフォード公爵家に入ることは大きな誇りになる。家の名はお前を守ってくれるだろう。それに、万が一にも不当な仕打ちがあれば、グランヴェル伯爵家は全力でお前を助ける。……わたしには、それくらいしか言えないのだ」
「……はい」
ソフィアは、声を震わせながらも懸命に応じた。そうだ、自分がどう思おうと、もはや王命には逆らえない。ならば、悲観するより前に自分にできることを考えよう。
かつてエドワードの婚約者だったときは、国王や貴族の動向を気にしてばかりで、あまり主体的に動けなかった。だが、もうあの頃には戻りたくない。今度こそ、自分の運命を自分の手で切り開きたい――そう、ソフィアは考え始めていた。
――そうして、いつの間にか翌週には“婚約者”として公に発表され、急速に話が進められていった。
国王からの布告が下されたその翌日、ソフィアはアレクシス・ヴァルフォード公爵に会うために、彼の私邸を訪れることになる。正確には「公爵邸へ招かれた」形なのだが、ソフィアの胸中には不安しかない。
(どんな人なのだろう……“冷酷”と噂されるあの公爵は)
馬車に揺られながら、ソフィアは自分の膝の上にあるハンドバッグをぎゅっと握りしめた。繊細なレースで飾られたそのバッグの端が、緊張のあまりくしゃりと音を立てるほど強く握り締められている。
窓の外に広がる景色は、王都の中心からやや離れた貴族街へと移ろい始めていた。街並みは石造りの豪邸や瀟洒な庭園が立ち並び、それだけでも圧倒されそうになる。
(わたし、ここで新しい婚約者と顔を合わせるのね……)
これまで、エドワード王子以外の男性と深くかかわったことはほとんどなかった。貴族の社交界で顔を合わせる機会はあっても、そもそも王子の婚約者という立場上、必要以上に接近することはなかったのだ。
そのため、男性と二人きりで会う状況自体があまりにも未知で、どう振る舞えばいいのか分からない。ましてや、相手は戦場で数々の武勲を挙げ、“冷酷公爵”と呼ばれる人物。その威圧感はどれほどのものか――想像するだけで気圧されそうだった。
到着したヴァルフォード公爵邸は、想像を絶するほど壮麗な建造物だった。大理石の柱がそびえ立ち、重厚な扉の向こうには広々としたホールが広がっている。使用人たちが一糸乱れぬ動きでソフィアを出迎え、丁寧に誘導してくれる。
その様子を見ただけで、公爵家の絶大な権勢を思い知らされる。グランヴェル伯爵家もかなり立派な家柄だが、ここまで圧倒的な規模と威厳を誇示されると、何とも言えない圧迫感を覚えてしまう。
侍女に伴われて広い応接間へと足を踏み入れると、そこに待っていたのは一人の青年だった。
(あの人が……アレクシス・ヴァルフォード公爵?)
ソフィアは、予想していた“冷酷な男”のイメージとの違いに、一瞬言葉を失う。
そこに立っていた男性は、確かに長身で引き締まった体躯をしており、軍人らしい鋭さや冷たさを感じさせる目を持っている。しかし、その容貌は――彫刻のように整った顔立ち、深みのある黒髪、薄い唇の端がわずかに上がるか下がるかの微妙な表情――まるで王都で一番の美貌を誇る騎士を見ているかのようだ。
彼はソフィアが部屋に入ると同時に、一礼するように頭を下げた。
「初めまして、ソフィア・エレナ嬢。わたくしが、ヴァルフォード公爵……アレクシス・ヴァルフォードです。まずは、先日の一方的な王命により、混乱を招いたことをお詫びしましょう」
低く落ち着いた声音で、静かに言葉を紡ぐ。眼差しは確かに冷たくも見えるが、その瞳は不思議なほど澄んでいる。
「とんでもございません。こちらこそ……お目にかかれて光栄です。グランヴェル伯爵家の娘、ソフィア・エレナです」
ソフィアはぎこちないながらもお辞儀を返す。するとアレクシスはすぐに、「お座りください」と促し、ソフィアをソファへと案内した。彼も向かいの椅子に腰かけ、テーブルをはさんでまっすぐにソフィアを見つめる。
その視線は、まるで人の内面を見透かすかのようで、ソフィアは居心地の悪さを感じた。しかし、不思議と不快ではない。圧があるのに、どこか優しさを含んだ視線。
「わたくしも驚きました。このような形で、貴女との縁談が持ち上がるとは想像もしておりませんでしたので。正直、王命とはいえ、どうするべきか大いに戸惑っております」
アレクシスは相変わらず静かな口調だったが、その言葉には嘘や誤魔化しがない。ソフィアは、そう感じ取った。
「そう……ですよね。わたしも同じ気持ちです。王子との婚約が破棄されたと思ったら、すぐに今度は公爵様との……。ですが、これが決定事項だというならば、わたしとしても前向きに受け止めたいとは思っております」
そう言いつつも、言葉が震えるのを抑えきれない。ソフィアは自分でも、いつものように落ち着いて振る舞えていない自覚がある。だが、それが当然だとも思う。
すると、彼はふっと息をついてソフィアを正面から見つめ直した。
「私が聞いたところによると、エドワード王子は“聖女リリアナ”を見初めて、そちらを正妃にすると言い始めたようですね。貴女がその犠牲になった……そう解釈してよろしいですか?」
「……はい。実際、わたしもそうだと考えています。細かい事情は聞かされていませんが、周囲の噂を総合すれば、そんなところでしょう」
「なるほど。貴女としては、不服を感じているのか?」
その問いかけに、ソフィアはしばらく答えられなかった。不服という感情はもちろんある。だが、それを超えて深い悲しみと屈辱がある。
「正直なところ……はい。ですが、もうどうにもならないことなのだと諦めています。国王陛下が認めてしまった以上、取り返しのつかないことですもの。もしこの話がなかったら……わたしはどうなっていたか、想像すらできません」
婚約破棄された挙句、行き場を失っていたかもしれないのだ。いかに伯爵家の令嬢といえど、王子から捨てられたという事実は社交界で大きく噂され、その後、ろくな縁談もないまま歳を重ねてしまう可能性だってある。
そんな未来を考えると、今こうしてアレクシスと話をしているのが、唯一の救いなのかもしれない――と、ソフィアは思い始めていた。
「……ならば、私からも提案がある」
「提案……?」
「まずは“お試し”でもいい。貴女が私に嫁ぐつもりであるならば、私は貴女を妻として迎え入れる用意がある。だが、もし私という人間が嫌だとか、どうしても受け入れられないということがあるのならば……そのときは、私に遠慮なく言ってほしい」
「そ、そんな……王命である以上、わたしに拒否権など……」
ソフィアは驚く。まさか、冷酷公爵と呼ばれる人物から、こんな“気遣い”とも言える言葉をかけられるとは思っていなかった。
だが、アレクシスはさらに言葉を続ける。
「確かに、形式上は王命だろう。しかし、結婚は二人のものだ。王に押しつけられて、不幸になるような決断をする必要はない。たとえ貴女が“断りたい”と願ったところで、私にはそれを咎める理由はないからな」
静かに、だが揺るぎない調子でそう語る。その目からは、冷酷さというよりも真摯さが感じられる。ソフィアは思わず瞳を見開いた。
――王命に逆らうことは、普通ならば許されない。ましてや相手は公爵と伯爵家の縁談。政略結婚として注目される一方で、実際には双方の意思が蔑ろにされがちだ。
なのに彼は、こんな風にソフィアの意思を問うてくれている。
(冷酷公爵って……本当に冷酷なのかしら?)
胸の奥で小さな疑問が生まれる。噂は噂に過ぎないのではないか――と。
応接間での会話はさらに続いた。近況報告や互いの立場を確認する程度だったが、最初の緊張は不思議と薄れていく。アレクシスの言葉には、どこか人を和ませる落ち着きがあった。
「そうだ、ソフィア嬢。もし時間が許すならば、庭を少し歩きませんか? ここには、私が育てている花があって……いや、無理にとは言いません」
「……いえ、わたしもぜひ拝見したいです」
この誘いを断る理由はない。むしろ、一刻も早くこの人物のことを知りたい、そう思ってしまっている自分に気づいて、ソフィアは少し戸惑う。
彼に続いて屋敷の裏庭へと足を踏み入れると、そこには広大な庭園が広がっていた。季節の草花が彩り豊かに咲き乱れ、その奥に小さな温室があるのが見える。
「ここの温室で育てている花は、戦場での疲れを癒やすために私が趣味で始めたものなんです。私の父が生きていたころは、まったく興味のなかった分野でしたが……」
そう言いながら、アレクシスは温室の扉を開ける。そこには珍しい薬草や香り高い花々が所狭しと並んでいた。華やかながらも、どこか落ち着きを感じる空間だ。
「素敵……。こんなにたくさんの花を大切に育てていらっしゃるのですね」
ソフィアは思わず息を呑んだ。色とりどりの花たちが、日の光を受けてきらめいている。こうした花を見るのは好きだったが、自分で育てる機会はあまりなかった。伯爵家にも庭はあるが、専属の庭師が管理しており、ソフィアが口を出すことはほとんどない。
アレクシスは温室の奥へ進むと、紫がかった繊細な花弁を持つ一株を指し示す。
「これは“ミスティ・ブルー”と呼ばれる品種で、夜露を浴びると淡い青色から濃紫へと変わっていく。その色の移ろいが美しい。しかも、摘み取って乾燥させると、鎮静効果の高い薬になるんですよ」
「まあ……! そんな不思議な花があるのですね。初めて見ました」
ソフィアは驚嘆の声を上げる。アレクシスはどこか誇らしげだが、その表情にはわずかな寂しさも混じっているように見えた。
「……戦場では、多くの兵が傷ついて倒れる。そんな彼らを助けるために、私も色々と学んだのです。薬草の知識や、応急処置の方法。戦争がなければ興味を持つこともなかっただろうが……」
「公爵様……」
その横顔には、確かに悲しみや苦悩の痕跡が宿っている。冷酷と噂される人間とは思えないほど、彼は人の痛みに寄り添っているではないか――そう、ソフィアは直感した。
一瞬、二人の視線が交わる。微妙な沈黙が落ちるが、嫌な気配ではない。むしろ、ソフィアは胸が熱くなるのを感じた。
こうして、初対面の場でソフィアは感じる。
(この人は……思っていたよりずっと優しい人かもしれない)
確かに冷たく見えるかもしれない。だが、それは多くの修羅場をくぐり抜けてきたからこそ身についた落ち着きと強さであって、決して情の欠片もないわけではない。
そう実感したとき、ソフィアの胸にあった警戒心は大きく揺れ動き始める。結婚という形はともかく、この人の傍なら、自分は“政略結婚の道具”以上の存在になれるのではないか――そう思えてしまう。
だが、一方でソフィアの中にはまだ癒えていない傷もあった。婚約破棄という屈辱的な出来事に対するショック。王子への失望。そこから完全に立ち直るには、まだ時間が必要だ。
そんな繊細な心境を抱えつつも、ソフィアはアレクシスとの初対面を終えた。その帰りの馬車の中、彼女は窓から差し込む夕暮れの光を眺めながら、静かに思いを巡らせる。
(今度の婚約は、本当にわたしの幸せに繋がるのだろうか……)
でも、ふと心のどこかで囁く声がある。
(いや、前の結婚は政略だったけれど、今回だって同じ。公爵だって、もしかしたら本当は迷惑に思っているのかもしれない……)
けれど、あの優しい眼差しは嘘をついているようには見えなかった。
(どうするのが正解なの……?)
思い悩むソフィアの胸は、もはや穏やかとは言い難い熱を帯びていた。王子との婚約では感じたことのない、むず痒いような感覚に戸惑いながらも、彼女は自分の心の中に新たに灯った小さな火が、風に消されないようそっと守ろうとするのだった。
――だが、そんな淡い想いを育む間もなく、王宮から一通の召喚令が届く。
そこには、「近日中に正式な婚約発表の場を設けるため、王宮へ出向くように」と記されていた。通常ならば、もう少し時間をかけて両家が話し合い、婚約発表の日取りを決めるものだが、どうやら国王は急いでソフィアとアレクシスを結びつけたいらしい。
(どうして……?)
ソフィアには理由が分からない。ただ、父の伯爵も苦い表情で言う。
「おそらく、王子の婚約破棄が予想以上に世間の反感を買っている。そこで、新たな縁談を急いで進めることで、国民の目をそちらに向けたいのかもしれない……」
「そんな……勝手な話ですわ」
国王の都合で振り回される。だが、今のソフィアにはそれに異を唱える力はない。王家から指定された日時に、アレクシスとともに王宮を訪れることになる。
迎えた当日、ソフィアは意を決して王宮へ足を運んだ。青いドレスに身を包み、伯爵家の侍女たちとともに中央広間へ通されると、そこには豪奢な装飾が施されていた。
国王や王妃、そしてエドワード王子の姿も見える。さらに、その隣には、長い金髪を揺らしながら顔を上気させる一人の令嬢が立っていた。――彼女が噂の“聖女リリアナ”だろう。
王子の腕に軽く触れながら、まるで“勝ち誇った”かのような笑みをソフィアに向けてくる。その表情は、目立つほどの美貌と相まって強烈な印象を与える。
(あの方が、王子を奪い取った人……)
そう考えただけで、胸の奥がチクリと痛むが、今のソフィアにできることは何もない。ただ静かに頭を下げるだけだ。
一方で、アレクシスはそんな彼女の隣に立ち、いつもの無表情を崩さない。国王に対して軽く敬礼すると、落ち着いた声で報告を始める。
「この度、陛下のご厚意により、グランヴェル伯爵家のソフィア・エレナ嬢と婚約させていただくことになりました。改めて感謝いたします」
国王はどこか上辺だけの笑みを浮かべながら、即位式で使うような高座から二人を見下ろす形になる。
「うむ、アレクシス公爵。そなたほどの人物に、ソフィア嬢のような良家の娘が嫁いでくれるとは、我が国にとっても喜ばしい限りじゃ。これで王宮に巣食う厄介事が減り、皆が幸せになれると良いな」
国王はそう言うが、その視線はまるで「もう面倒は起こすなよ」とでも言いたげだ。ソフィアはその言葉に微かな不快感を覚えたが、黙って聞き流すしかない。
しかし、そのとき――
エドワード王子が唐突にソフィアの方へ目を向け、口を開いた。
「ソフィア……久しぶりだね。元気だったかい?」
その言葉を聞いて、ソフィアの全身に怒りと悲しみが湧き上がる。久しぶり? 元気だったか? 何を言っているのだ、この人は。まるで何事もなかったかのように……。
だが、王子の後ろにいるリリアナが、ソフィアを見下すような目で嗤うのが見えた。まるで「あなたは捨てられたのよ」とでも言いたげに。
(そう……もう、この人たちとは違う世界にいるのだわ)
ソフィアはかろうじて冷静を装い、「ええ、おかげさまで」とだけ答えた。これ以上関わりたくない。彼とリリアナのことなど見たくもない。
アレクシスはその様子を見ていたが、特に言葉を発しない。ただ、その瞳の奥で何かが燃えるように揺らめいた気がした。
こうして、国王の前で改めて「婚約」が宣言される。王宮の公的行事として、数日後にはさらに大勢の貴族たちを招いた宴が開かれる予定だ。
ソフィアはその日取りを聞いたとき、「こんなに早く?」と驚きを隠せなかったが、国王は「国民にも広く公表し、祝福されるべきだ」と言う。――要は「王子の婚約破棄」の不穏な雰囲気を早く打ち消したいのだろう。
誰もが王家に都合よく動かされている。だが、ソフィアは覚悟を決めるしかない。もう後戻りはできないのだ。
エドワード王子やリリアナの姿を見てしまったせいで、ソフィアの胸の中にはかつての傷が再び疼いた。だが、同時にアレクシスの誠実な態度は、彼女にわずかな光を与える。
(この人になら……もしかして)
そう思う自分がいることに、ソフィア自身戸惑いを隠せない。けれど、今はただ、自分の運命を受け止めるしかないのだ。
そして――
婚約破棄から始まったソフィアの新たな道は、予想だにしない波乱へと続いていく。
かつての王子や“聖女”リリアナとの確執、国王の思惑、そして“冷酷公爵”アレクシスの真意。すべてが絡み合いながら、ソフィアが思い描いていた“結婚”という形は大きく姿を変えていく。
しかし、まだソフィアは知らない。
これから訪れる日々が、自分にとってどれほど甘く、そして痛快な“ざまあ”へと繋がっていくのかを――。