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第2話 仮縁談の行方と冷酷公爵の甘い囁き

 王宮での正式な“婚約発表”が決まり、ソフィア・エレナは慌ただしい日々を送っていた。

 元婚約者であるエドワード王子との破局から、わずか二週間足らず。普通ならば、“新たな縁談”が持ち上がっても、正式な場での発表まで数か月はかかる。それにもかかわらず、今回は異様な速さで事が進んでいるのは、ひとえに国王の政治的都合が大きかった。


 ソフィアは、政略結婚というものがどういうものであるか――そして、それが上層部の思惑次第でいかに人の人生を翻弄するかを、いま改めて痛感している。

 そもそも、王子との婚約が破棄されたのも王家の内情によるものだ。エドワードの心が“新しい聖女”と呼ばれるリリアナへ向かったことが直接の原因だとはいえ、国王がそれを認めなければここまで大々的に決定してしまうことはなかっただろう。

 にもかかわらず、一度捨てられたソフィアを、今度はヴァルフォード公爵に押しつけてくる。自分の都合であれこれ動かされる人生に、強い憤りややるせなさを覚えないわけにはいかなかった。


 一方で、ソフィアの胸中には少しだけ救いとなる光がある。

 それは、婚約相手として名を連ねる“冷酷公爵”ことアレクシス・ヴァルフォードの存在だった。

 噂では「戦場の悪魔」だとか「冷徹非情の男」などと散々言われているが、実際に会話を交わしてみると、その印象は大きく覆る。確かに無口で表情にも乏しいが、彼はソフィアの意思を尊重し、時にささやかな優しさを示してくれた。

 初めて公爵邸を訪れたとき、温室の花々を見せてくれたことは、ソフィアにとって思いがけないほど心温まる出来事だった。冷酷だと言われる彼が、大切に花を育て、自らその魅力を語ってくれた。

 その落差こそが、ソフィアの心を強く揺さぶったのだと思う。――もし、彼が噂どおりの冷血漢であったならば、ソフィアは王家に従属するしかない自分の境遇を嘆きながら、ただ従っていくしかなかっただろう。しかし、アレクシスの奥に垣間見えた“優しさ”が、ソフィアの胸に小さな希望を灯している。


 もっとも、“希望”と言えるほど確信しているわけではない。二人はまだ、ほとんどお互いのことを知らないのだから。

 しかし、今度の婚約は――王子との婚約時代には感じられなかった『わたし自身を見てくれるかもしれない』という期待を抱かせる。以前のソフィアならば、「婚約が決まったのだから、従うしかない」と自分を押し殺していたかもしれないが、いまはほんの少しだけ、前向きになることができるのだ。


 その一方で、準備に追われる日々は、決して甘いばかりではない。

 婚約発表の場となる盛大な宴は、一週間後に王宮で執り行われる予定だ。そこには多くの貴族や大商人、軍の高官たちが招かれる。その宴に向けてソフィアは、新調するドレスの仮縫いや、公爵家へ嫁ぐにあたって必要な礼儀作法、立ち居振る舞いの微調整などを、怒涛の勢いでこなしていた。

「ソフィア様、こちらの靴の色とドレスの色味ですが、微妙に差が出てしまっております。どちらかを合わせた方がよろしいのでは……」

「こっちのヘッドドレスは地味すぎますか? 公爵家にふさわしく、もう少し華やかなものに変えるか……」

「王宮の殿下方だけでなく、聖女リリアナ様もお見えになると聞いております。ドレスの裾を少し長くして、気品を強調するのもありかと……」

 グランヴェル伯爵家の侍女たちが、次々と提案を持ちかける。そのたびにソフィアは、意識を集中して答えなければならない。使い慣れた伯爵家とはいえ、王子との婚約が破棄された直後の今は、彼女の心労も大きい。

(ふう……。忙しさにかまけて、ゆっくり考える時間すらないわ)

 それでも、侍女たちはソフィアのためを思って動いてくれているのだ。ここでいい加減な態度を取るわけにはいかない。ソフィアは微笑みを絶やさないよう気をつけながら、一つ一つ丁寧に答えていく。

 やがて時間が過ぎ、ようやくドレスの仮縫いと小物の打ち合わせが一段落したころ、廊下の向こうから足音が聞こえる。ソフィアの部屋を訪ねるのは、父であるグランヴェル伯爵だった。

「ソフィア、少しいいかな?」

「もちろんです。どうなさいました?」

 いつもは柔和な笑みを浮かべる伯爵だが、その表情はどこか心配そうでもある。ソフィアは侍女たちに目配せをし、部屋を出てもらった。

「実は……今しがた、王宮から使いが来たのだ。公爵様も同席のうえで、陛下と直接お話しする機会を設けたいとのことだ。どうやら、いくつか確認したいことがあるらしい」

「確認したいこと……? もしかして、わたしと公爵様の婚約に関する細部でしょうか」

「おそらくはそうだ。とはいえ、わたしも具体的な内容は聞いていない。かなり急な話でね……。明日の昼には王宮へ足を運ぶよう言われている」

「そんなに早く……」

 またしても、王家の強引さに振り回されるのか――ソフィアは苦笑せざるを得なかった。

「分かりました。わたしはいつでも伺います。公爵様もお越しになるのですね?」

「ああ。先ほど、ヴァルフォード公爵にも正式に連絡がいったようだ。返事はまだわたしの元に届いていないが、よほどのことがない限り、彼が欠席するわけはあるまい」

 伯爵が小さく息をつく。国王の命令には、たとえ公爵家と言えどもそう簡単に逆らえない。ましてや、今回はアレクシス自身も“婚約者”として公式に招集される立場だ。

「ソフィア、お前も疲れが見えているだろう。今日は早めに休んで、明日に備えるがいい」

「……はい。お気遣いありがとうございます、お父さま」

 そう答えながら、ソフィアの心中にはどこか落ち着かなさが募る。――エドワード王子やリリアナも、明日の場に同席するのだろうか。

 とにかく、今は父の言うとおり休むしかない。ソフィアは翌日の王宮で何が起きるのかを考えながら、少しでも精神を整えようと寝台へと向かうのだった。



---


翌日、王宮にて


 王宮に到着すると、すでにアレクシス・ヴァルフォード公爵が控えの間で待っていた。やはり軍人らしく、背筋が伸びた立ち姿には品位と威圧感が漂う。

 しかし、その姿を遠目に見たソフィアは、ほんの少しほっとした。公爵邸で見せてくれた“穏やかな横顔”を思い出し、なんとなく安心を覚えるのだ。

(どうしてかしら。以前のわたしなら、こういう存在感のある方は苦手だったのに……)

 だが、次の瞬間、アレクシスもまたソフィアに気づき、微かに目を細めるようにして微笑した。あまりに小さな変化で、周囲の者には分からないほど。しかしソフィアは、“あ、今微笑んでくれた”と直感する。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。ほんの些細な表情の変化にも意味を見いだしてしまう自分に戸惑いつつも、それが決して不快ではないことに気づいていた。


 国王との面会場所は、玉座のある大広間ではなく、もう少し私的な談話室のような部屋だった。普段は王族やごく近しい貴族が利用する場所で、金銀宝石をちりばめた豪奢な装飾が目を引くものの、広さ自体はさほどでもない。

 そこに通されると、すでに国王と王妃、そしてエドワード王子の姿があった。リリアナもいるのかと身構えたが、どうやら彼女の姿は見当たらない。

 ソフィアは安堵の息をつきかけたが、それも束の間――国王の隣で、エドワードがじっとこちらを見つめていることに気づく。ソフィアの背筋を嫌な緊張が走った。

 そんな彼女の様子に気づいたのか、アレクシスがさりげなく一歩前へ出る。国王に対し、礼を取ったあと、低く落ち着いた声で切り出した。

「この度の急な呼び出し、誠に恐縮です。陛下、何なりとご用をお申し付けください」

 その態度は、さすが公爵といったところだ。ソフィアもそれにならい、深く頭を下げる。

 国王は軽くうなずいて言った。

「うむ、急に呼び出してすまなかったな。実は、そなたたちの“婚約発表”に先立ち、いくつか確認しておきたい事柄があるのだ。エドワードも同席するのは、前の婚約破棄の経緯を踏まえてということだ。お互い、誤解なきようにな」

 その理由に、ソフィアはわずかに眉をひそめる。“お互い誤解なきように”という言葉は、聞こえはいいが、要するに「余計な混乱を起こすな」という釘を刺しているのだろう。

 一方、アレクシスはその言葉を受けても微動だにしない。むしろ、その端正な顔つきのまま静かに受け答えをする。

「承知しております。では、どのような確認事項でしょうか?」

「まず一つは、ソフィア嬢とそなたの縁談が、真に合意のもとであるということだ。なにせ、王子の婚約破棄があったすぐあとでな……世間にはいろいろと噂が流れておる。中には、“ヴァルフォード公爵がソフィア嬢に惚れ込んで、無理矢理婚約を勝ち取った”などと奇妙なうわさを口にする者もあるのだ」

 国王が小馬鹿にするような口調で言う。ソフィアはその噂の真偽に驚くよりも先に、“そんなことを信じる人がいるのだろうか”と呆れる思いだった。

(だって公爵様は、あくまで王命で仕方なく……という感じでしたわ。惚れ込んで、なんて……)

 けれど、ほんの少しだけ、胸にチクリと痛む感覚がある。

(もし、あの噂が少しでも本当なら、わたし……)

 そう考えかけたとき、アレクシスの低い声が彼女の思考を遮る。

「私からも申し上げましょう。確かにこれは国王陛下の勅命ですが、それを受けるかどうかは、最終的に私自身が決断したことです。そしてソフィア嬢の方も、私を受け入れる意志を示してくれた。……無理矢理婚約を勝ち取った、などという事実は一切ありません」

「そうか……。ソフィア嬢もそれで構わないのだな?」

 国王の視線がソフィアに向けられる。あからさまに疑っているわけではないが、その瞳には「違うと言ったらどうなる?」という牽制の色が見える。

 ソフィアは慎重に言葉を選びながら答えた。

「……はい。わたしも、突然の話に驚きはしましたが、公爵様が真摯に向き合ってくださることが分かりましたので、前向きに考えています」

「ふむ……」

 国王は軽く唸るように頷き、それから横に控えているエドワードをちらりと見る。

「エドワード、お前もこれで構わないのだな? 以前の婚約破棄に関して、ソフィア嬢の名誉を毀損するような事柄はないだろうね?」

 その問いに、エドワードはわずかに表情を曇らせた。しかし、すぐに取り繕うように薄い笑みをつくり、視線を逸らしながら言う。

「ええ、ありません。すべて、ぼくの……わたしの身勝手な思いが原因です。ソフィアを傷つけてしまったことは申し訳なく思っています。それに、彼女がヴァルフォード公爵と新しい道を歩むのであれば、ぼくはただ見守るだけですから……」

 その言葉だけを聞けば、いかにも“後悔している王子”のように聞こえる。だが、ソフィアは王子がまったく自分を見ていないことを感じ取っていた。どこか空虚な響きを覚えるのだ。

(何が“見守るだけ”なの……。あなたが本当にそう思うなら、あんな形で婚約を破棄したりしないはずだわ)

 とはいえ、これ以上波風を立てても仕方ない。ソフィアは黙している。アレクシスも特に言及はしなかった。


 こうして、一つ目の確認事項――「本当に当人同士が納得しているかどうか」――は、表面上はクリアした形となる。

 続いて国王が提示したのは、「結婚式の大まかな日取りを決めたい」という内容だった。こちらとしては、まだ正式に婚約の宴すら迎えていない段階で、式の日取りを決めるなど考えていなかったが、どうも王家は急いでいるらしい。

「聖女リリアナとの儀式の準備もあるし、色々と王宮は忙しいのだ。ヴァルフォード公爵とソフィア嬢の結婚式を、なるべく早めに執り行いたいと思っておる。こちらとしては、二か月後を目処にしてはどうかと考えているが……」

「二か月後……ですか?」

 ソフィアは思わず驚きの声を上げる。結婚式など、少なくとも半年くらい先だろうと考えていたが、この国王はそれを大幅に早めようとしている。

 アレクシスはちらりとソフィアを見て、「よろしいですか?」と尋ねるように視線で合図を送る。ソフィアは戸惑いを隠せないまま、言葉を探す。

 しかし、よく考えてみれば、先延ばしにしたところで王家の都合によって振り回されるだけだろう。むしろ早めに式を終えて、正式に公爵夫人になったほうが、ソフィアとしては立場を安定させられる可能性がある。

 迷いはあるが、ここで断ったところで、また別の面倒が増えるだけかもしれない――そう思い直し、ソフィアは小さく頷いた。

「はい。公爵様さえご迷惑でなければ……」

 アレクシスは静かに頷く。

「私も問題ありません。もともと、結婚式は落ち着いた頃に執り行うつもりでしたが……陛下のご意向を考えれば、二か月後に式を挙げるのもやむを得ないでしょう」

「うむ、そうか。ならば、改めて日程を詰めるとしよう。近く、式の準備については式典係や宰相が動くはずだ。よいな、エドワード」

 国王がエドワードを振り返る。どうやら、王子に式典の一部を任せるつもりらしい。エドワードは苦虫を噛み潰したような表情をしながらも、「はい、承知しました」と答えるだけだった。

 こうして、式の日取りまでもがあっさり決まってしまう。――ソフィアからすれば、人生の一大事だが、王家にとっては“厄介事の処理”に等しいのかもしれない。

 わずかに悲しさを覚えながらも、それでもソフィアはアレクシスという未来の夫の存在を思う。

(大丈夫……。公爵様がいてくださるなら、わたしはちゃんと前に進めるはずだわ)

 それがたとえ“政略結婚”だとしても、かつての婚約のように一方的に捨てられることはないだろう。アレクシスは、少なくともソフィアの心を無視する人物ではない――そう信じたい。


 そうして、国王からの要件は一通り終わり、ソフィアたちは部屋を辞することになる。

 部屋を出た直後、ソフィアは軽く息を吐いていた。気の張る面談だったせいか、全身が硬くなっていたように感じる。

 すると、隣にいたアレクシスが小声で囁いた。

「……お疲れのようですね。よければ、少し中庭を歩きませんか? 馬車のところへ戻る前に、少し気分転換をしたほうがいいでしょう」

 その提案は、ソフィアの心をそっと救うようだった。王宮の中庭――花々が咲き誇る庭園は、訪問者の疲れを癒やすためにも公開されている場所だ。王の許可があれば、自由に散策できる。

「ありがとうございます。……はい、ご一緒させていただきます」

 ソフィアは微笑を返し、伯爵と侍女たちに「少しだけお時間を」と告げると、アレクシスと並んで廊下を進んだ。



---


王宮の中庭にて


 噴水が中央に据えられ、周囲を取り囲むように色鮮やかな花壇が整備されている。その向こうには歴史ある彫刻像が点在しており、王家の権力と美意識を象徴するように佇んでいた。

 平日にもかかわらず、散策を楽しむ貴族たちがちらほらと見える。どこもかしこも優雅で、普段ソフィアが過ごす伯爵邸の庭園ともまた違った雰囲気だ。

 もっとも、ソフィアの目には「美しい」よりも「落ち着かない」場所と映る。なにせ、自分の婚約が破棄された経緯を知る人々も少なくないし、いまだに好奇の視線を感じることもあるからだ。

 けれど、いまは隣にアレクシスがいる。彼の存在だけで、奇妙な安心感があった。

 噴水の近くを通りかかったとき、アレクシスがふと足を止める。

「ソフィア嬢……今日の衣装、とてもよく似合っていますね」

「え……?」

 思わぬ言葉に、ソフィアは目を瞬かせる。彼女が身につけているのは、朝早くから侍女たちが準備してくれた青を基調としたドレス。胸元の飾りに小さな宝石があしらわれていて、光の加減でキラキラと揺らめく。

 アレクシスの言葉は、まるでささやかな賞賛のようだ。ソフィアは胸が熱くなるのを感じる。

(公爵様に、こんな直接的に褒められるなんて思わなかった……)

 気恥ずかしさを紛らわせるように小さく苦笑してしまうと、アレクシスは少しだけ首を傾げる。

「どうかしましたか? お気に召さなかったなら、謝ります」

「いえ、そんな! ただ、ちょっと驚いただけです。わたし、公爵様からあまり……こういうふうに言葉をいただいたことがなかったので」

 その答えに、アレクシスはわずかに口元を緩めた。

「私も、それほど言葉が得意なわけではありません。……けれど、貴女の姿が美しいと感じたのは事実です。もっと堂々としていいんですよ」

「公爵様……」

 さらりと口にする褒め言葉が、これほど胸に響くものなのか――ソフィアは自分でも驚くほど鼓動が早まるのを感じる。

 少し前までは、婚約という言葉すら聞きたくないほど傷ついていたのに。今こうして、アレクシスの言葉によって救われている自分がいる。

「ありがとうございます。……わたし、公爵様にそう言っていただけると心強いです」

 穏やかに答えるソフィアに、アレクシスはほんの少しだけうなずき、噴水の端へと視線を向ける。

 そこには、小さな水飛沫が太陽に照らされて虹色を放っていた。

「今はまだ、私たちは“政略結婚”という形から始まったに過ぎない。けれど、いずれ貴女が私を信頼し、心から“この男を夫にしてよかった”と思えるようになれば……そう願っています」

 突然の言葉に、ソフィアは一瞬息を呑む。まるで求婚の再確認のような――いや、もっと穏やかで優しい意志が込められているようだった。

 決して“愛の告白”などという大袈裟なものではない。だが、その言葉には揺るぎない真心が感じられる。

(この人は、本当にわたしのことを大切に考えてくれている……そう思ってもいいのかな)

 その答えを出すには、まだ時間が必要だろう。それでも、ソフィアの胸にじわりと広がる温かい感情は、もう否定しがたいほど大きくなっていた。


 そんな穏やかな雰囲気に包まれながら、二人はしばらく庭を散策する。数分もしないうちに、視線を遠巻きに送ってくる貴族たちが増えたが、ソフィアは気にせずアレクシスとの会話を続けた。

 しかし――

 ふとアレクシスが視線を上げると、少し離れた場所にエドワード王子の姿があった。どうやら、用事を終えてこの庭へ出てきたらしい。王子も二人に気づき、気まずそうな顔をしている。

 ソフィアは、なるべく関わり合いになりたくないという気持ちが先に立ってしまう。先ほどの談話室でのやりとりだって、ただ表面的に取り繕っただけだ。このまま距離を保っていたい――そう思ったが、エドワードのほうが先に一人で近づいてきた。

「ソフィア……。少しいいかな?」

 すぐそばまでやって来ると、王子は微妙にアレクシスの存在を気にしながら問いかける。

 もちろん、ソフィアはアレクシスと一緒にいるわけだし、今さら二人だけで話すつもりなどない。ソフィアは目を伏せて言う。

「何かご用ですか? 公爵様とわたしは、これから伯爵家へ戻らなくてはならないのですが……」

「……分かってる。すぐ終わるから。実は、あれからリリアナのことで……色々と……」

 一瞬、エドワードの声がかすれるように弱々しく聞こえる。ソフィアは驚きと戸惑いを覚えた。

(リリアナと何かあったのかしら?)

 だが、今この場で、それを聞く義務はソフィアにはまったくない。そもそも、彼が選んだ道である。ソフィアとしては干渉される覚えはなく、関心も持ちたくはない。

 しかし、相手は王族だ。あまりにも失礼な態度を取るわけにはいかない。ソフィアは言葉を慎重に選ぶ。

「リリアナ様のことは、わたしには関係のない話です。ですから、それに関してはどうかお構いなく……」

「そう言わないでくれ。君は……ずっとぼくの隣にいたはずなのに、こうして離れてしまうなんて……」

「――っ」

 その言いように、ソフィアは心底腹立たしくなる。

(“ずっと隣にいた”? それを踏みにじったのは誰だというの?)

 だが、その感情をストレートにぶつけるわけにはいかない。ソフィアは必死に自分を律する。

 すると、アレクシスが一歩進み出て、エドワードとソフィアの間に体を入れるように立った。

「王子……。貴方が何を思おうと勝手ですが、今やソフィア嬢は私の婚約者。以前のようにお気安く声をかけられては困りますね。何より、彼女の心を惑わすようなことはなさらないでいただきたい」

 低く、しかし毅然とした声音――まさに公爵にふさわしい威圧感がある。エドワードはぎくりと肩を震わせ、反論できない様子だった。

「いや……その、別に惑わすつもりは……」

「ならばいいのです。では、失礼」

 アレクシスはそれだけ告げると、ソフィアの手首を軽く引き、中庭の出口へと誘う。ソフィアは慌てながらも、その手に導かれるまま足を進めた。

 背後に取り残されたエドワードが、何か言いかけていたが、アレクシスは振り返らなかった。

(王子は……なぜ今さらそんな態度を?)

 怒りと疑問が渦巻く中、ソフィアはアレクシスの手から伝わる体温を感じ、少しだけ安心する。彼ははっきりとソフィアを“守る”ように振る舞ってくれているのだ。

 それが、何よりも心強かった。



---


帰路の馬車にて


 伯爵家へ戻るために用意された馬車に乗り込み、ソフィアは緊張が解けたのか、思わず深い息をついてしまう。アレクシスは隣に腰を下ろし、静かに彼女を見やる。

「先ほどは失礼でした。私が急に割り込む形になりましたから……」

「いいえ……むしろ助かりました。王子の言葉を聞いていると、どうにも気持ちが乱されてしまって……。自分でも困ってしまうんです」

 ソフィアは正直な胸の内を吐露する。エドワードに対する想いは、もう完全に吹っ切れたはずなのに、いざ向こうから話しかけられると、やはり感情がぐちゃぐちゃに乱される。

「それは当たり前でしょう。あの男は、貴女の心を踏みにじった張本人だ。思い出すだけで辛いのに、当人を前にして平気でいられるはずがない。……しばらくは、彼との距離を取るほうがいいですね」

「はい……そう思います。幸い、わたしはもう王子の婚約者ではありませんし、あの人に振り回される必要もないのですから」

 ソフィアの言葉に、アレクシスはどこか安堵したような眼差しを向けた。

「……ソフィア嬢、今日のところは本当にお疲れでしょうが、改めて礼を言いたい。貴女があの場ではっきりと私との婚約を肯定してくれたことを、私は嬉しく思っています」

 その言葉に、ソフィアは静かに目を伏せる。

「わたしは、公爵様に救われました。王子から捨てられたと思って落ち込んでいたとき……公爵様が“自分の意思で迎える”とおっしゃってくださったこと。それがどれほど心強かったか……」

 そう話しながら、自然と頬が熱くなるのを感じる。アレクシスはどんな表情をしているだろうかと、ちらりと横目でうかがうと、ほんの少しだけ微笑んでくれていた。

 ――こんな穏やかな時間が、これから先もずっと続けばいい。ソフィアはそう願わずにはいられない。

(婚約発表の宴が終わったら、もっとバタバタするのかしら……。だけど、公爵様と一緒なら、乗り越えられる気がする)

 王家の都合で早めに進められる結婚準備。そこに待ち受ける波乱を予感しながらも、ソフィアの心は確かな希望を育みはじめていた――。



---


その日の夜、グランヴェル伯爵家にて


 王宮から戻ったソフィアは、夕食もそこそこに部屋へ戻り、一人の時間を過ごしていた。

 大きな窓から差し込む月明かりを頼りに、椅子に腰かけたままぼんやりと今日一日を振り返る。

 国王の“確認”、エドワード王子の言動、そしてアレクシスとのやり取り――どれもが強い印象を残しているが、その中でもソフィアの胸に焼き付いているのは、公爵の言葉や態度の数々だった。

(彼は決して多くを語るわけではないけれど、少しずつ“本心”を見せてくれている気がする)

 “冷酷公爵”と呼ばれる男が、自分のために割って入り、王子と対峙してくれた。そして、あの控えめな褒め言葉――どれもが、これまでソフィアがエドワード王子に求めても得られなかったものだ。

 ――思えば、王子がソフィアを褒めることなど、ほとんどなかった。幼い頃に「可愛らしいね」と言われたことはあった気がするが、大人になってからは形ばかりの賛辞しか受けた記憶がない。彼の言葉はいつも浮ついていて、肝心なときに本気で向き合ってくれることなどなかったのだ。

(それでも、当時のわたしはそれで十分だと思っていた。王子からの愛を得ることを、どこかで諦めていた……。なのに、いまこうして、“他の誰か”から向けられるささやかな言葉で、これほど心が揺さぶられるなんて……)

 ソフィアは自分の頬が熱くなっているのを感じ、思わず両手でおさえる。結婚前の男女がここまで気持ちを昂らせてよいのか、と自問してしまうが、否定できない。

 ――アレクシスの存在を意識すればするほど、なぜか“捨てられた”悲しみが薄れていく。むしろ、あの婚約破棄があったからこそ、いまの自分があるのだと思える。

 だが、そう考えると同時に、嫌な不安も頭をもたげる。

(本当に、公爵様はわたしをどう思っているのだろう? ただ、国王の勅命だから仕方なく受け入れているのではないか? もしそうならば、いずれわたしも……)

 もう二度と、捨てられたくない。あの痛みは十分に味わった。婚約破棄がどれほど屈辱的で、精神を蝕むものか。できれば死ぬまで、あんな体験はしたくない――。

 不安と期待の狭間で揺れ動きながら、ソフィアはいつしか椅子に座ったまま眠りに落ちてしまう。翌朝目が覚めたとき、彼女の心の中には、まだ形にならない微かな期待と恐れが混在していた。



---


エンディング:宴に向けて


 やがて、あっという間に婚約発表の宴が近づいてくる。

 王宮で行われる盛大な宴――そこにはエドワード王子やリリアナも姿を見せるだろう。どのような波乱が待ち受けているか分からないが、ソフィアはかつてほど怯えてはいない。傍にはアレクシス・ヴァルフォード公爵がいて、彼はきっとソフィアを守ってくれる……そんな確信めいた思いがあるからだ。

 もちろん、それが“気のせい”に終わる可能性も否定できない。だが、その不安をかき消すほどに、ソフィアの胸は“少しずつ深まる感情”で満たされはじめている。

(王子との結婚では味わえなかった、本当の意味での寄り添い……。もしかして、この政略結婚で見つけられるのかもしれない。まだ分からないけれど、そうだとしたら……)

 そんな思いを抱きながら、ソフィアはドレスの裾を握りしめる。もうすぐ始まる婚約発表の宴で、正式に『公爵夫人候補』として人々に紹介されるのだ――。

 それは同時に、リリアナやエドワード王子との“再会”の場でもある。果たして、どんな展開が待ち受けているのか――ソフィアは胸を高鳴らせながら、その日を迎えようとしていた。






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