世界が変わる瞬間を、見たことがあるか?
俺は、ある。
たぶん他人から見たらちっぽけで、「そんなことで?」と笑われるかもしれない。
それでもあの日、俺の小さな世界は、たしかに歩き出した。
俺は、しがない平民の生まれだ。
育ったのは辺境の街。“街”というより“村”と呼んだほうがしっくりくるような場所。
大人も子供も関係なく働き、ほとんどの物は自給自足でまかなっていた。
俺がガキの頃、母親が腰を痛めた。
今思えば、ただのぎっくり腰だった。
けれど、いつもキビキビと働く母が寝所で弱っている姿を見て、まだ五つだった俺は、「死んでしまうんじゃないか」と、ただただ怖かった。
俺は長男だ。弟が二人いる。
だから、母がいつもやっている仕事を代わろうと、井戸に水を汲みに行った。
隣のおばさんが手伝ってくれると言ってくれたけれど、どうしても、自分の手で母親を助けたかった。
だけど、井戸の滑車は俺には重くて、うんともすんとも動かなかった。
結局、大人たちに手伝ってもらうことになった。
――悔しかった。
そんなとき、騎士様がこの街にやってきた。
なんでも、街の近くで魔獣の群れが確認されたらしい。
寝耳に水で、俺たちは驚いた。けれど騎士様が言うなら本当なのだろう、と思った。
騎士様たちは、一晩だけ街の近くに滞在し、そのまま討伐へ向かうと言う。
それならばせめて、その一晩はもてなそうと、各家が持ち寄ったご馳走を差し出した。
俺たちにできる、精一杯のおもてなしだった。
けれどきっと、騎士様たちから見たら、普段食べてるもの以下だっただろうな。
代表の騎士様は「有り難く頂戴する」と受け取ってくれた。
他の騎士様はそうでもなかったけど、彼は俺たちに優しかった。
その騎士様は、水を使ってもいいかと尋ねた。
あれだけ大人数なら、井戸水が足りなくなるかもしれない。けど、魔獣退治の方がずっと大事だ。
だから街の人たちは、近くの森の川へ水を汲みに行くことにして、俺たちは井戸水を騎士様たちに運ぼうとした。
そうしたら騎士様は、「それは必要ない」と笑った。
「汚水の処理さえできれば十分だ」と言って、騎士様は小さな道具を取り出した。
――水栓魔具。そう呼ばれる魔術具を使って、彼は水を生み出した。
俺たちの街には、魔術具なんてなかった。
行商人からその存在を聞いたことはあったけれど、遠い世界の話で、本当にあるのかどうかも疑っていた。
けど、あった。
あんなに大変だった水汲みをしなくてよくて。
井戸の水が枯れないか心配しなくてよくて。
普段の水とは比べ物にならない、透き通った水がサラサラと流れていた。
――あの瞬間、俺の世界は変わった。
俺は、魔術具師になると決めた。
「魔術具を作れるようになりたい」
そう父さんに伝えると、「無理だ」と切り捨てられた。
魔術具を作るには、たくさん勉強をしなければいけない、と。
勉強――学問というのは、俺たちの街では“娯楽”だった。
生活に余裕があって、はじめてできるものだ。
文字や算数くらいなら、街の教会で学べた。
家の手伝いができない年頃、大体六つくらいまでの子供は、昼間そこに預けられる。
そして、街で生きていくための最低限を学ぶ。
商人に騙されないように。税を納められるように。
それ以上を学べるのは、“特別”な子供だけだった。
特別に頭が良くて、働ける年齢になっても働かなくていいほど、特別に金のある家の子供だけ。
俺は、特別に頭が良いわけじゃない。
俺の家も、特別に裕福なわけじゃない。
けど――諦めたくなかった。
俺は、あんなふうに。
サラサラと水を生み出したかった。
街の誰も、困らなくていいように。
どうすればいいのか。毎晩、考えた。
そして、閃いた。
――都会の話をしてくれる行商人なら、魔術具の作り方を知っているかもしれない。
次はいつ来るだろうか。
どうやって話を聞こう。
そう考えながら、その日まで、家の手伝いと並行して、できる限り勉強をした。
教会では、牧師様に文字や算数以外のこともたくさん尋ねた。
牧師様は、たぶん父さんから話を聞いていたのだろう。
遠回しに、「魔術具師になるのは難しい」と伝えてきた。
文字や算数がわかるだけではだめだ。
魔術に詳しくなくてはならない。
魔術に詳しくなるには、大きな街へ行き、特別な勉強をしなければならない。
それは、家族と離れることになる。
そう、教わった。
父さんや母さん、弟たちと離れることを考えると、胸がギュッとした。
だけどそれ以上に、俺は、家族に便利な暮らしをさせてやりたいと思った。
行商人がこの街に立ち寄ったと聞いた日、俺は勢いよく家を飛び出した。
父さんも母さんも、この頃にはもう諦めていた。たぶん、「現実を知ってくればいい」と思っていたのだろう。
だけど俺はこの日、夢のかけらを掴んだ。
いつもの行商人が、その日は見慣れない人を連れていた。
――魔術具師だった。
俺は驚いた。
周りのみんなは、もっと驚いていた。
俺が魔術具師になりたいと願っていることを、街の人たちは知っていたからだ。
その魔術具師は、次に行商人が訪ねる街に用事があり、旅に同行しているのだという。
こんなチャンス、きっともう二度とない。
俺は拳を握りしめ、精一杯の誠意を込めて頭を下げた。
「でしにしてください!」
魔術具師――師匠は、「ふむ」と少し考えたあと、鷹揚に笑った。
「構わないよ」
耳を疑った。そんな簡単に受け入れてもらえるとは思っていなかった。
頭が追いつかなくて、一瞬身体が固まってしまった。
けれど、すぐに顔を上げた。
「ありがとうございます!」
周囲がザワザワとどよめく中、父さんと母さんが駆け寄ってきた。
「申し訳ありません、魔術具師様。この子が失礼なことを申し上げました。あなた様のような偉大な方に、なれるわけがないのに」
俺はむっとした。
せっかく弟子にしてくれると言ってもらえたのに、それを否定するみたいに聞こえたから。
「いいや。本当に構わないよ」
師匠は軽く笑ってそう言った。
しかし、そのあとに言葉が続いた。
「だけど、試験を出させてほしい」
俺はごくりと唾を呑んだ。
どんなことを言われるのだろう。
「そうだな……この“光灯魔具”を作ってごらん。期間は、次に私がここを通るまでの約七年間。それができなければ、諦めなさい」
後に聞いた話では、師匠は俺を諦めさせるつもりだったらしい。
俺が行商人に会いに行く前に、牧師様から俺のことを聞いていたんだと。
当時の俺は、七年間“も”弟子にしてもらえないのか、と落ち込んだ。
だけど、これが唯一魔術具師になれる道だとも、気付いていた。
「わかりました!」
真っ直ぐに、師匠の顔を見る。
「ぜったいに、つくってみせます!」
師匠は、うんうんと頷いた。
それに対して父さんと母さんは、深くお辞儀をしていた。