2008年の年始,夫の清水良助は兄の清水修司とともに海外へ出張に赴いた。しかし、現地で突発的な感染症に巻き込まれてしまた。
清水未沙は毎日テレビの前に座り、海の向こう側のニュースをじっと見つめていた。
新婚の夫の姿が、ほんの一瞬でも画面に映るのを願っていた。
たとえそれがぼんやりとした横顔でも、遠ざかる後ろ姿でも構わない……。
だが、未沙が最後に目にしたのは、兄の修司が抱えて帰ってきた、ひんやりとした遺影だった。
「未沙、良助は……良助はもう帰ってこない…」
その言葉を聞いた瞬間、未沙の視界は真っ暗になり、その場で倒れてしまった。まさか、空港での別れが永遠の別れになるとは夢にも思わなかった。
目を覚ました後も、彼女は何度も自らの命を絶とうと試みた。夫のもとに行くことだけを強く願っていた。
幸いにも、家族はそのたびに気づき、止めてくれた。
その晩、未沙はふと気づく。棺の中で眠るその人は、良助ではなかったのだ。
……
「良助、未沙にこんなことをするなんて、あまりにも酷すぎるわ。」
仏前の線香が煙を上げて、もうすぐ燃え尽きそうになった。未沙は新しい線香を取りに自室へ戻ろうとした。
その時、部屋から微かな話し声が漏れ聞こえ、未沙は思わず足を止めた。
良助?
なぜ母は兄の修司に向かって良助の名を呼ぶのだろう。
もしかして、息子を失ったショックで取り乱しているのだろうか?
「お母さん、分かってるでしょう。お義姉さんは心がとても繊細だから、兄の死を知ればきっと耐えられない。」
「今は僕が兄のふりをして、彼女を支えるしかない。清水家の子を授かって、新しい希望ができたら、その時に本当のことを話しよう。」
「たとえその時彼女が傷ついたとしても、少なくとも生きていけるはずだ。」
「これが兄の遺言だ。」
その会話を耳にした未沙は、思わず体が激しく揺れ、倒れそうになるのを必死に堪えた。
今、名目上の兄である修司が、本当は自分の夫だったとは。
修司は清水家の養子で、良助とは血のつながりはなかったものの、籍上は兄弟だった。
なのに、夫のふりをして毎晩未亡人の雅子と同じ布団で過ごし、愛し合う日々を送っていたのだ。
想像するだけで吐き気を催す。
正真正銘の妻である自分は、隣の部屋で遺影を抱きしめ、涙にくれて夜を明かしているというのに。
そして何より皮肉なのは、自ら命を絶とうとし、彼のもとへ行こうとまでしたことだ。
あまりにも滑稽だ。
かつて自分を心から愛してくれたあの良助、清水重機株式会社の専務取締役。
彼は彼女の心をつかむために、豪邸や高級車、宝石を惜しげもなく贈り、新婚旅行で訪れたニュージーランドの夜空に、華やかな花火が打ち上げられ、愛の証を見せてくれた。
子どものころに食べた桜餅が懐かしいと何気なく口にしただけで、
彼は大事な仕事を差し置いて、吹雪の中を東京中探し回り、温かい和菓子を手にして届けてくれた。
その時の未沙は、財閥の御曹司ならではのわがままだと思っていた。
本当に心を開くきっかけとなったのは、急性の病気の時…
ヨーロッパで仕事中だった良助は、その情報を聞くと、重要な会議を後回しにして、夜を徹して自分のもとへ駆けつけてくれた。
「未沙、怖がらなくていい。俺がいるから、絶対大丈夫だ。」
その一言が、未沙の心の扉を開いた。
だが、今やその良助は、自分を見捨て、まるで道具のように扱っている。
未亡人を「守る」ために兄のふりをして、毎晩雅子と共に寝起きし、愛を交わす。
さらには、兄の代わりに清水家の跡継ぎを残そうとまで考えていたとは…。
自分は彼のために涙を流し、深い絶望の中、薬にすがって生きている。
彼はこの仕打ちが自分をどれほど傷つけているか、考えたことがあるのだろうか。
おそらく、一度もないのだろう。
今の彼には、きっと「か弱い」妻のことしか見えていないのだ。
涙が止まらない中、未沙はふと小さく笑い、手にしていた線香が地面に落ちて砕けた。
「良助」はもう「死んだ」のだから、すべては風に流せばいい。
廊下に響いた線香が落ちる音で、部屋の中の会話は一瞬で途切れた。
「未沙、大丈夫か?」
足元に散らばった線香を見下ろしながら、追いかけてきた良助の目には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。