消灯前、未沙は枕元から一枚の古いウェディング写真をそっと取り出した。
写真の中の二人は、幸せそうな微笑みを浮かべている。
未沙はしばらくその写真を見つめていたが、やがて裏返しにして、引き出しの奥深くへとしまい込んだ。
記憶の扉は、彼女自分の手でそっと閉ざされた。
もう、振り返ることはない。
朝、清水家のダイニングにはパンと焼き卵の香りが漂い、使用人たちがきびきびと朝食の準備を進めていた。
家族が次々に席に着く。
和子は、温かいスープを手にしながら、階段の方を心配そうに見つめる。
「未沙はまだ降りてこないのかしら?」
「そうですね、いつもならこの時間には来ているのですが」と、使用人の一人が小声で答える。
「せっかくの朝ごはんが冷めてしまいますね」
雅子は箸を置き、柔らかな声で言った。
「昨日は一日中動き回っていたから、きっと疲れたのだろう。まだ休んでいるのかもしれない」
「誰か様子を見に行った方がいいのでは?」と誰かが提案する。
その時、修司が顔を上げ、気遣わしげな口調で言った。
「俺が朝食を運びながら、ちょっと様子を見てくる」
だが、雅子は穏やかな笑みを浮かべてそれを制した。
「ここは私が行っていいよ。女同士の方が話しやすい。」
修司は一瞬ためらいを見せたが、結局黙ってうなずいた。
雅子は自らいくつかの朝食を選び、木のトレイに載せてゆっくりと階段を上がっていった。
部屋の前で立ち止まると、ノックして声をかける。
「未沙、起きてる?朝ごはんを持ってきたわよ」
中はしばらく静かだったが、やがて落ち着いた声が返ってきた。
「鍵はかかっていない」
雅子が扉を開けて中に入ると、未沙は窓辺のデスクで静かに座っていた。
朝日が未沙の穏やかな横顔を照らし、手には分厚い『M&A戦略の立案プロセス』の本が開かれている。デスクにはほかにも『会社売却とバイアウト実務の全て』『国際財務時代の新戦略リスク管理から企業買収まで』などの本が積まれていた。
雅子は一瞬驚いたように立ち止まり、ややぎこちない笑顔を浮かべた。
「まあ、朝からそんなに勉強してるの?珍しいわね」
「ずっと何もせずにいるわけにもいいけないから」と未沙は顔を上げずに淡々と答える。
雅子はトレイを机の端に置き、未沙の背後に歩み寄ると、並んだ本の背表紙を見て小さく鼻で笑った。
「こんなの、今さら読んで理解できるの?何年も離れてるのに、大変じゃない?」
「まあ、少しは。でも、ここでいろいろ言われながら過ごすより、これくらいの疲れは何でもないよ」
未沙はページをめくりながら、淡々と続けた。
雅子は向かいのソファに腰を下ろした。その目には、もはや隠す気のない嘲りが浮かんでいた。
「夢は見ない方がいいわよ、未沙。清水家に嫁いで何年経ったと思ってるの?世間からはもうずいぶん離れてるのに。本を少し読んだくらいで、また仕事に戻って活躍できるとでも?」
「今の会社には、若くてやる気のある人たちがたくさんいるのよ。家で花をいじったり料理をしてる“奥さん”なんて、誰も相手にしないわ」
「清水家で生活に困ることもないだろう?それ以上、何を望んでるの?」
未沙は本を閉じ、静かに雅子を見つめた。
「何を望んでるのかって?」
彼女の口元にかすかな微笑みが浮かぶ。その声は淡々としていて、感情を読み取ることはできない。
「そんなに必死に水を差すなんて、雅子さんー何か怖いことでもあるの?」
雅子は一瞬固まり、すぐに笑い声をあげた。
「私が怖いって?何を怖がるっていうの?」
「もちろん、怖いはずがない」