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第14話 五千円のキス


森下海は黒いゴミ袋を頭に被せられ、床に丸くなってうめいていた。


藤原星奈は怒り心頭で彼を蹴りつけている。


力はあまりないし、まるで子どもの喧嘩のような動きだったが、それでも森下海は痛みに耐えきれず叫んでいた――何しろ星奈の足元にはハイヒールが光っていたのだから。


森下海は酒が回っているのか、全く反撃できずにいる。


しばらくして、藤原星奈は息を切らして立ち止まり、彼に向かって舌をペロリと出すと、素早く横に倒れ込んで「気絶」したふりをした。


森下海はうめき声を上げながら起き上がり、頭からゴミ袋を乱暴に引き剥がし、怒鳴り始めた。


「ふざけんな!誰だよ、俺を殴りやがったやつは!命知らずが!ぶっ殺してやる!」


藤原星奈は「タイミングよく」頭を押さえて目を覚ましたふりをし、困惑した表情で言う。


「森下さん?何があったんですか?頭が痛い……誰かに殴られたみたいです。」


「俺も誰かにやられたんだ!お前、誰かわかったか?」


「いえ……私も気絶して……」


「クソッ!俺の邪魔しやがって、しかも殴りやがって!大丈夫だ、星奈、今すぐ仲間を呼んで調べさせる。誰の仕業か突き止めて、ただじゃおかねえ!」


森下海はそう悪態をつきながらスマホを取り出し、仲間を呼び始めた。


藤原星奈は「トイレに行く」と言い訳し、怯えた様子を装いながらその場を離れた。


だが、曲がり角を曲がると、さっきまでの怯えた顔はすっかり消え失せ、小さな口で無言の悪態をつきながら、心の中で森下海を罵倒していたのは明らかだった。


藤原悠真「……」


小林健太「……えっ?」


こんな手があったのか?


少し考えれば状況は明白だ。森下海が下心を見せたのを、星奈は正面からぶつかる勇気はなく、裏をかくことにしたのだろう。


その賢さを褒めるべきか、度胸に感心すべきか……。


星奈は表向きおどおどとしながらも、内心ではほくそ笑みつつ、そっと非常口の影から抜け出した。


ふと顔を上げると、二つの視線とばっちりぶつかった。


藤原悠真は険しい表情で彼女を見つめ、その瞳は何を考えているのか読み取れない。


小林健太はにこやかに挨拶した。「藤原さん、奇遇ですね。」


星奈は、さっきの一部始終を二人に見られていたことに気づき、ごくりと唾を飲み込んだ。言い訳する間もなく、背後から森下海の騒がしい声が聞こえてきた。


「お、小林さん?やあ、ちょうどよかった!助けてくれよ、今俺、誰かにやられたんだ!」


森下美月が「優ちゃん」を助けたことで、森下家は一躍時の人となった。その威光を笠に着て、森下海は藤原悠真の周囲の人間にもやたらと馴れ馴れしい。


星奈は口元を引きつらせ、すぐに顔が固まった――まさか彼らが知り合いだったとは!


なんて運が悪いの……。


小林健太が藤原悠真の指示を待っているのを見て、星奈は焦り、思わず悠真のもとへ駆け寄り、背伸びして耳元で早口に囁いた。


「彼が私に無理やり……あんまり言わないで!」


藤原悠真は元々、女性に近づかれるのを極端に嫌う。その瞳に嫌悪の色が浮かび、すぐにでも彼女を突き放そうとした。


星奈は、彼に協力してもらえないと思い、咄嗟に彼の首にしがみつき、必死に訴えた。


「ただのバイトなんです!でも彼が変なことしようとしたから……正当防衛です!」


「離れろ――」


「……一億円のこと、思い出して!私に何かあったら、そのお金もパーよ!」星奈も必死だった。


悠真の目が一瞬鋭くなった。「脅してるのか?」


星奈はその視線に思わず縮こまり、言い訳しようとしたが、森下海がすぐ近くに来てしまった。


「おや?悠真?君も……」


星奈は心臓が口から飛び出しそうだった。このままじゃ全部バレてしまう!


一瞬の決断で、星奈は目をきつく閉じると、勢いよく藤原悠真の唇を塞いだ――


藤原悠真「!」


小林健太「!!!」


森下海「???!!!」


空気が凍りついた。


誰もが予想もしなかった、突然の出来事。


星奈自身も思わず固まってしまう。慣れない緊張で藤原悠真の少し冷たい唇に触れ、まつ毛は震え、心臓は今にも跳ねそう――ときめきではなく、ただただ恥ずかしさと恐怖から。


自分から抱きつくなんて、あまりにも恥ずかしい。


しかも、キスしたところで彼の口を塞げるかどうかもわからない。


最初に我に返ったのは小林健太だった。驚いたことに、藤原悠真は星奈をすぐに突き放すことなく、そのままにしていた。これは前代未聞だ。社長は女性とは無縁のはずなのに!


今は邪魔者になってはいけない。森下海にも余計なことをさせるわけにはいかない。


小林健太は即座に動き、呆然としている森下海の腕を掴んだ。「森下さん、こちらへ。詳しく状況を聞かせてください。」


「いや、悠真が……あの……」森下海はそのまま引きずられていった。


森下海が去るのを見て、星奈の緊張がようやく緩んだ。


彼女は火傷でもしたかのように素早く悠真から離れ、頬を赤くしながら「……助けてくれて、ありがとう」と言い、ポケットからお札を取り出して一瞬ためらいながらも、無理やり悠真の手に押し込むと、一目散に逃げていった。


悠真はその背中を見送りながら、眉間に深いしわを寄せていた――


これほど女性と近づいたのは、六年ぶりのことだった。


さっきの一瞬……柔らかくて、少し冷たくて……なぜか、六年前のあの夜の、混沌とした記憶の片鱗が脳裏をよぎった。


あの時の彼女の唇も、たしかに……


だから、彼女を突き放すことを忘れてしまったのか。


森下海は小林健太を振り切って戻ってきた。「悠真、さっきの女……知り合いなの?」


悠真は視線を戻し、手に押し込まれた五千円札を見下ろし、さらに眉をひそめた。


そしてそのまま五千円札を小林健太に押しつけ、何も言わずVIPルームへ向かっていった。森下海にも一言も返さない――彼が森下海に対していつもとる態度だった。


小林健太は手に残った五千円札に目をやり、苦笑いを浮かべる。


これは……藤原さんからの口止め料?


それとも、社長とキスしたことへの「チップ」?


どちらにせよ、この五千円……社長が安すぎやしませんか……。


森下海は焦って問い詰めた。「悠真、本当にあの女の子知ってるのか?」


小林健太は札をしまい、プロの笑顔で答えた。「何度か顔を合わせただけですよ。」


「どんな関係だ?あの女、よく悠真にキスなんて……悠真もなぜ黙って……悠真は美月の……」森下海は焦りまくる。


小林健太の表情は少しだけ硬くなった。「森下さん、社長と美月さんの関係は、ご自身が一番わかっているかと。余計な詮索はやめておいた方がいいですよ。社長を怒らせても、誰の得にもなりません。」そうだけ告げて、森下海の手を静かに振りほどき、すぐに悠真の後を追った。


森下海は顔色を変え、痛みも忘れて慌てて美月に電話をかける。「美月!大変だ!藤原悠真が、他の女とキスしてたぞ!」


VIPルームでは、宴が盛り上がっていた。


悠真が入ってくると、皆が立ち上がって挨拶する。「藤原社長。」


悠真は軽く頷き、続けるように促す。


そのまま主賓席に座り、脚を組んでタバコに火をつけると、険しい表情を崩さなかった。


友人の伊藤直人がからかうように近寄ってきた。「おいおい、珍しく顔を出したと思ったら、なんでそんな怖い顔してるんだ?誰かに何かされたのか?」


悠真は無言のまま、煙の向こうに、さっきの星奈の突然のキスと、あの怯えたような、でもどこか強い意志を秘めた瞳が頭から離れなかった。


あのキスが、どうしようもなく心を乱していた。


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