藤原悠真は何も説明せず、代わりに尋ねた。
「高橋悠斗の様子は?」
伊藤直人が答える。
「午後、病院に様子を見に行った時は、まだ寝てたよ。姉さんの話だと、今日また発作が出て、道路に飛び出して大暴れしたらしい。たまたま詳しいお姉さんが通りかかったから助かったけど、危なかったよ。優ちゃんは?最近元気にしてる?」
藤原はタバコの灰を落としながら、「相変わらずだ」と短く答えた。
伊藤が慰めるように言う。
「高木も言ってたけど、心の病ってよくなることも多いって。二人ともまだ若いし、もう少し大きくなれば乗り越えられるかもよ。」
藤原は黙ってタバコを吸い続けた。高橋悠斗と優の病は、根本が違うのだ。
高橋悠斗は、誘拐されたときのトラウマが原因だ。恐怖を乗り越えられれば、きっと回復できるだろう。
だが、優の心の闇は、生母である星奈への執着に根ざしている。あの女が見つからない限り、この苦しみは日に日に深くなるばかりだ。
その時、伊藤が身を乗り出し、鼻をひくつかせて茶化した。
「おや?女の子の香りがするな。フルーティな香りで、ちょっと珍しい。どこのお嬢さまに誘惑されたんだ?何年も女っ気なかったくせに、心変わりか?その子、何か特別なのか?」
伊藤は、藤原の心に星奈しかいないことをよく知っていた。いくら女性が近づいても、全く相手にしなかったし、森下美月でさえ、本当には近づけなかった。
藤原の顔がさっと険しくなる。星奈が背伸びして首に腕を回し、ネクタイを引いて無理やりキスしてきた場面が、否応なく思い浮かんだ。
伊藤は藤原の表情を見て話題を変えた。
「分かってるよ。優ちゃんの母親に対して、あんたがどれだけ想ってるか。でもさ、正直、彼女が今どこにいるかも、生きてるかどうかも、再婚してるかも分からないだろう?もしもう別の家庭があるなら、無理に割り込めないだろ?」
「恩返しの方法なんていくらでもある。自分を犠牲にする必要はない。あんたが彼女のために身を清めてる間に、彼女はもう……」
藤原が冷たい眼差しを投げる。
伊藤は空気を読んで手を挙げた。
「分かった、もう言わない。でもな、兄弟として言わせてもらう。たまには自分にも優しくしろよ。もう六年もご無沙汰だろ?よく我慢できるな。」
藤原は淡々と返す。
「お前ほど欲求不満じゃない。」
伊藤は笑い飛ばす。
「心配してるだけだって。あんまり間を空けると、勃たなくなるぞ?」
「余計なお世話だ。自分の心配でもしてろ。」
「大丈夫、腎臓は元気だから。」
藤原はもう相手にせず、そこへ電話が鳴った。田中の慌てた声が聞こえる。
「社長、坊ちゃんが晩ご飯を全然食べようとしません。このままじゃ体がもちませんよ!」
藤原は眉をひそめた。「理由は?」
「坊ちゃん、何も言わないんです……」
ますます顔が険しくなる。最近の優は、ますます口数が減っていた。
「分かった。」藤原はタバコをもみ消し、すぐに立ち上がった。
伊藤が尋ねる。「また優ちゃんが食べないのか?」
「ああ。後はよろしく。会計は俺の分も頼む。」足早に去っていく。
VIPルームの面々が手を止め、藤原を見送る。
伊藤は手を振り、「続けて」と合図し、ため息をついた。
「家で息子の相手だな。」
皆は納得したように口々に言う。
「藤原社長って、本当に父親も母親も一人でやってるんだな、すごいよ……」
「優ちゃんの母親、一体どこ行っちゃったんだろう。あんな立派な男を置いていくなんて……」
伊藤が目を細めて言った。
「こらこら、その話はやめとけ。社長にとっては大事な人なんだ、軽々しく口にするなよ。」
言われた男は慌てて口を押さえ、「悪かった、もう言わない!」
VIPルームは再び賑やかになった。伊藤は一人、煙草をくゆらせながら、友の苦しみを思いやっていた。表向きは華やかでも、藤原悠真の胸の内を知る者は少ない。
……
タクシーの中で、藤原星奈の頬にはまだ熱が残っていた。
藤原悠真に無理やりキスした場面が何度も脳裏をよぎり、恥ずかしさでいっぱいになる。こんなこと、以前の自分なら想像もできなかった。
あいつの口を黙らせるためとはいえ……
しかも、五千円を失ったのが悔しい!あれがあれば、子どもたち三人に新しい服を買えたのに!
そう考えていると、突然前方にベンツが割り込んできて、タクシーの前に止まった。
黒服の男たちが、何の前触れもなく彼女を引きずり下ろし、橋の方へ連れて行く。
「何するのよ!離して!」と星奈は必死で抵抗する。
橋の上には派手な服装にサングラスとマスクの女が待っていた。
星奈はどこかで見覚えがある気がして、声をかけようとしたその時――
「バシッ!」と、頬に鋭い平手打ちが飛んできた。
「この女!」女は怒りをあらわに叫ぶ。
星奈は呆然とし、頬が焼けつくように痛む。保護者に押さえつけられながら、睨みつけて言う。
「あんた誰よ!何の権利があって叩くのよ!」
「恥知らずの女!私の男に手を出すなんて、命が惜しくないの?」女はさらに二発、平手打ちを浴びせた。
星奈はついに怒りを爆発させる。
「あんたこそ何なの!誰もそんな男に興味ないわよ!説明しなさい!」
森下美月は星奈の顎をきつくつかみ、毒を含んだ声で言った。
「知らぬふりしてるつもり?警告しておくけど、悠真はあんたなんかが近づける相手じゃない。私だけが彼にふさわしいのよ。」
「また近づいたら、ただじゃおかないから!その顔があればって思ってるんでしょ?今すぐその顔を台無しにしてやる!」
保護者が本当にナイフを取り出すのを見て、星奈の全身に警戒心が走る。
顔まで傷つけるなんて、許せない!
星奈は急に足を上げ、保護者の片方の足を思いきり踏みつけた。
相手が痛みで手を緩めた隙に、次郎からもらった強力な防犯スプレーをカバンから取り出し、二人の保護者の顔めがけて噴射する。
「うわっ――!」保護者たちは目を押さえ、苦しみ始めた。
自由になった星奈は、森下美月の襟元を思いきりつかみ返す!
「バシバシバシ!」と、今度は星奈が平手打ちを叩き込む。
「私はあんたたちなんか知らないし、悠真なんて人も知らない!これ以上しつこくするなら、すぐ警察呼ぶから!」
森下美月を突き飛ばし、素早く道路を渡り、人ごみの中に消えていった。
森下美月は転び、ヒールをくじき、その場に座り込んで泣き叫んだ。
「この役立たずども!早く捕まえなさい!あの女を殺してきなさい!できないなら、あんたたちが死ぬ番よ!うううっ……」
保護者たちは目の痛みに耐えながら、慌てて追いかける。
ちょうどその時、彼らが道路の向こう側にたどり着くと、背後の影から冷たい男の声が響いた。
「止まれ。」