スカイツリー最上階の高級マンション――広々としているが、どこか冷たさが漂う空間。
藤原悠真は、自ら作ったうどんを手に、二階の子供部屋へ向かった。優は窓際にちょこんと座り、小さな背中を丸めて、じっと玄関の方を見つめている。その瞳は、どこか虚ろで、しかし強い意志を秘めていた。
悠真は胸が締めつけられる思いで、声を和らげて呼びかけた。
「優、まずは何か食べよう。」
優は微動だにせず、視線はドアに釘付けのまま。
悠真はそっと、うどんの入ったどんぶりを小さなテーブルに置いた。
「ご飯を食べないと、ママが悲しむぞ。」
その一言が、まるでスイッチを入れたようだった。優の目に、かすかな光が差し込む。彼は父親の方をゆっくりと向いた。
「ママ……本当に分かるの?」
「もちろんだ。母と子は心でつながっている。優が何を思ってるか、全部ママに伝わるんだ。優がご飯を食べなかったら、それもきっとママに伝わるよ。」
「じゃあ、僕がママのことを思ってたら……それも分かる?」
「……分かるよ。」
「じゃあ、僕がママのことをこんなに思ってるのに……」
優の声は鼻にかかった泣き声に変わり、切なさが滲み出ていた。
「どうしてママは僕に会いに来てくれないの?」
悠真の喉が詰まり、言葉が出ない。そうだ、あの冷たい女は、息子が会いたくて病気になるほどなのに、一体どこにいる?どうして優に会いに戻ってこない?いや……どうして自分にも戻ってこない?
「僕のこと……嫌いなのかな?」優が悲しげに問いかける。
「違う!」悠真はすぐさま否定し、きっぱりと答えた。
「ママは、優のこと絶対に大好きなんだ。」
「なのに、僕がこんなに思ってるのに、どうして帰ってこないの?」優の声には、理解できない苦しみがにじんでいた。
悠真は痛む胸を押さえつつ、優の頭をそっと撫でた。
「ママは……きっと何か事情があって、今は戻れないだけなんだ。」
「事情?」優の目が大きく開かれた。
「それって……ママが危険な目にあってるってこと?」
悠真が何か説明しようとする間もなく、優は椅子から飛び降り、玄関へと駆け出そうとする!
「優!」悠真は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「どこへ行くつもりだ!」
「ママを探しに行く!ママが危ないんだ!僕が助けにいかなきゃ!」優は必死に腕を振りほどこうとし、顔は興奮で真っ赤になっていた。
「優!そんなこと考えるな。ママは大丈夫だ。」
「離して!ママはきっと悪い人に捕まってる!僕が助けに行くんだ!誰にもママを傷つけさせない!」優は驚くほどの力で叫び、暴れ始めた。
「優、落ち着け!」悠真はしっかりと息子を抱きしめ、絶対に離さなかった。
だが、優の興奮は収まるどころか、ますます激しくなる。突然、彼は思いきり首を下げ、悠真の手首に噛みついた!
激痛に思わず力が緩む。
その隙に優は逃げ出し、再び玄関へと向かう。
悠真は素早く彼の前に立ちはだかり、ドアを塞いだ。
出口を塞がれた優は、完全に我を失った。怒り狂った小動物のように、手当たり次第に身の回りの物を掴んでは投げつける。
高級な漆器のオブジェ、柔らかなクッションや布団、枕元の和風時計、クローゼットの浴衣……そして悠真が持ってきたうどんすら、すべて床に叩きつけた。
室内はあっという間にめちゃくちゃになった。
それでも足りず、優は落ちていた金属製のしおりを手に取り、自分の手首に突き立てようとした!
「優!」悠真は血の気が引き、すぐさま優を抱きしめて押さえつけた。
優は腕の中で暴れ、蹴り、叫び続ける。
「うわああああ!」
その叫びは絶望と怒りに満ち、小さな身体は激しく震え、歯を食いしばっていた。
長い間もみ合いが続いた末、優は突然力が抜け、そのまま気を失った。
「優!」悠真の瞳が見開かれ、心臓が締めつけられる思いだった。彼はすぐに息子を抱き上げ、階下へ駆け下りた。
田中が驚愕の表情で駆け寄ってくる。
「旦那様!お坊ちゃまが……?」
「早く!車を用意してくれ!高木先生を呼んで!病院へ!」悠真はかつてないほど取り乱した声を上げた。
病院の救急処置室。
約三十分の緊急対応の末、優の容体はなんとか安定し、病室へと運ばれた。
高木一郎は額の汗を拭い、安堵の息をついた。
「間に合ってよかった。ひとまず危険は脱しました。」
悠真はベッドのそばに座り、青白く弱々しい息子の顔を見つめて、胸が潰れそうだった。
高木一郎は、深刻な顔で口を開く。
「優くんの状態……どんどん悪くなっています。このままでは本当にまずい。悠真、本当に藤原さんを試してみないのか?彼女なら、もしかしたら優くんの心を救えるかもしれない。」
悠真は眉をひそめ、しばらく黙り込んだ。
「もう少し様子を見る。他の専門家を手配して、優のケアを頼む。」
星奈について、そしてあの”偶然”の裏に何があるのか、まだ何も分かっていない。優は自分の全てだ。疑わしい人物を近づけるわけにはいかない。
高木一郎は悠真の思いを測りかねていたが、彼の強い意志にうなずくしかなかった。
「そうだ……」高木一郎は思い出したように言った。
「森下美月さんも今、病院にいるよ。手と脚を怪我して、脚は骨折したらしい。」
悠真は驚いた。
「どういうことだ?」
「事故だったらしいんだが……」高木一郎が言い終わらないうちに、悠真の携帯が鳴った。森下美月からだった。
「悠真!今、優くんが病院にいるって聞いたの!大丈夫なの?また発作?どうしよう、すごく心配で……私も今病院だけど、先生にベッドから降りるなって言われて……本当に心配でたまらないの!」
電話の向こうで、甘えたような声が続く。悠真は苛立ちを抑え、淡々と返す。
「……もう大丈夫だ。美月は自分の治療に専念しててくれ。」
「えっ……私が怪我したの知ってるの?悠真、会いに来てくれる?」美月の声は泣きそうな響きと期待を込めていた。
悠真は一瞬うんざりした表情を見せたが、彼女が以前”優を助けた”ことを思い出し、しぶしぶ答えた。
「分かった。後で行く。」
電話を切ると、悠真は高木一郎にいくつか指示をし、美月の病室へ向かった。
病室に入ると、美月の目にはすぐに涙が溢れ、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
「悠真……優くんは大丈夫?本当に心配で……」
悠真はその涙を無視し、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「優のことは気にしなくていい。自分の体を大事にしてくれ。」
美月は涙を拭いながら、おずおずと尋ねる。
「悠真……もしかして、あの女の人のこと、好きになったの?」
「誰のことだ?」
「今日、居酒屋で悠真にキスした……」美月の声には嫉妬が滲んでいた。
悠真の顔つきが一瞬険しくなった。
美月は目を赤くし、怯えながらも訴えかける。
「今まで、他の女の人が悠真に近づくことなんてなかった……私以外、悠真と普通に話せる女性もいなかったのに……今日、あの人にキスさせたなんて……」
星奈が突然背伸びしてキスしてきた場面が、悠真の脳裏に浮かぶ。彼は目を伏せ、冷たく言い放った。
「偶然だ。」