小林健太はすぐに車を降りて助けに行こうとしたが、森下海がすでに気を失っているのを見て、少し安心した。
車の窓越しに、乱れた服でみっともない森下海の姿が目に入ると、思わず後部座席の藤原悠真に愚痴をこぼした。
「森下海って、本当に…情けないな。見てるこっちが恥ずかしいよ。」
藤原悠真は冷ややかな目を向け、無表情で言い放った。
「そんなに裸が好きなら、横浜みなとみらい広場を服なしで三周でも走らせればいい。服なんて一枚もやる必要ない。」
小林健太は思わず顔をしかめた。こんな寒い日に裸で走らせるなんて…さすが厳しい。でも、女の子に手を出すなんて、そんな男は自業自得だ。
小林健太は車を降り、藤原星奈を迎えに行った。
藤原星奈は車のドアを押し開けると、慌てて飛び降り、そのまま逃げ出そうとしたが、目の前に小林健太の姿を見つけて、思わず立ち止まった。
森下海の魔の手からやっと逃げ出したと思ったら、今度は藤原悠真の車に乗せられる羽目に。
藤原星奈は後部座席には行かず、迷わず助手席のドアを開けて座り込んだ。藤原悠真の隣に座りたくなかったからだ。彼は苦手だし、何より怖い。彼に一億円も借りているのもあるが、何かと理由をつけて閉じ込められてしまうのがもっと怖い。
まだ小林健太は車に戻っていない。車内には藤原悠真と藤原星奈だけ。静まり返った空気が重くのしかかる。
藤原星奈は背筋を伸ばし、前だけを見据えたまま、頭の中は混乱していた。きっとお金のことで自分を探しているに違いない。でもお金なんて持っていないし…どうやってこの場を切り抜ければいい?藤原悠真が自分を“妻”と認めていないことを、この人も知っているのかもしれない。もしかして…悠真が自分に興味を持っていないこと、全部バレている?
心臓が激しく脈打ち、手のひらにはじっとりと汗がにじむ。
相手が動かないなら自分も動かない。藤原悠真が口を開こうとしないので、藤原星奈もじっと黙り込んでいた。
だが、彼女は自分に向けられた鋭い視線をはっきりと感じていた。乗った瞬間から、その視線は一瞬たりとも外れなかった。その視線の強さに頭が痺れるようで、落ち着かず、むしろ早く何か言ってほしい――どうせなら、はっきりしてほしい、とすら思ってしまう。
しかし、藤原悠真が何も言わないうちに、小林健太が戻ってきた。
彼は車に乗り込むと、藤原悠真に報告した。「社長、さっき高木先生から連絡がありました。高橋悠斗くんが目を覚ましたんですが、容体が良くないので、なるべく早く来てほしいと。」
藤原星奈はその言葉にすぐ反応し、小林健太を見て問いかけた。「あの子には刺激を与えちゃダメ!今、どうなってるの?」
「病院で先生や看護師さんが見てますが、情緒が不安定で、ずっとあなたを呼んで泣いています。」
「早く病院に連れて行って!」藤原星奈は切羽詰まった声で言った。
小林健太は藤原悠真に目で合図を送り、彼のうなずきを確認してからエンジンをかけた。
車の中で、藤原悠真はやはり何も言わなかったが、藤原星奈への視線だけは一瞬たりとも外れなかった。
藤原星奈は、その様子に違和感を覚えた。
黙っているだけでなく、視線の質自体が今までとまるで違う。
これまで何度か顔を合わせた時は、冷たく、鋭く、嫌悪感すら感じさせる目だった。
けれど今日――その視線には、何か別のものが混じっているようで、複雑で掴みきれなかった。
森下海の一件で動揺しているだけなのか、それとも藤原悠真が本当にどこかおかしいのか――藤原星奈の心は落ち着かなかった。
病院に着くと、車が停まるや否や藤原星奈はすぐにドアを開け、後ろも振り返らず病棟へ駆け出していった。高橋悠斗のことが心配なのもあるが、藤原悠真のそばから一刻も早く離れたかったのだ。
藤原悠真はそんな彼女の慌ただしい後ろ姿をじっと見つめ、その瞳に複雑な感情を浮かべながら、静かに車を降りて後を追った。
小林健太は社長の背中を見送りながら、ますます疑問が深まった。社長は昨夜から藤原星奈を探していたが、その目的はどう考えても高橋家の件だけではなさそうだ。ようやく見つけたのに、何も言わないし、あの視線も――どうにも掴みどころがない。ただ一つはっきりしているのは、藤原星奈の前では、社長のいつもの険しさが和らいでいる、ということだけだった。
藤原星奈は高橋悠斗の病室に急いだ。
たった一日ぶりなのに、子どもの顔色は恐ろしいほど青白かった。泣き叫ぶこともなく、ただ目を固く閉じ、小さな体を震わせながら、うわごとのような声を漏らしている。
高橋夫妻と何人かの医師・看護師がベッドの周りに集まり、重苦しい空気が漂っていた。医師たちは小声で病状を話し合い、高橋夫人は涙が止まらず泣き崩れていた。
藤原星奈は挨拶もそこそこに、高橋悠斗の様子を確かめに行った。
すぐ後ろから藤原悠真も現れ、じっと藤原星奈の動きを見守っていた。
藤原星奈が高橋悠斗の手首にそっと触れたその時、悠斗は急に恐怖に駆られて叫びながら目を覚ました。「ああ――!ああ――!」
藤原星奈はすぐに高橋夫人に向き直った。「しばらく、二人きりにさせてください。皆さん、少しだけ部屋の外で待っていただけますか。」
高橋さんは迷いなく全員に退室を促した。
ドアが閉まり、病室は二人きりになる。ほどなくして、中から幼い叫び声が聞こえた。
廊下で高橋家の祖母は心配げに言った。「あの子、医者でもないし資格も持っていないそうだけど……本当に悠斗を任せても大丈夫なの?」
高橋夫人は涙まじりに嗚咽し、高橋さんは深くため息をついた。「呼べる名医は全員来てもらった。でも誰にも打つ手がなかった。このままじゃ悠斗は……もう、彼女に賭けるしかない。」
まさに、絶望のなかの最後の望みだった。
藤原悠真は家族の会話を聞きながら、眉をひそめていた。高橋さんの苦しみは、まるで自分のようだ。優ちゃんのために、できる限りのことはしてきたが、すべてが空回りで……わずかな希望でも、絶対に諦められない。藤原星奈の疑惑がなければ、とっくに優ちゃんに近づけていたのに――
しばらくして、病室のドアが開いた。
藤原星奈は少し疲れた表情ながらも、どこか明るい声で「落ち着きましたよ。お腹が空いたって、ラーメンが食べたいそうです」と伝えた。
一同「えっ!?」
高橋夫人が我に返り、慌てて病室へ駆け込んだ。ベッドの上には悠斗が静かに座っていて、ママを見ると小さな声で「ママ、お腹すいた」と言った。
高橋夫人は声を上げそうになるのを必死でこらえた。
「ママ、お腹すいた。ラーメン食べたい」と悠斗はもう一度言った。
「分かった分かった!ラーメンね!ママが作ってあげる!どんなラーメンが食べたい?」
高橋夫人は涙をぬぐいながら、そう問いかける。
「トマトと卵のラーメン……卵は二つ、いい?」
「いいよ、いいよ!卵二つね!ママ、今すぐ作るから!新鮮なトマトと卵を買ってきて!」
高橋夫人は混乱しながらも、スタッフに指示を出す。
高橋さんも信じられない様子で近づき、「悠斗、私が誰か分かるか?」と尋ねた。
「パパ」
「そうか!」高橋さんは大きく息を吐き、胸を押さえながら「悠斗、もう一度呼んでくれ」
「……パパ」
病室は一転して、家族の喜びと安堵に包まれた。高橋家の人たちは皆、涙を流しながら悠斗を囲んだ。
藤原星奈はその光景を静かに見守り、ほっとした表情で小さく息をついた。
その時、不意に誰かに手首を強く掴まれた――。