ヘンリフォード侯爵フィリップ・メイル・ランカスターは広場に足を踏み入れた瞬間、心底来なければよかったと後悔した。
広間にいる全員が彼らを見つめて嘆息をついたのだ。
グレイストン邸の大広間は帝都一の広さを誇り、数十のクリスタルシャンデリアですみからすみまで照らされている。
これでは注目の的になっても逃げる場所もない。
「フィル、見ろよ。君たちの花嫁候補がいるぞ」
バーモント子爵であるゼインは注目を大いに楽しみ、どこからとも無く手に入れたグラスを掲げ乾杯の仕草をした。
何人かのレディ達が一斉にため息をつく。彼の颯爽とした軍服姿はパーティーでは大いに受けた。
黒いなめし革の眼帯は整った顔立ちを引き立たせ、謎めいた印象を与える。
「この際だれでもいいだろう。フィル、とっとと婚約しちまえ」
フィルは鼻をならした。
いつも朗らかなこの男のユーモアは、時にきつすぎるところがある。
「お先にどうぞ。ゼイン。僕は止めはしない」
「私は問題ない。優秀な兄が二人もいる。しかも甥もいる。双子だよ。めちゃくちゃ可愛い」
「ゼイン。私にも酒をくれ」
グレイストンが不機嫌な様子でつぶやいた。
公爵である彼はこの舞踊会の全く気乗りのしない主役の一人だ。
銀糸の飾り刺繍で彩られた上着をまるで身を守る鎧かのようにキッチリと着込んでいる。
近寄りがたい印象を詰め寄るためだろう、濃い金髪を硬く編み込み、胸元のダイヤモンドの飾りが厳しい印象を補強していた。
ゼインとグレイストンは寄宿舎時代からの親友であり、戦場で命を預けた戦友でもある。
「君の分はない」
「自分の家で酒も飲めないのか?」
「そう。君達は花婿だから酔っ払ってはいけない」
「冗談じゃない」
グレイストンが眉をしかめて給仕に合図をすると、フィルと彼の手にすぐさまグラス届けられた。
フィル、ゼイン、グレイストンが軽くグラスを掲げると、またため息が響いた。
それは感嘆の声にも嘲笑のようにも聞こえた。
まったく。
フィルはため息をついて天井を見上げるのをこらえて、琥珀色の液体が注がれているグラスを睨みつけた。
視界のすみで、空色のクラヴァットがフィルを嘲笑うかのようにヒラヒラとなびいた。
上等な黒絹のジャケットは闇に溶け込むようで、彼の心情にピッタリと合っていた。こだわり屋の従者は「カラスみたいだ」と不満をあらわにし、薄い空色のクラヴァットを差し出したのだ。癖のある黒髪は後ろでゆるく結んである。
親友であるグレイストンとその母君にどうしてもと頼まれて出席したのだが、長年の信頼を裏切ってでも逃げればよかった。
広間には老若男女様々な貴族が集まっていたが、女性の方が多かった。
皆一様に着飾り、広間は世界中の色を集めたように多種多様な絹と宝石と貴金属で煌めいている。
公爵夫人ははりきって帝都中のよりすぐりのレディたちを招待したのだろう。グレイストン公の舞踊会に出席することは帝都最大のステータスなのだ。
フィルは注目を集め、クスクスとした忍び笑いや色目を使われることにうんざりしてた。
グレイストンとゼインとで無茶な遊びに明け暮れたため、3人組の放蕩の日々は帝都中の噂になっていたのだ。
だが、彼は女たらしではなかった。少なくもフィルは。
フィルは童貞だった。
フィルは自分の顔立ちが整っていることも、声がよく響く好まれやすいことも知っていた。薄く微笑みかけてゆっくりと瞬きをすると、相手の女性がうっとりとあだっぽい笑みを返すことに若い頃には気づいていた。フィル、グレイストン、ゼインの3人の中で一番女性にモテた。
だが、フィルは女性と関係を持ったことがなかった。
女性は好きだしキスや戯れる事は好きだ。しかし、一線を越えることはなかった。
グレイストンとゼインと娼館にしけこむ時も、フィルはベッドで大の字になってぐーすかと寝ていた。
こうなった原因はわかっている。
自分でもどうしようもない。古い思い出で蘇り身体の芯が凍りつくのだ。
何度も身体の欲求に苛まれ、治せないか試行錯誤してみたが駄目だった。
そして誰にも話すわけにはいかない。
もちろん親友にも言おうとしたことすらない。
彼だけの絶対の秘密だ。
だから、女たちの間で女好きの遊び人と噂が流されているのは放っておいた。
そのうち稀代の女ったらしだとか、同時に何人もの女と寝室に籠もっているだの尾ひれが付いていることに気づいた時には、噂は手に負えない範囲にまで広がっていた。
たしかに派手に遊び回っていはいたが、女性を無下に扱ったことはないはずだ。なんてったって寝てもいないのだ。
フィルの仄暗い考えが頭をかすめる。
広間の中央で叫んでやろうか?
僕は童貞だぞ。謂れのない噂を真に受けるなよ。
とかなんとか。フィルはため息をついた。
相当重症だ。
冷たい思い出が心のそこから甦る感触を覚え、フィルはグイッとグラスをあおった。
途端に食道に火が付き、腹が燃えるように熱せられた。
「んんっ何だこれっ?」
「おいおい、一気に飲むなよ。年代物の火酒だぞ」
「毒だ」
「上物だよ」グレイストンが心外そうに言った。
咽るように咳き込む。
「風にあたってくる」
「そうしろ」
ゼインが呆れた肩をバンバンと叩いた。
まったくなんて日だ。
テラスに出ると舞踊会の喧騒は遠くなり、彼は少しの間その静けさを楽しんだ。涼しい風が火照った身体に気持ち良い。
中庭が見下ろせ、何人ものカップルが月の下で愛を囁いていた。
そして、テラスの奥に誰かいる。
暗いセピア色が闇に溶け込み、白い顔と金色の髪だけがぼんやりと月明かりに照らされている。
彼女は……
――エレニアだ。
薄い透けるような金の髪を優雅に結い上げて、エメラルドの髪飾りが美しい髪色を引き立たせている。
ほっそりとした長身で、小柄で肉感的な今の流行りの体格ではないが、とても優雅に見えた。
暗いセピア色のドレスは見たこともない骨董品に見えたし、彼女に絶望的に似合っていなかった。それでも広間の明かりと満月に照らされた彼女の横顔は、穏やかだった。
彼女とは10年近く前に挨拶したことがあった。
社交界デビューするデビュタントはデビュー前に知り合いの貴族の屋敷でお茶会をするのが習わしになっていた。
フィンの母親のお茶会に出席した彼女に兄と一緒にもじもじと挨拶をしたのを覚えている。
あの時は若草色のドレスを来た少女で、大して歳は変わらないのに自分よりもずいぶん大人びて美しく見えた。
あのまま寄宿舎に行き大学に行ったので、彼女と会ったのはそれっきりだった。
急になにもかも懐かしく思えてくる。
あの時はなんの問題もなかった。兄も元気だったし、母もいた。
ぼんやりと将来は軍人になって名を残し、彼女のような美しい女性と恋に落ちると呑気に考えていた。
今は兄も母も亡くなり、爵位と女ったらしの称号だけが残って、暗い秘密も抱えている。
彼女は僕を覚えているだろうか。
急に心に浮かんだ疑問に、フィルはギョッとした。
まったく図々しいにも程がある。酒が回ってきたらしい。
だが、声をかけて少々質問したところで名前は落ちるところまで落ちている。朝食代わりに毎朝処女を食っていると思われている身だ。これ以上評判は落ちようがない。
フィルはさりげない口調で声をかけた。
「シュールズベリー伯爵夫人ではありませんか」
少々わざとらしかった気がする。ただ、今のところ精一杯だ。
「あなたは……」
エレニアは戸惑った様子で優雅にお辞儀をした。
エメラルドの髪飾りが後れ毛とともに揺れ、フィルはドキリとした。
「ご紹介されたことがありましたか?」
エレニアは怪訝な様子で彼を見つめている。
フィルは内心ガッカリしたことに驚いた。当然予想されていたことなのに。
「ええ、昔に」
フィルは動揺した気持ちを隠していつもの笑みを浮かべた。
「まぁ、いいでしょう」
エレニアはしばらく考え込んで眉間にしわを寄せたが、やがてふっくらした唇を笑顔に変えた。
やったぞ。少なくともさっさと失せろとは言われてない。
しっかりしろ! 会話を続けるんだ。
「このシーズンでお見かけするのは初めてですね」
「ええ。喪に服していましたから」
エレニアの瞳に影がかかった。僕はどうしようもない間抜けだな。ゼイン達が見ていたら大笑いされただろう。
「シュールズベリー伯爵のこと。お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます。ヘンリフォード侯爵。アーサーも喜んでいますわ」
「僕の事はフィルと呼んでください」
なにも考えずに口に出していた。あまりにも唐突な申し出にギョッとしたが、彼はなんとか取り繕った。
それにフィルと呼んでくれても全く構わない。問題はない。
エレニアはどうやら聞かなかったことにしたようだ。賢い女性だ。
気まずい沈黙を破るようにエレニアはクスクスと笑い出した。
「どうかしましたか?」
「いえ……」エレニアに吹き出すのを堪えるかのように言った。
「私のような女とあなたのような方が話しているのがおかしくて」
「『私のような女』とは?」
「地味で……」
断じてそんなことはない。幸福感で輝いているではないか。
フィルは即答した。
「控えめです」
「古臭いドレスを着た……」
この質問は罠だ。たとえそうだとしても言ってはいけない事がある。
「流行に流されない」
「パッとしない未亡人」
エレニアは自虐的につぶやいた。
まったく、彼女はそんな風に自分を見ているのか?
冗談じゃない、鏡を見れば一目瞭然だ。
アーサーのヤツ彼女に何もしていなかったに違いない。
「あなたの輝きは夜露のように穏やかで、静かに周囲を照らし皆を惹きつけるでしょう」
エレニアの頬が赤くなったのに気付き、フィルは満足感を味わった。
「このドレス、麻袋みたいでしょう?」
虚を突かれフィルはフッと吹き出した。確かにろうそくの光に照らされると麻袋に見えた。
否定はできないが、同意するのもだめだ。ましてや似合っている等とは口が裂けても言えない。
「上等のシルクに見えますよ」
「帰ったら絶対に燃やすの。二度と着ることはないわね」
「それがいいでしょう」
エレニアが微笑み、フィルは喉が詰まりそうになった。
やった。彼女が心から笑っている。
「次は僕の番です。『あなたのような男』というのは?」
フィルは気取った仕草で首をかしげた。彼女にもっと喋って欲しい。この際僕の噂でもいい。なんでもいいから自分のことについて話題に出してほしかった。
「公爵の悪友」
「あなたも伯爵婦人です。僕と会話しておかしいことはない」
「遊び人」
まぁね。
「問題でも?」
「女たらしと評判の」
フィルは呆れた表情をするのをこらえた。
「噂ですよ」
「寝室の前にレディが列を作っているとか……」
まったく。誰が言い出したんだか。確かにすれ違うレディ方から寝室へのお誘いは絶え間なくある。だが、どれも断っている。フィルは肩をすくめた。
「最も狙い目な独身貴族」
「それはグレイストンですね。僕はありふれた男ですよ」
彼は芝居がかった様子でため息をついた。
「御婦人方の間で出回っている噂はそのくらいですか? 今までせっせと話題を振りまいて楽しい評判を積み上げてきたのに、残念だな」
「ねぇ、あなたは美辞麗句を聞き飽きていると思うし、あなたが聞いたことのない噂もお世辞も私は言えないわ」
「例えば……? 聞いてみない事には判断できませんね」
エレニアの眉がしかめた考え込む様子に思わず笑みを浮かべた。小首を傾げて考え込む様子も可愛らしい。
「あなた大鴉みたい」
フィルは思わず声を上げて笑った。
「ありがとう。シュールズベリー伯爵夫人。僕を鴉に例えたのはあなたが二人目です」
クスクスと笑いながら続ける。
「僕はあなたが思っているよりずっと誠実な男かもしれませんよ。今も広間から逃げてきたのです。僕がデビュタントと目を合わせると彼女たちの母君から睨まれるし、なにもしないでいるとどこからともなく女性達が押し寄せてくる。彼女たちの評判を落とすわけにはいかないでしょう」
「そうでしょうとも」
次の瞬間、フィルは何も考えずに喋っていた。
「僭越ながら散歩にお付き合いいただけませんか? 中庭を一回り。大鴉がいるかもしれません。僕とじっくり比べられるかも」
腕を差し出して突っ立っている自分が間抜けに思えた。
返事までが永遠に感じる、そして、どうか困った様子で礼儀正しく断ってくれと願った。
一抹の期待もある。鼓動が早くなった。
「ええ。よろこんで」
フィルは彼女の手を取ると自分の腕に回し、彼女の気が変わる前に庭園に続く階段を進んだ。
彼女のほっそりとした手が冷たく感じる。
彼女は礼儀正しい距離を保ち、軽く手をかけるだけだ。
並ぶとフィルの目に彼女の耳が並ぶ。フィルも身長が高い方だが、彼女も随分高い。
歩くたびにエメラルドのイヤリングがチラチラと揺れる様子を楽しんだ。
フィルは彼女の横顔を堪能した。
金色の長いまつげが頬に影を作り彼女の表情は見えない。
二人は無言で進んだ。
女性のエスコートは慣れていた。
今まで何百人の女性と腕を組み、舞踊会で、庭園で、どんな相手とだって会話は続けられた。
だが、今は気の利いた言葉が出てこない。
例えば、僕たちは10年前に会ったことがあるだとか。
彼女の結婚生活とか。
いや、それはやめておこう。
彼女がどこか他の男とキスをしている場面を想像しギュッと胸が掴まれた。
キスか。ふん、しちゃ悪いか。
この庭園中のそこかしこでパーティーを抜け出した男女が愛を囁いている。
礼儀正しい距離を保っているのは、僕達くらいだろう。
最後に自分からキスをしたのはいつだったかぼんやりと思い出そうとした。
いつだ?自分からどうしてもキスしたい思った相手が思い出せない。何度も女性とキスはしているから、少なくともいたはずだ。
いや、いなかったのかも。
さぁっと足元が暗くなるのを感じる。
これからの人生が冷たい闇の中を孤独で進む気がした。どんな女性とも親密な関係を続けられず、人の噂に上がる自分は全くの別人。孤独のまま力尽きる人生だ。
フィルは今まで噂を否定しなかった事を強く後悔した。
二人は東屋の池の近く、人気のない場所で自然と足を止めた。
水面に反射した月明かりがチラチラと揺れている。
舞踊会の音楽はもうだいぶ遠くから聞こえていた。
そして、どちらかともなく唇をあわせていた。
思いがけず優しいキスだった。エレニアの唇は柔らかく甘かった。
エレニアの手がそっと首元にかかり、優しく頭を撫でられている感覚にフィルは慰められた気がした。
そっと首筋をなでられ、人生が手から滑り落ちていく感覚を味わう。
今まで手綱を取っていたものがどうにもならなくなる。
彼女のキスは素晴らしかった。
「んん……はぁ……」
息をはくとさらにキスは深まった。
腰に手を回しエレニアを引き寄せる。すがりつくように強く抱きしめたい。だが、無理だ。
お互いの舌がからみあい熱のある息を感じると、身体の奥がボウっと満たされていくのがわかった。
フィルは探るようにエレニアの舌を重ねた。
コルセットを撫でると彼女の身体が震え、フィルは満足感を味わった。
二人は息を荒らげて見つめ合った。
フィルはエレニアの頬をなで上げた。彼女はまるで猫のようにフィルの手に頬をすり寄せている。
若草色の瞳は潤み、眠たげな瞳でフィルを見つめている。
「もう一度……」
喉が詰まったような声になってしまった。
エレニアは喜んでもう一度唇を重ね合わせた。今度は今までもよりも深く。
舌を重ね、相手を誘うように唇を噛む。
彼女ではないと死んでしまうというほど強く抱きしめる。
「――ん……あぁ」
甘い吐息が唇をくすぐる。
スカートの分厚い布越しにエレニアの脚を感じ鼓動が早くなる。
真っ白の小さな足が、フィルの太ももをスルスルと撫でる様子が思い浮かぶと駄目だった。
全身の血が一気に脚の間に集まり、ボゥっとした頭の中でなにも考えられない。
身体が硬直して熱い。
身体が自然に揺れ、フィルの腰にエレニアの硬いコルセットが当たる。
彼女も興奮しているのだろか、僕のように。
彼女と関係を持てるかもしれないという期待感に、胸の高鳴りが止まらない。
彼女がほしい。どうしても。
突然、過去の思い出が甦り、周りの景色が一変した。
荘厳な調度品に彩られた薄暗い部屋。豪奢な織のカーテンが揺れる窓辺には、鈍く輝くシャンデリアが吊るされている。暗がりに浮かぶ真っ白な裸体。濃厚な香りが鼻につく。
身体の芯が凍りつき息もできなくなる。
やはりできないのか?
フィルは恐怖を感じてエレニアを押しのけた。
急に吐き気がこみ上げ、フィルは一歩下がった。
身体が硬直して声が出ない。
彼女は驚いた様子でフィルを見上げている。長いキスで少し腫れた唇と混乱して潤んだ瞳が痛々しい。
「ここまでにしましょう」
どうにか絞るように声を押し出した。
「え、ええ。そうね……」
エレニアは戸惑った様子で、乱れてもいない髪を直した。
「わ、私は……もう帰るわ。玄関まで送ってくださる?」
二人は無言で歩き出した。
満月は今は陰り、うす青い曇天が広がっている。
キラキラした瞬間が失われてしまった。
なにから何まで僕のせいだ。
彼女は素晴らしかった。とてつもなく最高のキスだったのは間違いない。このまま彼女の中に埋めたいと思うほどに。
首に回されたひんやりとした手の感触がまだ残っている。
もしかしたら彼女とならと欲をかいた結果がこれだ。
やったじゃないか。彼女を最高に気まずい思いをさせ、思い出したくもなかった記憶を久しぶりに蘇らせてしまった。
馬車を待つ間も二人は無言だった。
先に沈黙を破ったのはエレニアだった。
「今夜はありがとうございました」
「いえ」彼女に視線を合わせる事ができない。
エレニアはつま先立ちになると、フィルの目を見てハッキリと口を開いた。
「ヘンリフォード侯爵。あなたは私のキスをお気に召さなかったようですが、私はとても満足しましたわ。素敵な時間でした」
「え……?」
フィルはぽかんと口を開けて、閉じた。
「これからの取っ掛かりになりそうなくらい」
エレニアは意味深な笑みを浮かべると来た馬車に乗り込んだ。
「これから……って、あのっ!」
ドアに手をかけようとするが、馬車は無情にも進み始めた。
フィルは立ち尽くしたまま、呆然と小さくなる馬車を見つめていた。
ぶるりと震えて、腕をさする。
くそっ……取っ掛かりだって?そんなモノになってたまるか。
絶対に彼女を手に入れるべきだ。
明朝、彼女の屋敷を訪ねよう。
今晩の非礼を詫びるとか言って。少なくとも戯れじゃなかったし、彼女はなにも悪くはなかったとは伝えるべきだ。
フィルは初めて女性に対して誠実になろうと決意した。
その前に片付けるべき問題は山ほどあるが、まずは彼女にもう一度会いたい。
彼女が拒絶したら? 十分ありえる。その時は飲んだくれて新しい噂が広まるのを待つことにしよう。
酒浸りで今夜のような満月の夜に思い出すのだ。セピア色のドレスと共に、彼女は素晴らしかったと。
フィルはくしゃみをして空を見上げた。
自分の噂すら手に負えなくなっているのに、僕が彼女に何をしてやれるというのだ。だが、諦める気にはならなかった。
やっぱり舞踊会には来なきゃよかった。