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第2話 暮長町の家相


九条光司が最初に彼女の婚約者になることを決めたのは、決して本心からの愛情ではなかった。彼は特別な運命を背負っており、いわゆる「孤星」の宿命――近しい人々を不幸にする運命に縛られていた。


どんな女性を娶っても、最終的にはその命を奪い、子を残すことも叶わない。


ただ、星野遥菜だけが、その強い運命をもって彼の「孤星」の宿命を打ち破れるかもしれない唯一の存在だった。


幼い頃、遥菜は彼に憧れ、情熱的に想いを寄せていたこともあった。だが今ではその気持ちもすっかり冷め、未練も残っていない。


遥菜はリビングで様々な表情を浮かべる人々の間をすり抜け、自分の荷物をまとめに向かった。


彼女の持ち物は多くない。白鳥家に引き取られてから、普段の生活には何ひとつ不自由しなかった――達也はその点に少しばかり負い目を感じていたかもしれない――しかし、本当に自分のものはごくわずかだった。


物置の奥深くまで進み、埃をかぶった古いバッグを引っ張り出す。底に大切に隠してあった式盤や占い道具、護符の束、辰砂の筆を丁寧に取り出し、そっとバッグに収めた。


五歳から児童養護施設の院長にこれらを教わってきた。院長は遥菜の稀有な才能のもち主であると見抜き、教え子の中でも一番の逸材だと常に口にしていた。


八歳で白鳥家に引き取られた後も、機会をみてはこっそり院長のもとを訪れていた。だが、ある日白鳥家の人に占いをしているところを見つかってしまう。


「今どきそんな迷信じみたことをやって……頭がおかしいんじゃないの?」と厳しく叱られた。


白鳥美鈴はさらに声を荒げて、使用人たちに命じた。


「そんなガラクタ、全部捨てて!もう二度とそんなもの見せないで!」


それ以来、遥菜は一切手を触れなくなった。大切な思い出の品々は、物置の隅にそっと隠され、長い間そのままだった。


バッグを背負い、遥菜は一度も振り返らず白鳥家を出た。荷物が少なすぎて、スーツケースすら必要なかった。


美鈴は去っていく遥菜の背中に憎まれ口を叩く。


「あんな貧乏な暮長町なんかに行って、泣きついても知らないから!」


九条光司も慌てたように声をかけてきた。


「遥菜!今なら美桜に謝れば間に合う。婚約は取り消さない。明日、役所に行こう!どうだ?」


遥菜は足を止め、ゆっくりと振り返る。その目は静かに、家の中の知った顔――それでいてどこか他人のような顔――を見渡した。


「必要ありません。」


その声は澄んでいて、完全に距離を置いた響きだった。


「みなさん……どうぞお幸せに。」


特に、九条光司のような「孤星」の傍にいる白鳥家が、早くその運命に飲み込まれるように――。


ちょうどタクシーが停まり、遥菜は無言で乗り込んだ。誰のことも振り返らずに。


光司は走り去る車の後ろ姿を睨みつけ、唇を噛みしめて低く呟いた。


「星野遥菜……必ず戻って俺に頼み込むことになるからな。」





横浜市、暮長町。


カビとゴミが入り混じったような悪臭が漂い、思わず顔をしかめたくなる。遥菜は簡素な荷物を手に、紙切れに書かれた住所を頼りに、錆びついた今にも壊れそうな木のドアをノックした。


扉の向こうには、みすぼらしい格好の二人がこちらを不安げに覗き込んでいる。


「ギイ……」


ドアが開く。現れたのは、色あせた服に継ぎを当て、顔に薄く汚れがついた女性。その目元は遥菜とよく似た、はっきりとした桃花眼だった。


「どなたですか?」


女性は不思議そうに尋ねる。


遥菜は丁寧に答えた。


「初めまして。星野遥菜です。」


女性の表情が一瞬で固まり、驚愕に変わる。焦ったように遥菜の顔を見つめ、首元に下がった翡翠の守りを見つけると、さらに目を見開いた――それは、昔娘に託した唯一の証だった。


「あなた……遥菜?本当に、遥菜なの?」


女性の声は震え、目には涙が浮かぶ。思わず遥菜の顔に手を伸ばしかけ、手の汚れに気づいて慌てて引っ込めた。


「お母さんですよね?」


遥菜の声は落ち着いていた。


「今夜、ここに泊まってもいいですか?」


その一言で、女性の心に希望が灯る。


「……泊まってくれるの……?」


何度も白鳥家を訪ねて遥菜に会おうとしたが、家の者に冷たく追い返され続けてきた。彼らは汚い庶民と罵り、「遥菜は白鳥家でお嬢様として幸せにしてる、あなたたちに会う必要なんてない」と言い放った。


最後には美鈴が金を投げつけて、「遥菜ならもう名家に嫁いで奥さんやってるよ。あんたたちのことなんて忘れてるに決まってる、帰れ!」と吐き捨てたこともあった。


遥菜はうなずきはっきりと答えた。


「はい。今日から、ここで暮らします。いいですか?」


「誰だ……ゴホッ、ゴホッ……」


奥から激しく咳き込む声が響く。やつれた顔で壁にもたれながら出てきたのは、遥菜の父だった。彼女を見てしばし言葉を失う。


「ほ、星野遥菜……?」


震える声で、思わずポケットに手を伸ばす。そこには、娘が八歳の時の写真が大事にしまわれている。施設の院長から必死に譲り受けた一枚だ。写真の少女は幼いが、今目の前にいる遥菜を一目でわかった。


遥菜は父の姿を見て、少しよそよそしさを残しつつも穏やかに呼びかけた。


「お父さん。」


父は胸を大きく上下させ、しばらくしてようやく息を整え、何度もうなずいた。


「ああ……ああ……どうして戻ってきたんだ?」


その目には信じられないほどの喜びが溢れていた。


遥菜は静かに白鳥家を離れた経緯を話した。暮長町の家は狭く、部屋も少ない。だが今は兄たちもいないため、とりあえず皆で使っている布団に寝かせてもらうことになった。


薄暗く、壁の塗装が剥がれた部屋を見渡し、遥菜はほんの一瞬だけ眉をひそめた。


この家の「家相」本当に最悪だ。


思い返せば、星野家は九年前に破産している。父・星野文彦は全てを売り払い、家族を連れてこの暮長町に移り住んだ。


最初の二年、星野文彦は現実を受け入れられず、宝くじで一発逆転を狙い、わずかな蓄えも使い果たした。母は三人の息子を学校に通わせるため、毎日五つも仕事を掛け持ちし、ついに体を壊した。そのときようやく文彦も目を覚まし、建設現場で働き始めた。


長男・星野将大は、九年前の出来事で貴重な留学の夢を諦め、会社勤めに早々と切り替え、仕事場で寝泊まりし月に一度しか帰ってこない。


次男・星野隆太は、元々芸術の才能があったが、高い学費を払えず夢を断念。今は撮影所を転々としながらエキストラの仕事をしているが、収入は少なく、ほとんど家には帰らない。


末っ子の陽向は星野遥菜より一つ上で、早くから職業高校に通い、今は小さな食堂で板前見習いとして働いている。忙しいときはホールの手伝いもするらしい。家に毎日帰ってくるのは彼だけだ。


遥菜の視線は、再び星野文彦に向けられた。本来なら白鳥達也と同い年のはずなのに、今や十歳以上年老いたように見える。


遥菜は来る前に、ひそかに星野家の運勢を占っていた。


自分の強い運命は、家族の運勢と繋がっている。星野家が栄えれば、自分も運が開ける。星野家が衰えれば、自分の運も落ちる。


それなら、まずは星野家をもう一度立ち上がらせてみせる。






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