白菜をぎゅっと抱きしめた遥菜は、ふと手を止めた。
見下ろすと、袖が少しめくれ上がり、腕には古い傷跡が無残に見える。
ほんの一瞬目にしただけでも、その傷の深さが伝わってくる。
遥菜は表情を変えず、白鳥家で腕を切られたことを簡単に陽向に話した。
「そんな……そんなことされたのか?!」
陽向は瞬時に目を赤くし、怒りを抑えきれなかった。
「だめだ!今からあいつらのところに行って謝らせる!」
「陽向ちゃん。」
遥菜は静かに呼び止めた。その声には、逆らえない強さがあった。
「もういいの。」
「どうして……?こんなこと、許せるはずがないよ!」
遥菜はその言葉をやんわり遮った。
「陽向ちゃん、もし謝って済むなら、警察なんていらないでしょ?」
陽向は何も言えず、黙り込んだ。そうだ、あいつらみたいな権力者が、心から謝るなんてあるはずがない。
「陽向ちゃん、星回りって信じる?」
遥菜はふっと話題を変えた。
怒りに包まれていた陽向は、突然の問いに戸惑い、少し間があいた。
「星回り……?」
「占いのこと。」
遥菜は陽向を見つめる。
「さっきスーパーで白鳥美桜と九条光司を見かけたから、こっそり占ってみた。」
陽向は目を見開き、戸惑いを隠せない。妹がそんなことを信じているなんて。
その顔を見て、遥菜は小さくため息をついた。
「まあ、信じられないよね。」
三年前、白鳥家が「迷信に取りつかれている」という理由で、自分を療養施設に送ったことを思い出す。
「ち、違う!僕、信じるよ!本当に信じてる!」
陽向は慌てて口にした。たどたどしいが、その声は真剣だった。
遥菜は、よくわかっていないのに一生懸命な陽向の様子に、思わず微笑んだ。
「本当に?」
「ほ、本当だよ!信じてる!」
陽向は大きく頷き、自分の手のひらを差し出す。
「遥菜、俺のも見てくれない?」
最初は占うつもりはなかったが、ここまで期待されては断れない。あの三年間、療養施設で何度も占ったけど、誰も本気にしてくれなかった。
「白鳥家と九条家は、近いうちに大きな災いに見舞われる。運命は予測できないけど、最後は九条光司のせいでどちらも滅びるわ。」
陽向は半信半疑のまま聞いていたが、自分のことが気になり手を差し出した。
「じゃあ……僕は?僕の手相、どう?」
遥菜は陽向の手のひらを見つめた。
「陽向ちゃんは決断力があって、情に厚い。この運命線ははっきりしてるし、これからの一ヶ月で仕事に新しい転機が来るはずよ。」
言い終えると、陽向の顔からは笑顔が消え、どこか寂しげな表情になった。
「どうしたの?」
「仕事の転機なんて……」
陽向は苦笑いしながら、小さな声で言った。
「俺なんて、厨房の端っこで皿洗いしてるだけの見習いだよ。」
そのときバスが停まり、暮長町の停留所で多くの人が降りた。混雑の中で、遥菜の白いスニーカーは何度も踏まれて黒ずんだ跡がついた。
陽向は妹の靴の汚れに気づき、自分を責めるように胸が痛んだ。妹にこんな思いをさせるなんて。
家に帰ると、陽向はすぐにキッチンにこもって料理を始めた。鍋やフライパンの音で、気持ちの沈みをかき消そうとしているようだった。
遥菜は自室で荷物を整理していると、机の上に置かれた手書きの楽譜が目に留まった。鉛筆の跡は少し雑だけど、不思議な魅力があった。
彼女はキッチンを振り返り、携帯でその楽譜を撮って、友人の佐藤雄治に送った。かつてのクラスの音楽係で、今や業界屈指の音楽プロデューサーだ。
写真を送って数秒後、すぐに佐藤から電話がかかってきた。
「遥菜!やっと連絡くれたな?三年も消えて、全然音沙汰なかったじゃないか!三年前、あんなに頼み込んだのに曲書いてくれなかったくせに、やっとやる気になったのか?……でも、この曲、君っぽくないな?何か変わった?」
「私じゃないよ。」
遥菜は淡々と答えた。
「君じゃない?じゃあ誰だよ!?」
佐藤の声が一気に上がる。
「三番目の兄。」
「兄さん?……え、家族を見つけたのか?」
佐藤は驚く。
「うん。」
遥菜はそれ以上家のことを語らず。
「曲、どうだった?」
「最高だよ!君の兄さん、天才じゃないか!」
佐藤は興奮気味に。
「会わせてくれないか?」
「本人に聞いてみる。」
「頼むよ!絶対説得してくれ!OKしてくれたら、歌でもバラエティでもアルバムでも全部俺がプロデュースする!」
遥菜は小さく舌打ちした。
「……三年経ってもまだ満足できる新人、見つからないの?」
「そうなんだよ!君こそ理想の作曲家だったのに……」と残念がりながらも、
「でも大丈夫!陽向ちゃんがその才能なら、絶対売り出すよ。才能は必ず光るから!」
「遥菜!」
外から陽向の声が聞こえる。
「ご飯できたよ!」
「はーい!」
遥菜は明るく返事をして、電話に向かって言った。
「じゃあ切るね、ちょっと本人にも話してみるから。」
携帯を置いてリビングに行くと、陽向が料理を運んでいた。遥菜が微笑んでいるのを見て、陽向も自然と笑顔になった。
「なんかいいことあった?」
「陽向ちゃん、机の上の楽譜、あなたが書いたの?」
陽向の顔が一気に赤くなり、しどろもどろに答えた。
「う、うん……適当に書いただけだよ。」
「それ、友達に見せちゃったんだけど、いい?」
陽向はさらに顔を赤らめ、うつむいて小さい声で言った。
「い、いいよ……でも、笑われたらやだな……」
遥菜は陽向の根深い自信のなさを感じ、そっと肩に手を置いた。
「笑われてないよ。曲、すごくいいって褒めてた。」
陽向は驚いて顔を上げ、信じられないという表情を浮かべた。
「すごく有名な音楽プロデューサーで、佐藤雄治っていう人よ。」
遥菜は彼を見つめて言った。
「陽向ちゃん、会ってみたい?」
音楽プロデューサー……佐藤雄治……
その名前が、陽向の耳に雷のように響いた。子どものころから音楽が好きで、ノートにいっぱい曲を書き、楽器に触れるのが夢だった。学生時代にバンドに入ったのが一番の思い出。働き始めてからは、ギターを買うことすら遥かな夢になっていた。
「本当に……会ってくれるの?」
陽向の声は、興奮で震えていた。