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第5話 楽譜と傷跡


白菜をぎゅっと抱きしめた遥菜は、ふと手を止めた。


見下ろすと、袖が少しめくれ上がり、腕には古い傷跡が無残に見える。

ほんの一瞬目にしただけでも、その傷の深さが伝わってくる。


遥菜は表情を変えず、白鳥家で腕を切られたことを簡単に陽向に話した。


「そんな……そんなことされたのか?!」


陽向は瞬時に目を赤くし、怒りを抑えきれなかった。


「だめだ!今からあいつらのところに行って謝らせる!」


「陽向ちゃん。」


遥菜は静かに呼び止めた。その声には、逆らえない強さがあった。


「もういいの。」


「どうして……?こんなこと、許せるはずがないよ!」


遥菜はその言葉をやんわり遮った。


「陽向ちゃん、もし謝って済むなら、警察なんていらないでしょ?」


陽向は何も言えず、黙り込んだ。そうだ、あいつらみたいな権力者が、心から謝るなんてあるはずがない。


「陽向ちゃん、星回りって信じる?」


遥菜はふっと話題を変えた。


怒りに包まれていた陽向は、突然の問いに戸惑い、少し間があいた。


「星回り……?」


「占いのこと。」


遥菜は陽向を見つめる。


「さっきスーパーで白鳥美桜と九条光司を見かけたから、こっそり占ってみた。」


陽向は目を見開き、戸惑いを隠せない。妹がそんなことを信じているなんて。


その顔を見て、遥菜は小さくため息をついた。


「まあ、信じられないよね。」


三年前、白鳥家が「迷信に取りつかれている」という理由で、自分を療養施設に送ったことを思い出す。


「ち、違う!僕、信じるよ!本当に信じてる!」


陽向は慌てて口にした。たどたどしいが、その声は真剣だった。


遥菜は、よくわかっていないのに一生懸命な陽向の様子に、思わず微笑んだ。


「本当に?」


「ほ、本当だよ!信じてる!」


陽向は大きく頷き、自分の手のひらを差し出す。


「遥菜、俺のも見てくれない?」


最初は占うつもりはなかったが、ここまで期待されては断れない。あの三年間、療養施設で何度も占ったけど、誰も本気にしてくれなかった。


「白鳥家と九条家は、近いうちに大きな災いに見舞われる。運命は予測できないけど、最後は九条光司のせいでどちらも滅びるわ。」


陽向は半信半疑のまま聞いていたが、自分のことが気になり手を差し出した。


「じゃあ……僕は?僕の手相、どう?」


遥菜は陽向の手のひらを見つめた。


「陽向ちゃんは決断力があって、情に厚い。この運命線ははっきりしてるし、これからの一ヶ月で仕事に新しい転機が来るはずよ。」


言い終えると、陽向の顔からは笑顔が消え、どこか寂しげな表情になった。


「どうしたの?」


「仕事の転機なんて……」


陽向は苦笑いしながら、小さな声で言った。


「俺なんて、厨房の端っこで皿洗いしてるだけの見習いだよ。」


そのときバスが停まり、暮長町の停留所で多くの人が降りた。混雑の中で、遥菜の白いスニーカーは何度も踏まれて黒ずんだ跡がついた。


陽向は妹の靴の汚れに気づき、自分を責めるように胸が痛んだ。妹にこんな思いをさせるなんて。





家に帰ると、陽向はすぐにキッチンにこもって料理を始めた。鍋やフライパンの音で、気持ちの沈みをかき消そうとしているようだった。


遥菜は自室で荷物を整理していると、机の上に置かれた手書きの楽譜が目に留まった。鉛筆の跡は少し雑だけど、不思議な魅力があった。


彼女はキッチンを振り返り、携帯でその楽譜を撮って、友人の佐藤雄治に送った。かつてのクラスの音楽係で、今や業界屈指の音楽プロデューサーだ。


写真を送って数秒後、すぐに佐藤から電話がかかってきた。


「遥菜!やっと連絡くれたな?三年も消えて、全然音沙汰なかったじゃないか!三年前、あんなに頼み込んだのに曲書いてくれなかったくせに、やっとやる気になったのか?……でも、この曲、君っぽくないな?何か変わった?」


「私じゃないよ。」


遥菜は淡々と答えた。


「君じゃない?じゃあ誰だよ!?」


佐藤の声が一気に上がる。


「三番目の兄。」


「兄さん?……え、家族を見つけたのか?」


佐藤は驚く。


「うん。」


遥菜はそれ以上家のことを語らず。


「曲、どうだった?」


「最高だよ!君の兄さん、天才じゃないか!」


佐藤は興奮気味に。


「会わせてくれないか?」


「本人に聞いてみる。」


「頼むよ!絶対説得してくれ!OKしてくれたら、歌でもバラエティでもアルバムでも全部俺がプロデュースする!」


遥菜は小さく舌打ちした。


「……三年経ってもまだ満足できる新人、見つからないの?」


「そうなんだよ!君こそ理想の作曲家だったのに……」と残念がりながらも、


「でも大丈夫!陽向ちゃんがその才能なら、絶対売り出すよ。才能は必ず光るから!」


「遥菜!」


外から陽向の声が聞こえる。


「ご飯できたよ!」


「はーい!」


遥菜は明るく返事をして、電話に向かって言った。


「じゃあ切るね、ちょっと本人にも話してみるから。」


携帯を置いてリビングに行くと、陽向が料理を運んでいた。遥菜が微笑んでいるのを見て、陽向も自然と笑顔になった。


「なんかいいことあった?」


「陽向ちゃん、机の上の楽譜、あなたが書いたの?」


陽向の顔が一気に赤くなり、しどろもどろに答えた。


「う、うん……適当に書いただけだよ。」


「それ、友達に見せちゃったんだけど、いい?」


陽向はさらに顔を赤らめ、うつむいて小さい声で言った。


「い、いいよ……でも、笑われたらやだな……」


遥菜は陽向の根深い自信のなさを感じ、そっと肩に手を置いた。


「笑われてないよ。曲、すごくいいって褒めてた。」


陽向は驚いて顔を上げ、信じられないという表情を浮かべた。


「すごく有名な音楽プロデューサーで、佐藤雄治っていう人よ。」


遥菜は彼を見つめて言った。


「陽向ちゃん、会ってみたい?」


音楽プロデューサー……佐藤雄治……


その名前が、陽向の耳に雷のように響いた。子どものころから音楽が好きで、ノートにいっぱい曲を書き、楽器に触れるのが夢だった。学生時代にバンドに入ったのが一番の思い出。働き始めてからは、ギターを買うことすら遥かな夢になっていた。


「本当に……会ってくれるの?」


陽向の声は、興奮で震えていた。






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