蒼空は裏方のスタッフ全員を追い出し、ドアに鍵をかけた。
陽葵はその様子を見て、静かに後ずさると、机の上の尖った木製コームを手に取り、背中に隠す。
もし蒼空が何かしてきたら、絶対に抵抗してやる――そう心に決めていた。
不二子はバーの警備員を連れて、急いで裏口へと向かった。
ドアを押してみたが、開かない。中から鍵がかかっていた。
鍵は持っていなかったので、部下に取りに行かせ、自分は警備員とともにドアの前に待機した。
もし中から異変が聞こえたら、すぐにでも飛び込むつもりだった。
蒼空の友人たちも駆けつけてきた。
彼らもドア越しに声をかける。
「蒼空、落ち着け」
「とにかくドアを開けてくれ」
それでも返事はなかった。
中から物音ひとつ聞こえてこない。
「蒼空なら、そこまで無茶はしないだろう。少し時間をあげよう」
松下はこのグループの中で蒼空と一番親しい。
そう言われてしまえば、他の皆も何も言えなかった。
それにしても、あの歌手の桔梗がどんな人物なのか、蒼空をここまで動揺させる理由が気になって仕方がなかった。
控室の防音はそれほど良くはないが、外の声が完全に届かないほどでもない。
皆、じっとドアの前で様子をうかがっていた。
部屋の中では、彼が一歩近づくたびに、彼女は一歩後ずさる。
その様子が、灰崎蒼空をさらに苛立たせた。
「陽葵、お前は恥というものを知らないのか。ここで腰を振って男を誘惑して、そんな生き方がしたいのか?それとも、もともとそういうふしだらな女だったのか!」
蒼空はまるで理性を失った炎の塊のようだった。
その怒りは陽葵をも巻き込み、焼き尽くそうとしている。
陽葵は拳を握りしめ、怒りを抑えきれなかった。
「私の生き方があなたに何の関係があるの?あなたは誰よ?何の権利があって私の人生に口を出すの?」
「俺が誰かだと?」
蒼空は勢いよく彼女の肩をつかんだ。
陽葵は毅然としたまま、彼の目をまっすぐに見返した。
「俺はお前の夫だ。ここで男を誘惑するような下品な真似は絶対に許さない!」
「ふっ」と陽葵は鼻で笑った。
「灰崎さん、念のため言っておくけど、私たちはもう離婚している。今の私は一条陽葵。何をしようと私の自由よ。私はこの店で歌手として働いて、自分の力で稼いでいる。あなたたちみたいに遊びに来ている人たちより、よっぽど誇り高いと思うけど?」
どの言葉が蒼空を刺激したのか、彼の表情はみるみる歪んでいく。
ここで歌って誇りだと?自由だと?しかも自分と比べて?
「いいだろう、一条陽葵。お前は何を誇っているんだ?その美しさも、体も、すべて俺のおかげじゃないか!」
陽葵は目を大きく見開いた。
蒼空は嘲るように続ける。
「ここ数年、お前は俺のそばで何不自由なく暮らしてきた。見ろよ、そのきれいな体も、全部俺が高い食材で養ってやったおかげだ。お前の肌も、使ってる化粧品も、全部俺の金だ。お前が持っているものは、全部俺が与えたものだ!」
陽葵は悔しさで体中が震えた。
何が「何不自由なく」だ。
これまで、彼と一緒にどれだけ苦労してきたか。彼が嫌がるような面倒なことは全部自分がやってきた。彼よりも多く働いてきたこともあった。
彼は何をしてきた?
まさか、酒を飲んで接待していただけで、取引先が自分のために契約を持ってきてくれるとでも?
そんな夢みたいな話があるわけない。
それに、彼の会社の立ち上げ資金や最初の投資は、彼女が彼に隠れて配信で稼いだお金だった。
会社が成功してからは、高価な服やバッグを買ってくれるようにはなったが、一度も現金を渡されたことはなかった。
彼女が使っていたお金は、全て自分が配信で稼いだものだった。
陽葵は目眩がして、テーブルをつかんでやっと立ち上がった。
「灰崎蒼空」――彼女が初めて彼のフルネームを呼んだのは、この時だった。
「聞くけど、私にお金を渡したことがある?」
蒼空は怒りをぶつけたあとは、少し冷静さを取り戻していたが、この問いに言葉を失った。
陽葵は冷たく見つめて、もう一度問う。
「よく思い出して。今まで一度でも私に金を渡したことがある?」
蒼空は記憶をたどる。だが、どうしても思い出せない。
そんなはずはない。彼女が使っているものは全部高価だった。そのお金が自分から出ていないはずがない。
陽葵は自分のことをわざと悪く言っているだけだと決めつけた。
「何だ、反論できなくてごまかそうとしているのか?一条陽葵、俺は騙されないぞ」
彼は財布を取り出し、分厚い札束を引き抜いた。
「これでいいだろ?お前が欲しいのは金だろ。これで満足か?」
彼は札束を彼女の顔に投げつけた。
紙幣がひらひらと床に落ちていく。
陽葵はゆっくりと相手を見上げ、深く目を閉じた。
怒り?悲しみ?悔しさ?
もう何もない。ただただ、疲れた。
彼と話すのは本当に疲れる。
彼はまるで自分の世界に閉じこもった子供のようで、何を言っても自分勝手な解釈しかしないのだ。
陽葵は手を上げて、ドアの方を指差した。
「出て行って」
「金はやった。今すぐ辞めるって言ってこい」
まだ言うのか?本当に人の話が通じない。
「出て行けって言ってるのよ!早く出て行って!」
叫んだその声に、蒼空も、ドアの外の人々も圧倒された。
陽葵の目には、もはや彼への感情は一切なかった。
かつて彼のために泣き、笑ったその瞳には、もう彼の姿は映っていない。
蒼空はなぜか不安を覚えた。
「陽葵、約束してくれ。ここを辞めてくれたら、俺は……」
言い終わらぬうちに、何かが蒼空の耳元をかすめて壁にぶつかった。
「たいした度胸だな!」
蒼空は怒りをあらわにした。
陽葵は冷ややかに言い返した。
「灰崎蒼空、ここまでしつこいなんて……まさか、私のことが好きなんじゃないの?」
蒼空は一瞬、言葉を失い、すぐに否定する。
「バカを言うな。俺がお前を好きになるわけないだろ!」
だが、その言葉がどこか頼りなく聞こえ、自分でも気になったのか、さらに付け加えた。
「この先も、絶対にお前を好きになることはない!」
陽葵は冷たく笑った。
それなら、本当に良かった。
彼に好かれるなんて、災難以外の何物でもない。
その表情は、まるでほっとしたかのようだった。
蒼空はその微かな変化を見逃さなかった。
好きじゃないことが、彼女にとって嬉しいことなのか?
何かおかしい。
陽葵なら、もっと傷つくはずだ。悲しむはずだ。自分に未練があるはずなのに。
そう思った瞬間、蒼空の中で再び怒りが湧き上がる。
自分のプライドを守るために、彼は叫んだ。
「バカな芝居はやめろ!そんな手に俺は乗らない。そんなことしても俺はお前に惹かれたりしないんだ!」
――病気か、この男は。
陽葵はその自己中心的な思考に呆れるしかなかった。
ここまで来ても、まだ自分を試しているつもりなのか?
これまでの傷ついた自分は、ただの愚か者だったのか?
今になって、かつての自分がどれほど愚かだったのか、ようやく気付いた。
こんな男を好きだったなんて—。