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第八話


蒼空は裏方のスタッフ全員を追い出し、ドアに鍵をかけた。

陽葵はその様子を見て、静かに後ずさると、机の上の尖った木製コームを手に取り、背中に隠す。


もし蒼空が何かしてきたら、絶対に抵抗してやる――そう心に決めていた。


不二子はバーの警備員を連れて、急いで裏口へと向かった。

ドアを押してみたが、開かない。中から鍵がかかっていた。

鍵は持っていなかったので、部下に取りに行かせ、自分は警備員とともにドアの前に待機した。

もし中から異変が聞こえたら、すぐにでも飛び込むつもりだった。


蒼空の友人たちも駆けつけてきた。

彼らもドア越しに声をかける。


「蒼空、落ち着け」

「とにかくドアを開けてくれ」


それでも返事はなかった。

中から物音ひとつ聞こえてこない。


「蒼空なら、そこまで無茶はしないだろう。少し時間をあげよう」

松下はこのグループの中で蒼空と一番親しい。

そう言われてしまえば、他の皆も何も言えなかった。

それにしても、あの歌手の桔梗がどんな人物なのか、蒼空をここまで動揺させる理由が気になって仕方がなかった。


控室の防音はそれほど良くはないが、外の声が完全に届かないほどでもない。

皆、じっとドアの前で様子をうかがっていた。


部屋の中では、彼が一歩近づくたびに、彼女は一歩後ずさる。

その様子が、灰崎蒼空をさらに苛立たせた。


「陽葵、お前は恥というものを知らないのか。ここで腰を振って男を誘惑して、そんな生き方がしたいのか?それとも、もともとそういうふしだらな女だったのか!」


蒼空はまるで理性を失った炎の塊のようだった。

その怒りは陽葵をも巻き込み、焼き尽くそうとしている。


陽葵は拳を握りしめ、怒りを抑えきれなかった。

「私の生き方があなたに何の関係があるの?あなたは誰よ?何の権利があって私の人生に口を出すの?」


「俺が誰かだと?」

蒼空は勢いよく彼女の肩をつかんだ。

陽葵は毅然としたまま、彼の目をまっすぐに見返した。


「俺はお前の夫だ。ここで男を誘惑するような下品な真似は絶対に許さない!」


「ふっ」と陽葵は鼻で笑った。

「灰崎さん、念のため言っておくけど、私たちはもう離婚している。今の私は一条陽葵。何をしようと私の自由よ。私はこの店で歌手として働いて、自分の力で稼いでいる。あなたたちみたいに遊びに来ている人たちより、よっぽど誇り高いと思うけど?」


どの言葉が蒼空を刺激したのか、彼の表情はみるみる歪んでいく。

ここで歌って誇りだと?自由だと?しかも自分と比べて?


「いいだろう、一条陽葵。お前は何を誇っているんだ?その美しさも、体も、すべて俺のおかげじゃないか!」


陽葵は目を大きく見開いた。

蒼空は嘲るように続ける。

「ここ数年、お前は俺のそばで何不自由なく暮らしてきた。見ろよ、そのきれいな体も、全部俺が高い食材で養ってやったおかげだ。お前の肌も、使ってる化粧品も、全部俺の金だ。お前が持っているものは、全部俺が与えたものだ!」


陽葵は悔しさで体中が震えた。

何が「何不自由なく」だ。

これまで、彼と一緒にどれだけ苦労してきたか。彼が嫌がるような面倒なことは全部自分がやってきた。彼よりも多く働いてきたこともあった。

彼は何をしてきた?

まさか、酒を飲んで接待していただけで、取引先が自分のために契約を持ってきてくれるとでも?

そんな夢みたいな話があるわけない。


それに、彼の会社の立ち上げ資金や最初の投資は、彼女が彼に隠れて配信で稼いだお金だった。

会社が成功してからは、高価な服やバッグを買ってくれるようにはなったが、一度も現金を渡されたことはなかった。

彼女が使っていたお金は、全て自分が配信で稼いだものだった。


陽葵は目眩がして、テーブルをつかんでやっと立ち上がった。

「灰崎蒼空」――彼女が初めて彼のフルネームを呼んだのは、この時だった。

「聞くけど、私にお金を渡したことがある?」


蒼空は怒りをぶつけたあとは、少し冷静さを取り戻していたが、この問いに言葉を失った。


陽葵は冷たく見つめて、もう一度問う。

「よく思い出して。今まで一度でも私に金を渡したことがある?」


蒼空は記憶をたどる。だが、どうしても思い出せない。

そんなはずはない。彼女が使っているものは全部高価だった。そのお金が自分から出ていないはずがない。

陽葵は自分のことをわざと悪く言っているだけだと決めつけた。


「何だ、反論できなくてごまかそうとしているのか?一条陽葵、俺は騙されないぞ」

彼は財布を取り出し、分厚い札束を引き抜いた。

「これでいいだろ?お前が欲しいのは金だろ。これで満足か?」


彼は札束を彼女の顔に投げつけた。

紙幣がひらひらと床に落ちていく。


陽葵はゆっくりと相手を見上げ、深く目を閉じた。

怒り?悲しみ?悔しさ?

もう何もない。ただただ、疲れた。

彼と話すのは本当に疲れる。

彼はまるで自分の世界に閉じこもった子供のようで、何を言っても自分勝手な解釈しかしないのだ。


陽葵は手を上げて、ドアの方を指差した。

「出て行って」


「金はやった。今すぐ辞めるって言ってこい」

まだ言うのか?本当に人の話が通じない。


「出て行けって言ってるのよ!早く出て行って!」

叫んだその声に、蒼空も、ドアの外の人々も圧倒された。


陽葵の目には、もはや彼への感情は一切なかった。

かつて彼のために泣き、笑ったその瞳には、もう彼の姿は映っていない。


蒼空はなぜか不安を覚えた。

「陽葵、約束してくれ。ここを辞めてくれたら、俺は……」

言い終わらぬうちに、何かが蒼空の耳元をかすめて壁にぶつかった。


「たいした度胸だな!」

蒼空は怒りをあらわにした。


陽葵は冷ややかに言い返した。

「灰崎蒼空、ここまでしつこいなんて……まさか、私のことが好きなんじゃないの?」


蒼空は一瞬、言葉を失い、すぐに否定する。

「バカを言うな。俺がお前を好きになるわけないだろ!」

だが、その言葉がどこか頼りなく聞こえ、自分でも気になったのか、さらに付け加えた。

「この先も、絶対にお前を好きになることはない!」


陽葵は冷たく笑った。

それなら、本当に良かった。

彼に好かれるなんて、災難以外の何物でもない。

その表情は、まるでほっとしたかのようだった。

蒼空はその微かな変化を見逃さなかった。


好きじゃないことが、彼女にとって嬉しいことなのか?

何かおかしい。

陽葵なら、もっと傷つくはずだ。悲しむはずだ。自分に未練があるはずなのに。


そう思った瞬間、蒼空の中で再び怒りが湧き上がる。

自分のプライドを守るために、彼は叫んだ。

「バカな芝居はやめろ!そんな手に俺は乗らない。そんなことしても俺はお前に惹かれたりしないんだ!」


――病気か、この男は。

陽葵はその自己中心的な思考に呆れるしかなかった。

ここまで来ても、まだ自分を試しているつもりなのか?

これまでの傷ついた自分は、ただの愚か者だったのか?


今になって、かつての自分がどれほど愚かだったのか、ようやく気付いた。

こんな男を好きだったなんて—。


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