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第九話


陽葵は彼らと言い争う気にもなれず、さっさとドアを開けた。


ドアを開けた瞬間、何人かがバランスを崩して、危うく転びそうになった。

盗み聞きがバレてしまい、蒼空の友人たちは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに彼女を見て驚愕の表情に変わった。


灰崎陽葵?いや、今は一条陽葵だ。

彼女の服装も髪型も、さっきステージで歌っていたあの歌姫とまったく同じ――

さっきから思っていたけど、あの歌姫、かなり魅力的だったな。まさか知り合いだったとは。


「一条さん、こんなところで歌ってるなんて、お金に困ってるの?困ってるなら俺たちが助けてあげるけど?」


互いに目を合わせて、みんな意味ありげにニヤニヤしている。


陽葵は彼らをよく知っていた。

蒼空の友人たちは、みんな裕福な家の出身者ばかりだ。


その中でも、一番ふざけた口調で話すのは、自動車メーカー、松下家の次男、松下春木だ。

以前、春木は蒼空の前でよく彼女を悪く言い、蒼空には釣り合わないと侮辱したこともある。

今、彼女がここで歌っているのを知って、内心どれだけ見下していることか。

見てみろよ、顎まで上げちゃって。


彼女はただ歌っていただけなのに、彼らの口からは見下すような言葉ばかり。

自分の力で稼いで、どこが卑しいというのか。


「それで、みなさん私をどうやって“助ける”つもりなんですか?」


その一言で、彼らの態度はますます下品になった。やっぱり、女なんて安いものだとでも思っているのだろう。


松下春木が鼻で笑って言った。

「俺が君を囲ってやるよ。一ヶ月百万でどう?」


「おいおい、春木。一条さんは一応、蒼空の元妻だろ?百万は安すぎるって。俺は百一万出すよ」


「一条さん、もしそいつらが気に入らないなら、俺は百二万出すよ。それ以上は無理だな、君はそんな価値ないし」


彼らは好き勝手に言い合い、一条陽葵のプライドを踏みにじった。


陽葵はクスリと笑い、部屋の中に向かって声をかけた。

「灰崎さん、あなたのお友達が私を百万で囲いたいそうです。私、受けていいと思いますか?」


この言葉が火に油を注いだ。


灰崎は怒りのやり場を失っていたが、その言葉を聞いた瞬間――

部屋の奥から飛び出して、松下春木の顔面に強烈なパンチを浴びせた。


春木は二歩ほど後退し、唇を拭うと血が滲んでいた。


「蒼空、何してるんだ!俺たちはお前のためにやってるのに!」


灰崎蒼空は何も言わず、ただひたすら殴り続ける。

溜まっていた苛立ちが一気に爆発したようだった。


他の友人たちも止めに入ったが、何人かは逆に殴られてしまった。

みんな社会的にも名の知れた人物ばかり。普段なら誰からも持ち上げられる立場なのに、殴られて黙っているはずがない。


あっという間に乱闘騒ぎになった。


陽葵は腕を組みながら、静かにその様子を見ていた。


ふと、目の前を煙が横切った。

振り返ると、いつの間にか不二子が隣に立っていた。鮮やかな赤いドレスの後ろには、見渡す限りの黒服の護衛たちが並んでいた。


「不二子さん」と陽葵はすぐに姿勢を正し、申し訳なさそうに頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました」


不二子は片手を腰に当て、指先には真紅の煙草が灯っている。

煙を吐き出し、艶やかな視線で陽葵を見つめた。


今夜の騒動は、確かに陽葵のせいではない。

でも、きっかけになったのは事実だ。

「今月の給料はナシよ」


陽葵はバツの悪そうな顔でうつむき、反論もできない。


彼女は室内にばらまかれた札束に気づき、そっと不二子のドレスの裾を引っ張った。

「あの、不二子さん、あのお金は灰崎さんが私たちへの“お詫び”として置いていったものです」


不二子はその仕草に気付いて、口元にかすかな笑みを浮かべた。


「それで?」


「少しだけ給料…?」と、潤んだ目で不二子を見上げる。


この顔は、無邪気な隣の妹みたいだったのに、

一度口を開けば、舞台を支配する女王のよう。

さっきのほんの数言で、名家の坊ちゃんたちを喧嘩させてしまったかと思えば、

今は涙目で、まるで小さなウサギみたいに許しを乞う。


一条陽葵――

不二子は、本当に彼女にはどれだけのギャップがあるのか、ますます興味が湧いた。


陽葵は不二子にじっと見つめられ、内心ドキドキしながら、必死に目を大きく見開く。

不二子さん、私の気持ち、伝わってますか――!


ついに、不二子は鮮やかな笑みを浮かべて言った。

「ダメよ」


陽葵はがっくりと肩を落とした。

初出勤の日に、突然、1ヶ月分の給料が消えてしまった!


不二子は指をくいっと動かし、護衛たちが一斉に乱闘をやめさせにかかった。

彼らはもう、さっきまでの品の良さはどこへやら、顔中傷だらけで、服もボロボロになっていた。


蒼空は目を真っ赤にし、屈強な護衛二人に押さえつけられ、それでもまだ足で蹴ろうと暴れている。


不二子が口を開いた。

「エンジェルナンバー3のルールよ。騒ぎを起こした人には、ちゃんと罰を受けてもらうから」


彼女が手を叩くと、四人の男が巨大な箱を押してきた。


陽葵は興味津々で、それに目を向けた。

まるで…棺おけみたいにも見える。


不二子が赤い布の端を掴み、一気に引き剥がす。


陽葵は思わず息を呑み、数歩後ずさった。


大きさの揃った水槽が五つ。中にはサソリ、ヘビ、ヒキガエル、ムカデ、ヒル……

エンジェルナンバー3のルールって、まさかこれを人に使うの?


不二子は陽葵が怯えているのに気づき、さりげなく彼女の視界を遮った。


「桔梗、もう部屋に戻っていいわ。ここは私が片づけるから」


陽葵もこれ以上ここに居たくなかった。こういう生き物が大の苦手なのだ!

申し訳なさそうに、不二子に深く頭を下げる。

「お手数おかけします」


そそくさとその場を離れた。


不二子は紅い唇をゆるやかに上げて、「さて、次はあなたたちの番よ……」と静かに告げた。


その頃、もう電車は終わっていたので、陽葵はタクシーで帰るしかなかった。


車の中、美しい夜景が窓の向こうに流れていく。

突然、激しい痛みが下腹部を襲い、冷や汗がにじむ。

まずい、あの日が来た……


流産してから初めての生理だった。

腹全体がつるように痛み、陽葵はシートに頭を預け、必死に呼吸で痛みをなだめた。


ようやく自宅近くに着き、タクシーを降りると、道路脇にしゃがみ込んだ。

あまりの痛さに、体を動かす気力もない。


街灯が彼女の影を長く伸ばしている。

何度も気持ちを奮い立たせて、やっとの思いで背を丸め、一歩一歩と進む。


家は六階。

自力で登るしかなく、それを考えるだけで絶望的な気持ちになった。


夜風は静かで、名も知らぬ虫の声が響いている。

どれだけ時間が過ぎたのか、ようやく五階にたどり着き、再びしゃがみ込んで痛みをやり過ごす。

薄いTシャツは汗でぐっしょりだった。


重い足音が、下から上がってくる。


陽葵は不安を覚えた。

夜も遅く、悪い人にでも会ったらどうしよう――


痛みに耐えながら、手すりを握って階段を上ろうとした、そのとき。

足音がすぐ後ろで止まった。


彼女は振り返った。


「誰?」


薄暗い階段の灯りの下、白いシャツにジーンズの男が立っていた。

やや長めの髪、ライトに照らされた顎のラインは、まるで神が彫刻したかのような完璧さだった。


陽葵は首をかしげる。

なぜか、とても懐かしい感じがする。

夢の中で何度も見たことがあるような、不思議な感覚だった。



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