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第十話


彼は手に白い紙袋を提げ、陽葵の疑わしげな視線を受けながら、穏やかな微笑みを浮かべて言った。

「こんばんは。最近引っ越してきた者です。成宮嵐と申します。」


一歩近づいた瞬間、その顔がはっきりと見えて、陽葵は心の中で思わず叫んだ。

どうして、こんなにも完璧な人がいるのだろう。

どのパーツも絶妙で、特にあの瞳は、星空をそのまま閉じ込めたようで、見ているだけで吸い込まれてしまいそうだった。


「あなたも六階に住んでいるのですか?僕は六〇四号室です。」


彼の声は少し低くて、まるでチェロのように落ち着いている。


この人が、隣に越してきた新しい住人だったのか――


陽葵は手すりを握りしめ、引きつった笑みを浮かべて、心の高鳴りを必死で抑えた。


彼の登場で、しばし痛みを忘れ、頭の中はただ叫び声だけになっていた。


成宮は陽葵の横を通り過ぎ、角を曲がろうとした時、ふと振り返った。

「行かないの?」


「え?」

陽葵は思わず背筋を伸ばし、少し気まずそうに言った。

「行く、すぐ、あっ――!」


彼女は手すりを両手で握って、少し前かがみになっていた。片足は階段の上、もう片方は下。急に動いたせいでバランスを崩し、そのまま後ろに倒れてしまった。


咄嗟に手を伸ばすも、空を切るだけだった。


陽葵が倒れそうになった瞬間、成宮の心臓が止まりそうになった。


「危ない!」

成宮は紙袋を放り投げ、すばやく階段を駆け下り、しっかりと陽葵の腰を抱きとめた。もう片方の手で手すりをつかみ、手の甲に青筋が浮かぶ。


なんとか階段の上で踏みとどまることができた。


しばらくしても、予想していた痛みは訪れない。鼻先に草木のような爽やかな香り。腰には熱い感触――


陽葵は一瞬戸惑い、そっと手を離すと、成宮の瞳に星がまたたくのが見え、思わず見とれてしまった。


美しいものは、誰だって好きになる。しかもそれが、目の前にいるのだから、視線を逸らすのは難しい――


成宮は彼女の視線に気づき、口元をわずかに上げて言った。

「大丈夫?」


陽葵は慌てて我に返り、すぐに彼の腕の中から離れ、顔を真っ赤にして言った。

「大丈夫です、ありがとうございます。」


成宮は穏やかな声で「どういたしまして」と答える。


彼の立ち居振る舞いから、育ちの良さが伝わってくる。落ち着きがあり、どこか気品が漂い、まるで中世の貴族のようだった。


比べてしまうと、蒼空やその友人たちは、どこか軽薄で品がない成金のように感じてしまう。


陽葵の視線は、つい成宮に引き寄せられてしまう。


ふと、彼の白いシャツの裾に、赤い染みがあるのが目に入り、顔が一気に熱くなった。


自分が彼の服を汚してしまったのだ。


今日は舞台の衣装のまま帰ってきて、スカートは太ももの中ほどまでしかなく、中にはタイツを履いているから、下着が見える心配はない。でも突然の生理で、まったく気づかなかった。間違いなく服が汚れている。


それが、なぜ彼の服にまで――


純白のシャツに、鮮やかな赤。そのコントラストが余計に目立つ。


「あの……」

喉が詰まりそうになりながら、陽葵は勇気を振り絞った。

「その、シャツを、貸してもらえませんか?」


かなり無礼なお願いだ。


普段の陽葵なら絶対に言わない台詞。でも、なぜかこの初対面の隣人には、警戒心が薄れてしまい、思い切った行動もできてしまう。きっと、彼が柔らかくて話しやすそうな雰囲気だからだろう――


成宮は少し驚いたような表情を見せた。


陽葵は口元を引きつらせながら、なんとかごまかそうとした。

「あの、たぶん、シャツを汚してしまって……」


話すほどに声は小さくなる。


一体、何を言ってるの!


どうして初対面の隣人に、こんなことを言い出すんだ!普通なら、汚してしまったことを謝って、弁償すると言うべきじゃないのか。


何をやっているの、こんなに面倒なことにして!


もしかして、この人がどこか懐かしい感じがするから、素直になってしまったのか。


陽葵、落ち着いて!


「すみません、変なこと言いました。」

そう言って頭を下げた。


頭上から、温かい笑い声が聞こえた。

「気にしないでください。」


陽葵はこっそりと安堵し、後で新しいシャツを買って返そうと考えた。


すると成宮が優しく言った。

「それじゃ、部屋に戻って着替えてきてもいいですか?」


陽葵はぱっと顔を上げる。

成宮は少し横を向き、明かりのせいか、彼女の目のせいか、彼の頬がわずかに赤く見えた。


そして、どこか照れたような声で言った。

「中には、何も着ていないので。」


バタン。


ドアが閉まった。


成宮はシャツの裾についた赤い染みを見つめ、しばらくの間じっとしていた。

シャツを脱ぎ、そのまなざしはどこまでも優しくなっていく。


「陽葵……ひまりちゃん……」かすかにこぼれたその声は、静かに消えていった。


陽葵はシャワーを浴び、身支度を整え、鎮痛剤を飲んだ。しばらくして、あの耐え難い痛みも少し落ち着いた。


水を手に、リビングでじっと待つ。


時計の針が、夜中1時を指そうとしていた。


けれど、ドアは静かなまま。

彼が「すぐにシャツを届けます」と言っていたのに、まだ来ない――


コンコンコン。


急なノックの音。


来た!


「はい!」と声をかけてドアを開けると、そこにいたのは成宮ではなく、灰崎蒼空だった。


その瞬間、陽葵の表情は一気に冷たくなる。


「また来たの?」


ドアを開けた時は嬉しそうだったのに、すぐに態度を変えた陽葵に、蒼空は苛立ちを隠せなかった。


店であんな騒ぎを起こして、さっさと帰ってしまった。よくもそんなことができたものだ。


「陽葵、怪我したんだ。」


彼の顔にはいくつも青あざができ、服も乱れている。でも――


「私に関係ないでしょ。」


陽葵の冷たい態度に、蒼空はしばし呆然とした。


ちゃんと聞いてるのか。怪我をしたと言っているのに。


普通なら心配してくれるはずだろう!


「ほら、薬を塗ってくれ。」


こんな夜中に、薬を塗ってほしくて来たの?


「灰崎さん、今の恋人は宮崎さんでしょう。薬が必要なら、彼女に頼んでください。じゃあ、失礼します。」


ドアを閉めようとしたが、蒼空が強引に押さえた。


陽葵は怒りをあらわにした。

「帰らないのね?いいわ。」


そう言って、携帯を取り出し、ある番号に電話をかける。


蒼空は不審そうに尋ねた。

「誰に電話してるんだ?」


すぐに分かった。


「宮崎さん、あなたの彼氏が夜中に私の部屋で迷惑行為をしています。早く迎えに来てください。」


なんと、宮崎華恋に電話をかけたのだった。


「分かったよ、一条陽葵。俺は何度もチャンスをやったのに、それを捨てたのはお前だ。泣きついてくるな!」


陽葵は作り笑いを浮かべて言う。

「安心して、絶対にしないから。」


蒼空は、自分が間違っていたと思った。

ここに来て、やり直すチャンスを与えたのがそもそも間違いだった。


頭の中に、あの「私のこと好きなんじゃない?」という彼女の言葉が響き渡る。


最近の自分の行動が、彼女をそう勘違いさせてしまったのかもしれない。だからこそ、彼女はこんなにも強気で、余裕の態度を取るのだろう。


いいだろう、一条陽葵。

もう二度と君の前には現れない。必ず後悔させてやる。


陽葵がドアを閉めた直後、またノックの音が響いた。


今度こそ、完全に我慢の限界だった。いったい、いつまで続くの――


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