「私は敵じゃない。」
陽葵は静かに言った。
「ただ、ようやく目が覚めて、もうあなたたちに支配されない人間になっただけ。」
美惠は背を向けて立ち去り、着物の袖が風を巻き起こし、テーブルの上に散らばった破られた小切手の切れ端が舞い上がった。
ドアが激しく閉められ、陽葵はその場に立ち尽くした。
右手の傷が、さっきの緊張でじんじんと痛み出す。
窓の外では、雨がさらに激しく降り始めていた。
美惠の黒いベンツがゆっくりとアパートの前から走り去り、タイヤが大きな水しぶきをあげる。
角を曲がったところで、一台の赤いポルシェがすれ違った。
車内では、宮崎華恋がハンドルを強く握りしめていた。
爪が本革のハンドルに食い込むほどだ。
華恋の目の前で、美惠があの古びたアパートから出てくるのを見た。
あそこに住んでいるのは、一条陽葵だ。
陽葵の住所を調べ上げ、ここまでやって来た華恋は、下で灰崎美惠のベンツを見かけた。蒼空が入院していた時期、美惠がこのベンツで病院に出入りしていたのを見ていたため、すぐに気付いたのだ。
車は敷地内に入れず、道路脇に停めた。
お盆が近づき、美惠が突然陽葵を訪ねてきた――宮崎には、美惠が陽葵を灰崎家のお盆の集まりに誘うためだとしか思えなかった。
今こそ、本来なら自分こそが灰崎蒼空の恋人であり、彼の隣に立つべきなのに。
どうして、どうして彼らは陽葵なんかを探すの――!
「またあんた……」
華恋の目に嫉妬の炎が燃え上がる。
「もう離婚したくせに、どうしてまだ付きまとうの?」
彼女は携帯を取り出し、素早く番号を押した。
「一条陽葵の最近の動向を全部調べて。特にお盆の間、どこに行くか重点的に。」
電話を切ると、華恋の口元に冷たい笑みが浮かんだ。
もし陽葵が灰崎家のお盆の集まりに現れたら、灰崎蒼空の未来の妻は自分だけだと、思い知らせてやる。
雨の中、赤いポルシェが鋭く方向を変えて走り去った。
その頃、小さなアパートの部屋で、陽葵は床に膝をつき、シュフレを頬張っていた。どんな時よりも、瞳は決意にあふれていた。
水曜日、松下恵美が帰国した。
空港の到着ロビーは人でごった返し、陽葵はつま先立ちで、あの懐かしい姿を探していた。
お盆前夜、海外からの帰国者が続々と集まり、空港全体が独特の高揚感に包まれていた。
「陽葵!」
背が高く、サングラスを頭に乗せ、栗色の長い髪をなびかせた恵美が、税関ゲートから駆け出してきた。
陽葵が気づくより早く、彼女は陽葵をぎゅっと抱きしめた。
鼻先にはエルメスの香水とフランスの太陽の混ざった香りがふわりと広がる。
「恵美……」
陽葵の声は友人の肩に埋もれた。
松下恵美は陽葵の顔を両手で包み、じっと見つめた。
「見せて。陽葵、痩せたんじゃない?」
彼女の視線は陽葵の右腕のギプスに留まり、眉をひそめる。
「入院したって、骨折したの?どうしたの?」
陽葵は唇を引き結ぶ。
二人は並んで空港の外へ歩きながら、陽葵はこの数日間の出来事を説明した。
誘拐されかけたことも話すと、恵美は足を止め、目に鋭い光を宿した。
「北川?あのクズ……」
恵美の声は低く鋭い。
「すぐに手を打つわ……」
「もういいの。」
陽葵は首を振った。
「北川組はもう……消えたの。」
恵美は目を細める。
「消えた?」
「うん、一晩で。アジトは焼かれ、幹部は全員捕まった。北川は精神を病んでしまったわ。」
恵美はすぐに核心に迫る。
「誰がやったの?」
「分からない。たぶん敵対組織じゃないかな。」
恵美は納得していない様子だった。
陽葵が動いた直後に、北川組が壊滅し、北川が狂わされた――こんな偶然があるものか。
北川組はそれほど強い組織ではないが、跡形もなく消し去るのは普通の人間にはできない。
恵美は深くは追及しなかったが、目の奥に思慮深い色を浮かべた。
彼女は陽葵の肩を抱いて歩き出す。
「そういえば、この間ビデオ通話であなたの後ろに立っていた男の人、誰?気付いてないふりしてたけど。」
「え?」
陽葵は顔を赤らめた。
「嵐のこと?ただ、私が歌ってる店のバーテンダーよ。」
「嵐?フルネームは?」
「成宮嵐。」
陽葵が答えると、恵美の瞳孔が一瞬、鋭く縮んだ。
「どうしたの?」
恵美はすぐに平静を装った。
「なんでもない。」
成宮――頂点に立つあの一族の苗字だが、ただの偶然なのか……
何気なく尋ねる。
「その人、あの店でどのくらい働いてるの?」
「もう長いわ。私が「エンジェルナンバー3」で歌い始めた時には、もうバーテンダーだった。」
バーテンダー。
成宮家の当主が、クラブで働くはずがない。きっとただの同姓だろう。
そもそも、成宮家の現当主の下の名前を知っている人なんていない。
恵美は考え込むように頷き、話題を変えた。
「そうだ、明後日ね、松下家でお盆のパーティがあるの。来てくれる?」
陽葵はすぐに首を振る。
「行かないよ。そういう場所は……」
昔、灰崎と一緒にいた頃は、社交パーティーにも参加した。
パーティーの人たちはみんな名士ばかりで、一言に百もの裏の意味が込められていて、全然面白くなかった。
昔は、灰崎の妻として仕方なく参加していただけ。
今の自分は一条陽葵。あの世界の人間じゃない、無理に合わせる必要なんてない。
「陽葵、友達でしょう。」
恵美は口を挟み、悲しそうな目で陽葵を見つめる。
「しかもわざわざパリからプレゼント買ってきたのに、来てくれないなら東京湾に捨てるからね。」
陽葵は恵美の「怒り」がどれほど怖いか知っていた。
昔、蒼空のことで、恵美について回ったこともあった。
一度、ケイルが恵美を怒らせた時、恵美は表面上は何も言わず、怒りも見せなかったが、裏でケイルを大損させ、何十億もの契約をふいにさせた。
しかも、ケイルには誰がやったのか分からせなかった。
恵美は、美しいだけでなく、やり手だ。
だからこそ、数多くの女性の中から勝ち抜いてケイルの妻になれたのだ。
「分かった……」
陽葵は諦めて頷いた。
「でも、ちょっとだけで帰るね。」
「約束ね。」
恵美は勝ち誇った笑みを浮かべ、スーツケースから丁寧にラッピングされた箱を取り出す。
「これ、パーティーの日に着けて。」
二人は空港の出口で別れた。
恵美はそのまま松下家の本邸へ、陽葵は「エンジェルナンバー3」へとリハーサルのため向かった。