タクシーのドアが閉まる直前、恵美が身を乗り出してきた。
「陽葵、あの成宮嵐って人、最近もクラブによく行ってるの?」
陽葵は一瞬戸惑った。
「そういえば、ここ数日見かけてないな。」
何気ない口調を装いながら答える。
「たぶん、私用があるんじゃないかな。」
恵美は意味ありげな視線を陽葵に投げかけ、それ以上は何も言わずに手を振って運転手に出発を促した。
陽葵は道端に立ち、恵美のタクシーが車の流れに溶けていくのを見送りながら、ふと得体の知れない寂しさを感じた。
このときになって初めて、嵐ともう丸二日も会っていないことに気づいた。
一体、何をしているんだろう……
タクシーは「エンジェルナンバー3」のネオン看板の前に停まった。
陽葵は料金を払い、現代的な三階建ての建物を見上げた。
いつもと違い、見知らぬバンが数台停まり、黒服の男たちが荷物を運び込んでいる。
入り口には、朽木美緒の名前が記されたライトパネルと三階分のポスターがすでに撤去されていた。
陽葵がドアを押して中に入ると、内部ではリハーサルの真っ最中。
ドラムとギターが鳴り響き、耳をつんざくような音が交錯していた。
新しいバンドがすでに結成されているようだ。
陽葵は不二子を見つけた。
彼女は足を組み、椅子に腰かけて煙草をふかしている。
本当に不二子は煙草が好きなんだな、と思う。
「不二子さん。」
陽葵が近づくと、不二子は手招きして席に座らせた。
「怪我の具合は?」
「大丈夫です。あと三週間くらいでギプスが外せるみたいです。」
不二子は頷き、何か言いかけたが、そのとき舞台上から耳障りなノイズが響いた。
ギターの音が外れた。
二人で舞台に目をやると、玲子がギターを抱えてマイクの前に立ち、不機嫌そうな顔をしていた。
どうやら、先ほど音を外したのは彼女らしい。
三葉が眉をひそめる。
「玲子、どうしたの? せっかく歌が盛り上がってたのに、なんで急に音外したの?」
玲子は小さく「ごめん」と言った。
陽葵は黙っていた。
「桔梗!」と、ある人物が弾丸のように飛び込んできて、陽葵の左腕にしがみついた。
「やっと会えた!会いたかったよ〜!」
陽葵はその場で固まった。
目の前のツインテールにミニスカート、オーバーニーソックス姿の少女が、頬を陽葵の肩にすり寄せている。まるで溶けた綿菓子のように甘い雰囲気だ。
だがその顔は、あの日陽葵が拉致されたとき、北川に銃を向けていた冷酷な少女に間違いなかった。
「どうして無視するの、ねえ?」
少女は拗ねたように唇を尖らせ、潤んだ瞳で見上げてくる。
その様子はあの夜の殺気立った姿とはまるで別人だった。
不二子はバースツールに座り、長い脚を組んで、指先に細いシガレットを挟んでいる。
彼女の視線が陽葵と彩子を行き来し、面白そうに眺めている。
嵐の姿が見当たらないのが少し残念そうだ。
「嵐がいれば、もっと面白くなったのに……」
陽葵は口を開きかけたが、声が出なかった。
「私は桔梗のファンだよ!」
少女は陽葵の腕を離し、くるりと一回転して自己紹介する。
「彩子って言います、よろしくね!」
彩子は陽葵にウィンクし、わざと名前を強調する。
苗字なんてどうでもいい、桔梗は“彩子”って呼んでくれればいいんだから。
「彩子は新しいドラマーよ。」
不二子が煙を吐きながら言う。
「子供みたいに見えて、甘えたりもするけど、腕は確かよ。」
彩子は得意げな表情を浮かべている。
兄が桔梗を隠したって、これで距離がもっと縮まったもんね。
成宮嵐なんかに負けないんだから!
彩子は自分の機転に内心ほくそ笑んでいた。
陽葵はようやく声を取り戻した。
「あの日は、ありがとう。」
「えっ、覚えててくれたの?!」
彩子は両手で頬を挟み、体をくねらせて大げさに喜んでみせた。
「幸せすぎて死んじゃいそう〜!」
再び陽葵に抱きつこうとしたところを、三葉が首根っこを掴んで引き離す。
「ちょっと、あんた自重しなさいよ、この変態。」
三葉は呆れ顔で陽葵に振り向いた。
「昨日からずっとあなたの話ばかり。」
陽葵は苦笑いするしかなかった。
彩子の今の様子と、あの夜の冷徹な姿のギャップが大きすぎて、どう反応していいのか分からない。
「じゃあ、リハーサル始めるわよ。」
不二子が煙草をもみ消し、手を叩いた。
「新曲を一通りやってみましょう。」
バンドメンバーが持ち場につく。
陽葵はマイクの前に立ち、そっとドラムセットの後ろの彩子を盗み見た。
少女はさっきの騒がしさをすっかり消し去り、スティックを器用に回しながら、真剣そのものの表情で構えている。
その視線が陽葵と合うと、一瞬あの夜と同じ冷たい笑みを浮かべ、すぐにまた無邪気な笑顔へと切り替わった。
その変わり身の早さに、背筋が寒くなる思いだった。
ステージのリハーサルは大きな問題もなく進んだ。
ただ、玲子のパートになったときだけは別だった。
普段は安定している玲子が、今日は何度も音を外し、クライマックスではタイミングまで外してしまう。
「ストップ!」
不二子が眉をひそめて声を上げた。
「玲子、今日だけで四回目よ。」
玲子はギターをぎゅっと握りしめる。
「今日は調子が悪いの!」
「じゃあ調子を整えなさい。」
不二子の声は冷たくなった。
「歌手としてのプロ意識を疑わせるようなことはやめて。今回のイベントは規模が大きいし、「エンジェルナンバー3」の評判を落とすようなことがあれば、代わりはいくらでもいるの。」
玲子は唇をかみしめ、怒りをにじませながら陽葵を一瞥した。
「分かってるよ。どうせ私をクビにしたいんでしょ? いい機会だもんね。」
広いホール内は一瞬で静まり返った。
三葉が気まずそうに咳払いする。
「玲子、最近ちょっと疲れてるんじゃない?」
玲子は突然立ち上がった。
「どうせ、私なんていなくてもいいんでしょ。みんな陽葵のことばっかり……」
陽葵は入ってきてから玲子に話しかけてもいないのに、なぜかその矛先が自分に向けられていることに戸惑った。
「私、何か言った?」
玲子はうるんだ瞳で陽葵を見つめる。
以前なら、彼女のこの哀れっぽい態度に騙されてしまっただろう。
でも、玲子の本性を知ってからは、もう信じる気にはなれなかった。
皆に玲子の本当の姿を明かさなかっただけ、まだ情けをかけているつもりだ。
可哀想だからといって、いつでも好きなように自分を踏みつけにされるつもりはない。
「何も言ってないよ。あなたは何も言わなくても、みんなあなたの味方なんだ。
歌が上手くなくても、見た目が普通かもしれなくても……私だって一生懸命やってる。
なのに、どうして? どうして、もう少しだけでも私に優しくしてくれないの?」
「どれだけ優しくすれば気が済むの?」
不二子はバサッと書類を閉じ、冷たい目で玲子をにらんだ。
「大変なのは分かってるから、陽葵がわざわざ一回分譲った、あなたが多く歌えるようにしたんだよ。お金もプレゼントも多くなるようにって。困ったときはいつだって休んでいいって許可してきた。これ以上、全員があなたに合わせないといけないわけ?
それなら、「エンジェルナンバー3」の店長、あなたがやればいいじゃない。」