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第82話


タクシーのドアが閉まる直前、恵美が身を乗り出してきた。


「陽葵、あの成宮嵐って人、最近もクラブによく行ってるの?」


陽葵は一瞬戸惑った。


「そういえば、ここ数日見かけてないな。」


何気ない口調を装いながら答える。


「たぶん、私用があるんじゃないかな。」


恵美は意味ありげな視線を陽葵に投げかけ、それ以上は何も言わずに手を振って運転手に出発を促した。


陽葵は道端に立ち、恵美のタクシーが車の流れに溶けていくのを見送りながら、ふと得体の知れない寂しさを感じた。

このときになって初めて、嵐ともう丸二日も会っていないことに気づいた。

一体、何をしているんだろう……


タクシーは「エンジェルナンバー3」のネオン看板の前に停まった。

陽葵は料金を払い、現代的な三階建ての建物を見上げた。


いつもと違い、見知らぬバンが数台停まり、黒服の男たちが荷物を運び込んでいる。

入り口には、朽木美緒の名前が記されたライトパネルと三階分のポスターがすでに撤去されていた。


陽葵がドアを押して中に入ると、内部ではリハーサルの真っ最中。

ドラムとギターが鳴り響き、耳をつんざくような音が交錯していた。

新しいバンドがすでに結成されているようだ。


陽葵は不二子を見つけた。

彼女は足を組み、椅子に腰かけて煙草をふかしている。


本当に不二子は煙草が好きなんだな、と思う。


「不二子さん。」


陽葵が近づくと、不二子は手招きして席に座らせた。


「怪我の具合は?」

「大丈夫です。あと三週間くらいでギプスが外せるみたいです。」

不二子は頷き、何か言いかけたが、そのとき舞台上から耳障りなノイズが響いた。


ギターの音が外れた。


二人で舞台に目をやると、玲子がギターを抱えてマイクの前に立ち、不機嫌そうな顔をしていた。

どうやら、先ほど音を外したのは彼女らしい。


三葉が眉をひそめる。


「玲子、どうしたの? せっかく歌が盛り上がってたのに、なんで急に音外したの?」


玲子は小さく「ごめん」と言った。

陽葵は黙っていた。


「桔梗!」と、ある人物が弾丸のように飛び込んできて、陽葵の左腕にしがみついた。


「やっと会えた!会いたかったよ〜!」


陽葵はその場で固まった。


目の前のツインテールにミニスカート、オーバーニーソックス姿の少女が、頬を陽葵の肩にすり寄せている。まるで溶けた綿菓子のように甘い雰囲気だ。

だがその顔は、あの日陽葵が拉致されたとき、北川に銃を向けていた冷酷な少女に間違いなかった。


「どうして無視するの、ねえ?」


少女は拗ねたように唇を尖らせ、潤んだ瞳で見上げてくる。

その様子はあの夜の殺気立った姿とはまるで別人だった。


不二子はバースツールに座り、長い脚を組んで、指先に細いシガレットを挟んでいる。

彼女の視線が陽葵と彩子を行き来し、面白そうに眺めている。


嵐の姿が見当たらないのが少し残念そうだ。


「嵐がいれば、もっと面白くなったのに……」


陽葵は口を開きかけたが、声が出なかった。


「私は桔梗のファンだよ!」


少女は陽葵の腕を離し、くるりと一回転して自己紹介する。


「彩子って言います、よろしくね!」


彩子は陽葵にウィンクし、わざと名前を強調する。

苗字なんてどうでもいい、桔梗は“彩子”って呼んでくれればいいんだから。


「彩子は新しいドラマーよ。」


不二子が煙を吐きながら言う。


「子供みたいに見えて、甘えたりもするけど、腕は確かよ。」


彩子は得意げな表情を浮かべている。


兄が桔梗を隠したって、これで距離がもっと縮まったもんね。

成宮嵐なんかに負けないんだから!


彩子は自分の機転に内心ほくそ笑んでいた。


陽葵はようやく声を取り戻した。


「あの日は、ありがとう。」


「えっ、覚えててくれたの?!」


彩子は両手で頬を挟み、体をくねらせて大げさに喜んでみせた。


「幸せすぎて死んじゃいそう〜!」


再び陽葵に抱きつこうとしたところを、三葉が首根っこを掴んで引き離す。


「ちょっと、あんた自重しなさいよ、この変態。」


三葉は呆れ顔で陽葵に振り向いた。


「昨日からずっとあなたの話ばかり。」


陽葵は苦笑いするしかなかった。

彩子の今の様子と、あの夜の冷徹な姿のギャップが大きすぎて、どう反応していいのか分からない。


「じゃあ、リハーサル始めるわよ。」

不二子が煙草をもみ消し、手を叩いた。


「新曲を一通りやってみましょう。」


バンドメンバーが持ち場につく。


陽葵はマイクの前に立ち、そっとドラムセットの後ろの彩子を盗み見た。


少女はさっきの騒がしさをすっかり消し去り、スティックを器用に回しながら、真剣そのものの表情で構えている。

その視線が陽葵と合うと、一瞬あの夜と同じ冷たい笑みを浮かべ、すぐにまた無邪気な笑顔へと切り替わった。

その変わり身の早さに、背筋が寒くなる思いだった。


ステージのリハーサルは大きな問題もなく進んだ。

ただ、玲子のパートになったときだけは別だった。


普段は安定している玲子が、今日は何度も音を外し、クライマックスではタイミングまで外してしまう。


「ストップ!」


不二子が眉をひそめて声を上げた。


「玲子、今日だけで四回目よ。」


玲子はギターをぎゅっと握りしめる。


「今日は調子が悪いの!」


「じゃあ調子を整えなさい。」


不二子の声は冷たくなった。


「歌手としてのプロ意識を疑わせるようなことはやめて。今回のイベントは規模が大きいし、「エンジェルナンバー3」の評判を落とすようなことがあれば、代わりはいくらでもいるの。」


玲子は唇をかみしめ、怒りをにじませながら陽葵を一瞥した。


「分かってるよ。どうせ私をクビにしたいんでしょ? いい機会だもんね。」


広いホール内は一瞬で静まり返った。

三葉が気まずそうに咳払いする。


「玲子、最近ちょっと疲れてるんじゃない?」


玲子は突然立ち上がった。


「どうせ、私なんていなくてもいいんでしょ。みんな陽葵のことばっかり……」


陽葵は入ってきてから玲子に話しかけてもいないのに、なぜかその矛先が自分に向けられていることに戸惑った。


「私、何か言った?」


玲子はうるんだ瞳で陽葵を見つめる。


以前なら、彼女のこの哀れっぽい態度に騙されてしまっただろう。

でも、玲子の本性を知ってからは、もう信じる気にはなれなかった。


皆に玲子の本当の姿を明かさなかっただけ、まだ情けをかけているつもりだ。

可哀想だからといって、いつでも好きなように自分を踏みつけにされるつもりはない。


「何も言ってないよ。あなたは何も言わなくても、みんなあなたの味方なんだ。

歌が上手くなくても、見た目が普通かもしれなくても……私だって一生懸命やってる。

なのに、どうして? どうして、もう少しだけでも私に優しくしてくれないの?」


「どれだけ優しくすれば気が済むの?」


不二子はバサッと書類を閉じ、冷たい目で玲子をにらんだ。


「大変なのは分かってるから、陽葵がわざわざ一回分譲った、あなたが多く歌えるようにしたんだよ。お金もプレゼントも多くなるようにって。困ったときはいつだって休んでいいって許可してきた。これ以上、全員があなたに合わせないといけないわけ?

それなら、「エンジェルナンバー3」の店長、あなたがやればいいじゃない。」


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