「あ、あたし、ちょっとプレッシャーが大きくて……陽葵があんなにうまくやってるのに、私が足を引っ張ったらどうしようって思ってたら、どんどんうまくいかなくなっちゃって」
また自分のせいにするのか――
陽葵は思わず笑ってしまった。
もともと、玲子と揉めるつもりなんてなかった。
でも、これだけ何度も自分の名前を出してくるなら、少しは言わせてもらう。
「私が、リズムを外せって言った?」
陽葵は冷たく言い放つ。
「音を全部外せって頼んだ?」
玲子が反論する前に、陽葵は続けた。
「夢でも見てるのか。全然集中してなかったよ。自信がないなら、他の人にその席を譲ったら?」
「……」
玲子はその場で固まったまま、顔を覆い、泣きながら走り去った。
不二子はため息をつき、「十分休憩しましょう」と告げる。
玲子と仲のいい新入りが、慌てて彼女の後を追った。
「おお、」
彩子が口笛を吹いて、
「あの子、演技うまいよね」
見た目はか弱く純粋、言動もわざとらしいほど無垢で世間知らず、善良で裏表のない子を装いながら、本当の目的を隠して、知らず知らずのうちに人を傷つける。
しかも、被害者のふりまでしてみせる。
弱さを見せて同情を引き、まわりに味方してもらう――
涙や「可哀想」な感情で人の態度を操る。
本質は、偽善者だよ。
三葉は首を横に振った。
「玲子は普段はそんな子じゃないよ。ここ数日、急に敏感になっただけ」
ここ数日敏感になったのは、陽葵から見ると、敏感というより後ろめたさから来ているように思えた。
自分が犯した過ちへの、やましさだ。
陽葵はすぐにその理由を知ることになる。
なぜなら、自分が玲子の本性に気づいたからだ。
玲子はきっと、陽葵がそのことを皆に話したんじゃないかと疑って、疑心暗鬼になり、リハーサルでミスを繰り返しているのだろう。
いつの間にか彩子が近づき、顎を陽葵の肩に乗せてくる。
「ねぇ、ベイビー、変なことは気にしないでさ、ゲームしない? 負けた方が勝った方のお願いを一つ聞くってルールで」
陽葵は無意識に少し身を引いた。なんでこの人、いちいち「ベイビー」なんて呼ぶんだろう……なんだか落ち着かない。
しかも、彩子は絶対何か企んでる。
「やらない。」
陽葵はきっぱり拒否した。
「化粧室に行ってくる」
廊下の突き当たりの化粧室で、陽葵は水で熱くなった頬を冷やした。
鏡の中の自分は、目の下にうっすらクマができている。
あの夜以来、ぐっすり眠れた日はなかった。
「陽葵」
背後から不二子の声がして、いつの間にか彼女がドアのところに立っていた。
「玲子とケンカでもしたの?」
陽葵はペーパータオルで手を拭きながら、淡々とした口調で答えた。
「もう、友達じゃないかな」
「友達じゃなくなった? どうして?」
不二子は壁に寄りかかり、興味津々といった様子。
玲子はこの店に何年もいて、いつも小動物みたいに大人しかった。
ちょっとしたことで怯えてしまうタイプだ。
一方、陽葵はまだ来てそんなに経っていないが、トラブルを起こすことはあれど、自分から同僚と揉めることはなかった。
井上との騒動だって、先に手を出したのは井上の方で、陽葵が追い詰められて口論になっただけだ。
陽葵は首を振った。
「別に、たいしたことじゃないよ」
友達になれなくても、相手の将来を壊す必要はない。
休憩室は重苦しい空気に包まれ、きつい香水の匂いが漂っている。
玲子はソファに座り、肩が震え、涙が次々と流れ落ちていた。
陽葵の冷たい叱責の言葉が、何度も耳と心に突き刺さる。
「私がリズムを外せって言ったの?」
「席を譲ったら?」
どの言葉も、鮮明に胸に残っている。
「もう泣かないで、玲子」新しく入ったバンドメンバーの一人、美咲がティッシュを差し出し、玲子の背中を優しくさすった。
「陽葵だって、ケガして気分がよくないだけだと思うよ」
「そうそう」
小百合も気を使いながら言った。
「別に玲子を責めてるわけじゃないよ」
玲子は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、目は真っ赤に腫れていた。
怯えた小鹿のような表情だ。
鼻をすすりながら、かすれた声で言う。
「ううん、全部私が悪いの。私が陽葵を怒らせたんだもん。前にも、私のこと怒鳴って、コーヒーまでかけてきたし。私が悪いのに、陽葵が嫌ってるの分かってるのに、ここにいるなんて……」
手で顔を覆い隠し、肩はさらに激しく震えだす。
「でも仕方ないの。おばあちゃんの治療代が必要で、仕事を失うわけにはいかない。不二子さんにクビにされたら、私どうしたらいいの……」
言葉はすすり泣きにかき消され、その一つ一つが、いない陽葵に向けていることは明らかだった。
数人の女の子たちは顔を見合わせ、同情の中に、うっすらとした共感の色をにじませる。
陽葵が来てからというもの、毎日のように何かしらトラブルを起こしているし、同僚たちと一緒に遊んだりもしない。
いつも距離を感じさせて、まるで自分たちを見下しているようだった。
「しょうがないよ、歌がうまいし、不二子さんも気に入ってるしね」
「そうだよね、そのうち有名人になるかもしれないんだもん。私たちなんて相手にするわけがないよ」
ばらばらにそんな声が飛び交い、やがて同僚たちは部屋から出ていった。
玲子は誰もいなくなった休憩室で、ぴたりと涙も肩の震えも止めた。
ゆっくりと手を下ろすと、涙は乾ききらぬまま、瞳の奥には冷たく硬い光が宿っていた。そこには、微塵の感情も浮かんでいない。
=====
お盆イベントのラストショー「精霊の舞」。
陽葵が主役で、頭には煌めく純金の鳳凰のかんざしを挿して舞う。
そのかんざしは再生の魂の象徴であり、クラブの宝物だ。
道具室のドアが、玲子の背後で音もなく閉まった。
外の世界との境界が断たれる。
中には小道具が山積みだ。色あせた羽根、折れた杖、埃をかぶった水晶玉。
玲子の視線は、部屋の隅の鍵のかかったハードケースに向けられる。
彼女はしゃがみこみ、冷たいダイヤル錠に指を滑らせる。数字が自然に頭に浮かぶ。
不二子の誕生日。
カチッと音を立てて錠が外れる。
中には、黒いベルベットに包まれた純金の鳳凰が、首を高く掲げていた。
尾羽は何重にも重なり、一枚一枚が薄く繊細に彫られ、控えめながら圧倒的な輝きを放っている。
それは、持ち主そのものを象徴するような、高価で近寄りがたい存在だった。
玲子は何の躊躇いもなく手を伸ばし、冷酷なほど正確に、鳳凰の細い首を力いっぱいねじり上げた。
金属がかすかにきしむ音が静寂に響き、鳳凰の誇らしげな頭は、異様な角度でがくりと垂れ下がった。
首の部分には、無残な折れ跡が刻まれていた。
優美だった鳳凰は、突如として項垂れる鳥へと変わった。
玲子は無表情のまま、首の折れた鳳凰を元のベルベットの上に戻し、何事もなかったかのようにケースの蓋を閉じた。