陽葵の胸は激しく上下し、昼間のリハーサルに玲子が見せたあの態度や、 さっき廊下での一見自責のようで、実際は巧妙に火種を撒くような涙ながらの訴え、 そして一瞬だけ見せた冷たい笑み――。
陽葵にはもう分かっていた。玲子は自分に復讐しているのだ、と。
数日前に玲子にコーヒーをかけ、きつく責めたことへの報復。
滑稽なことに、本当に悪いのは玲子の方なのに。
あれこれ仕組み、陽葵を陥れ、二人の友情まで傷つけたのは玲子だ。
陽葵はまだ玲子の名誉を守るため、皆の前で彼女の醜い本性を暴くことをしなかったのに、玲子はそれでも陽葵に牙を剥いた。
「わざとリハーサルでミスしたの? みんなの前であなたをいじめてるように見せかけてるの? それに道具室で簪を壊して、ここで……」
「やめて! 言わないで!」
玲子は美咲の腕の中から顔を上げ、絶叫に近い声で陽葵の言葉を遮った。
顔は涙の跡でぐちゃぐちゃになり、目は腫れて赤くなり、その中には溺れそうなほどの痛みと恐怖が溢れていた。
立ち上がろうともがくものの、体に力が入らず、美咲の腕を必死に掴んだまま、最後の救いを求めるような目で陽葵を見つめ、声は今にも消え入りそうに震えていた。
「お願い、もう言わないで。全部私が悪いの、全部、私のせいだから!」
首を何度も振り、涙を撒き散らしながら続ける。
「私が馬鹿だった! 私が下手で、陽葵を怒らせた! どんなに叱られてもいい。全部私がやったの。簪を壊したのも私!」
言葉はバラバラで、すべての“罪”を自分のせいにしようと必死だった。
その地面に這いつくばるような卑屈さ、今にも陽葵に食い殺されそうな恐怖は、どんな訴えよりも強くその場にいた人々の心に突き刺さった。
「玲子!」
美咲は痛ましげに彼女を抱きしめ、そんな自己犠牲的な告白を止めようとした。
「そんなこと言わないで! 玲子のせいじゃない!」
「そうよ! 玲子は悪くない!」
由依も思わず声を上げ、陽葵に向ける視線には明らかな非難の色が浮かんだ。
玲子がここまで自分を責めて泣いているのに、陽葵はなぜこれほどまでに責め立てるのか。
玲子の「自分を犠牲にする」悲惨な姿に、陽葵は足元から頭の先まで冷たいものが一気に駆け上がり、息が詰まりそうだった。
この演技、この計算高さ――
「玲子、あなたのやったことを……」
「そんなに私が憎いの?」
玲子の声は感情的に高まる。
息が詰まるような膠着の中、周囲でじっと沈黙していた彩香の慎重な声が響いた。
彼女の視線は、取り乱す玲子や怒りに震える陽葵ではなく、玲子の右手にしっかりと注がれていた。
その握りしめた拳は、力を込めすぎて関節が白くなり、美咲の服をぎゅっと掴んでいた。
「玲子……」
彩香は戸惑いながらも口を開く。
声は小さかったが、重苦しい空気を切り裂くように響いた。
「ずっと握ってるそれ、なに?」
彼女は玲子の右手を指差した。
「さっきからずっと持ってるよね、何か取りに来たの?」
一瞬で、皆の視線が玲子の右手に集まった。
玲子の身体がピクリと固まる。
あふれていた涙声も、まるで一時停止されたように止まり、ただ嗚咽混じりの短い息だけが残った。
思わず右手を隠そうとしたが、その仕草は皆の前であまりに不自然だった。
強く握りしめた手は白い光の下で浮き上がり、関節は真っ白になり、微かに震えていた。
「ヘアバンド?」
美咲もその藍色の布に気付き、不思議そうに玲子を見た。
「玲子、それ、道具室に忘れてたヘアバンドを取りに来たの?」
これなら筋は通る。玲子は稽古のとき色んなヘアバンドを使うのが好きだった。
だが、なぜ今まで黙っていたのか。
なぜあんなに固く握りしめているのか。
皆が息を飲み、彼女の答えを待った。
この小さな発見が、静かな池に投げ込まれた石のように新たな波紋を広げ、見落としていた可能性へとつながっていく。
玲子はなぜ道具室ではなく、陽葵の更衣室へ続くこの廊下に現れたのか。
本当にヘアバンドを取りに来ただけなのか。
玲子はすぐには答えなかった。
顔を深く美咲の肩に埋め、まるで自分を消し去りたいかのようだった。
肩の震えは激しさを増し、もはや演技を超えた、制御不能な痙攣だった。
時間がゆっくりと過ぎる。まるで刃物で肉を削がれるような長い沈黙。
ついに、玲子はかすかに、ゆっくりと首を横に振った。
ほんのわずかな動きだったが、否定の意志ははっきりと伝わった。
そして次の瞬間、誰もが息を呑む行動に出る。玲子は自分の唇を、全力で嚙みしめた。
まるで唇を噛み裂くほどの力で――。
歯がやわらかな皮膚に食い込み、くっきりとした深紫の痕を残す。
そして破れた唇から、鮮やかな赤い血がじわりとにじみ出し、青白い顔に不気味な線を描いた。
彼女は何も言わなかった。
一言も発さなかった。
だが、血を滲ませた唇と、激しく震えながら必死に耐える身体が、言葉にならない屈辱と恐怖を何よりも雄弁に物語っていた。
一言発したら、もう耐えられない破滅が訪れるかのように――。
この沈黙、この自傷的な耐え方は、どんな叫びよりも強烈だった。
彩香は口を開こうとしたが、言葉は喉で詰まった。
美咲は玲子をさらに強く抱きしめ、陽葵を見る目には、もはや迷いはなく、恐怖と怒りが混じり合っていた。
問いかけるまでもなく、皆、答えに気づいていた。
なぜ玲子は答えられないのか。
何を恐れているのか。
誰が彼女をここまで怯えさせたのか。
それは、いま目の前で彼女を責め立てている陽葵しかいない。
さっきの陽葵の「あなたのしたことを言わないとでも思った?」という言葉。
いまの玲子の、唇を噛み締めて血を流し、恐怖に固まる姿。
皆の脳裏に、陽葵が脅迫して玲子に罪を被せようとしている図が、あまりにも自然に結びついた。
玲子の唇の血、周囲の同僚たちの黙ったままの非難の視線。
それを見て、陽葵の心にはどうしようもない無力感が絡みつき、締め付ける。
もう分かった。玲子には言葉など必要ない。
この血を滲ませるまで噛みしめた唇、極限まで追い詰められた沈黙こそが、最良の武器であり、完璧な演技だった。
玲子の勝ちだ。