『父さんや母さんに言うつもりはないから』しばらくの沈黙の後で、裕太郎は言った。『俺は智和と一緒に暮らしたい。一緒に生活してみたい。昔みたいに、っていうのは無理だって分かってる。父さんと母さんも一緒、っていうのは多分もっと時間をかけないと駄目だろうって分かってる。でも、俺一人だけなら大丈夫だろう? 俺が智和の傍に行くのなら、今すぐにだって出来る事じゃないか』
確かにとても、簡単な事のように聞こえた。少しの問題もなく出来てしまう些細な事のようにさえ思えた。少しでも落ち着いて周囲を見回せば、簡単であるはずもなく些細な事のはずもない――、途方にくれたくなるぐらいの問題事が山積していて、それを全部背負い込むほどの厄介な話なのだと理解できるのだろうに、わざと目をそらしている裕太郎の姿が想像できた。こうしよう、と決意した後の弟は頑なだ。融通がきかなすぎるところがあって、そこまでくると大抵折れるのは智和であり、両親だった。
今回も同じようにいくはずだと高でもくくっているなら大間違いだと思う。けれど、「分かったよ」電話越しに説得しても言い逃げの如く回線を切られておしまい、のような気がした。ここは素直に頷いて、質問する。「で? 同じ大学に行くにあたって何か知りたい事でもあるのか?」
『一番重要な事だけど、智和はどの大学を受けるつもりなんだ?』
そのあたりの事は両親には聞かれていないし言ってもいないので、当然裕太郎も知るわけがないのだが、「知らないのに僕と同じ大学に行こうって思ってたのか?」訊ねた声は少しだけ呆れてしまっていた。
電話の向こう側でむくれたような気配がする。『大学受験するって言って親にその大学の名前を言わないのもどうかと思う』俺の落ち度じゃない、と言い訳するような言い方だった。
「いいんだよ、別に。聞かれてないし、多分入学式とかでこっちに来ることもないだろうから」組合の学校の小学校と中学校、どれの入学式も卒業式も両親が参加した事は一度もなかった。建前では、同じ日に裕太郎のほうの式典があるからそっちにはいけない、というものではあったけれど、高校に入学する時にはさすがに遠回しに告げられる「行けない」の意味には気づいていた。行けないのではなくて、行かない。会えないのではなくて会いたくない。ただそれだけで済まされる心情にわざわざ理屈を組み合わせて正当化させる両親の複雑さに、一回一回一喜一憂していられない事だけは理解した。
そういう関係にまでなってしまっていてもひとまずは、親としての養育の責務だけは果たしてくれているのだから、感謝しなくてはいけないと思う。
受験する大学の名前を教えて、資料請求したほうがいいとアドバイスをして、自分から別れの挨拶の後で電話を切ろうとしたところで智和は引き止めるように弟の名前を呼んだ。「なあ、裕太郎」
『――なんだ? 智和』少しだけ遠ざかっていた声音がゆっくりと元の音量に戻る。電話を切ろうとしていたところで呼ばれたのに気づいて、耳に当てなおしたのだろう。なにかまだ用事があったか、と首を捻って考えるような声だった。呼び止められる理由を自分の中に見つけられない口調に違いなく、そのせいか智和が訊ねようと思っている言いにくい事柄はますます重みを増して、すぐに声にはならなかった。
なんて切り出せばいいのか。他愛なく返された弟の声の反動で思わず黙り込んでしまった智和に、裕太郎は訊ねて来る。楽観的で気楽で、後ろめたさなんて何もないのは当然で、声を聞くだけ分かる。『なんだよ、何か言いたい事があるんだろう? 黙ってないで言っていいよ、兄さん』
声に促されるような気持ちで、一度強く唇をかみ締めてから開いた。「裕太郎、お前」兄さん、と弟が呼ぶ事はほとんどない。一卵性双生児として生まれてきた事もあるし、能力者組合に引き取られてからは兄弟の絆というよりも、もう一人の自分との絆と呼ぶほうが適切な関係を作ってきた。兄であり弟である、という気持ちもあるにはあるけれど、半身だと思うほうが強い。「この間、五日ぐらい前になるけど……こっちに来たか?」だから、もし弟が岩崎会長の死に関わっているのなら、必ず自分に何かを言ってくるはずだ。そう思っているのだと、智和は漠然と思った。裕太郎に見えた人物、でも裕太郎ではないとも思う心情。――裕太郎なら絶対に、何かをする前に自分へ、メッセージなりを送ってくれるはずだと信じている。
『五日前?』そばだてた耳には、きょとんと目を丸くする音まで聞こえてきそうだった。声はそのぐらい、唐突に訊ねられた事に驚いて不思議がっているようだった。『五日前って、普通に平日だけど。俺が学校休んでそっちに行ったって思うわけ?』
こめかみを掻いている手に気づいて、その指先をゆるく握る。「夕方ぐらいにお前によく似た人を見かけたんだけど、声をかけても無視されたから」あっけなく翻る、その背中を思い出す。
『それは俺じゃないからだよ』裕太郎の口調はあっさりとしていた。隠す意図ももちろん必要ない、兄が見た自分によく似た人物が人違いであると言い切るのに戸惑いも焦りもない、だからこそあけっぴろげもなく断言できる他人事の言い方だった。『だって、俺がひとりで智和のいるところまで行けるわけないだろう? 平日に、母さんの目を盗んで? 学校から帰ってこなかった時点で絶対にばれるし、智和のところにも絶対に連絡が行くと思うけど。五日前に、連絡とかあった?』
「いや、なかったけど」両親の声は、大学の話をした時以来、聞いていない。必要に迫られないと連絡を親子揃って入れないので、下手をすれば半年以上声を聞かない時もあった。便りがないのは元気な証拠、とはいうけれど、単に互いに自分の今いる生活を相手に壊してほしくないから関わらないだけなのだと智和は分かっている。分かった上で、弟の裕太郎とだけはこっそり連絡を取り合っていることにはさほど罪悪感のほうは沸かなかった。
智和の生活。両親の生活。――両親にとって息子の裕太郎が第一のように、智和にとっても弟の裕太郎との関係は断ち切れない。断ち切ろうとも思わない、断ち切れるわけもない。
『じゃあ、人違いだろうな。智和は、幻でも見たんだよ』最後の部分は半ば冗談ぽかったけれど、見間違いだと言い切っているのは確かだった。
「幻か」だとすれば納得のいくこともあるにはあり、同時に釈然としないものも存在した。智和には弟の裕太郎に見え、悠里には性別さえ判然としない誰かに見えたのは、岩崎会長の死体が乗っている車から降りた人物が自身を中心にして暗示をかけていたから、と説明付ける事は出来る。人目を避けるようにして停車された車であっても、車自体が外国の高級車であったり、停車させている場所が寂れているとはいえ人通りのある商店街だったりしたのだから、その人物が、偶然にでも自分を目撃する第三者を警戒していた、と考えてもおかしくはない。だから、その人物を視界に捉えた人間には別の何かに見えるよう暗示を施していた。たとえば、家族であるとか大事な人間であるとか――、後に車から死体が発見されても、簡単に警察には言えないような、目撃した人物にとって何か特別な誰かだと認識させようとした。
だとすれば、智和に関してだけの話なら正解だ。智和は、弟の事を警察には話せなかった。違うかもしれないと内心では半信半疑でも、疑う気持ちがある以上は警察に見たままを話す事は出来なかった。
けれど、出てきた人物が暗示を使って目撃者を惑わせたのだと、智和と悠里の見たものの差異から結論付けたとして、やはり残るのは、暗示は本人の本能には逆らえないという本質だろう。綺麗過ぎる岩崎会長の遺体の死因が暗示によって体の臓器を停止させられた臓器不全だとして、そうなるには岩崎会長がそれこそ心底「死にたい」と思わなければ出来ないのだ。一ヶ月前の切り裂き魔からはじまった能力者への規制強化の風潮の最中に、後もう少しで悲願が達成されるというところで、彼に命を投げ出したくなるほどの事が起こるだろうか。
遺体を見つける一時間そこら前に見た、生討論会での岩崎洋一郎の姿が脳裏を過ぎった。悠然と喋り、唾を吐かれながらの反論にも余裕を崩さなかった男は、自分のなそうとしている事に一片の迷いも疑いも持ってはいなかっただろう。能力者登録法案を可決し、戦前戦中のような軍隊を作る。厳しい統制化のもとでのみ能力者の人権は正常に保たれるのだと、信念が揺らいでいる様子はなかった。
『智和?』電話を繋いでいる事を忘れてしまっていたわけではないのに、耳に滑り込んできた声に思わず智和は狼狽した。考え事の最中にいきなり背中を叩かれて声をかけられるような、そんな気分で返事をする。「な、なんだ? 裕太郎」
『俺も智和に聞きたい事があるんだ』
「聞きたい事?」促すように聞き返してから、さっきの五日前の話だったらどう誤魔化そうかと内心で思った。全国紙と全国ネットの放送局に連日報道されている岩崎会長の遺体を最初に見つけたのは僕なんだ、とまではいえるとしても、その時に遺体の乗っている車から出てきた人間がお前そっくりだったから気になって、とは続けられるはずもない。お前が犯人かもしれないから気になって探りを入れてみた。単刀直入に開き直って質問するよりも、遠回しに本意がばれないよう聞いてしまった後ろめたさもある。弟を試したような品定めをしたような、冗談を落としどころにするにはほの暗い気持ちを抱えていた。
『手紙、ちゃんと書いてるよな?』だからだろう。態のいい言い逃れを考えあぐねていた頭では咄嗟に、裕太郎の訊ねてきた事が分からなかった。
「え?」間の抜けた声が出る。言ってから、ずっと同じ方向で回転させていた思案の渦を正反対にしてかき混ぜなおすような抵抗感と違和感があって、しばらくしてようやく滑らかに動き出したところで理解した。その時には電話越しに嘆息めいた吐息が落ちるのをノイズで聞いていたので、「悪い。全然違う事を考えてた、手紙だよな? 裕太郎はちゃんと書いてるのか?」聞かれた事をそのまま鸚鵡返しに訊ねていた。舌先は脳内の思考以上に混乱していて、とりあえず黙り込んでしまった分を取り戻そうと無意識に思ったようで、俄然早口の質問になっている。「今週は裕太郎の番、だったよな」
つと、間が空いた。『智和の番だよ』白々しくも無感情に淡々とした口調で言い終わってから落ちるため息は、さっきの嘆息以上に嘆かわしげだった。露骨過ぎて芝居がかっている、ともとれる。『岩崎会長の事とか新聞やテレビ局の報道とか、今週は書く事もいっぱいあると思って気になってたんだ。でもまさか、忘れているとは思わなかった』感嘆の声も言い様を変えるだけで随分と人を見下ろした物言いになる。褒めるような言い方で手っ取り早く兄を貶してから、裕太郎は首を傾げたようだった。もちろん電話越しに見えるはずもないそれは気配だ、こっちの様子を物静かに眺めているような。『新聞やテレビはこぞって岩崎会長を殺したのは能力者だっていってるだろ? でも、根拠のほうはほとんどない。あんなものは、中世の魔女狩りと同じだ。気に食わない奴を魔女にでっち上げている、で、そいつを殺せばおしまいだと思っている。なんか気持ち悪いよな、本当』
「僕の事を心配してくれてるのか?」訊ねる傍から唇の端がほころぶのを感じた。はい、でも、いいえ、でも、心の奥のほうがほのかに暖かいこの気持ちは冷めないだろう。
『ついでだよ。大学の事を聞くついでに聞いてみただけだから』膨れ面でそっぽを向いている弟を想像する。どっちが本題なのかは本人にしか分からないところだろうが、聞いている智和にしてみればどっこいどっこいという感じだった。どっちも口実でどっちも本題だ。『でも、今回は俺が変わろうか? 手紙を書くにしてもあんまり気分のいいものじゃないだろう?』
苦笑いして首を振る。そうしてからこれでは伝わるはずもないと、携帯電話を握っている手のひらの感触で思い出して、遅ればせに口を開いた。「――大丈夫だ。それに、別に腹が立ったりむかついてたから手紙を書かなかったわけじゃないから」これは本当だ。転校生の事や岩崎会長の事、車から出てきた裕太郎と思わしき人物の事で頭がいっぱいだったのだ。けれどそのどれも、電話伝いとはいえ裕太郎に言える事ではないので嘘をつく。「言い訳すると、ここ最近ちょっと忙しかったんだ。ほら、学校の生徒会長やってるだろう? 岩崎会長が死んだせいで、いろいろと学校のほうもばたばたしてるんだよ」
『智和はすごいと思うよ。たまに』賞賛ともお世辞ともつかない言い方だった。言ってから本人も気づいたようで、『智和は俺の自慢の兄さんだよ』今度はゴマすりだとはっきり分かる口調で言ってきた。
「あんまり自慢しないでくれ。特に親には」こっちは冗談なのか皮肉なのか分からない返事をしてから、「まあ、落ち着いたら手紙は書くよ。じゃあな、そろそろ切るぞ」このままだとなんでもない事をいつまでも話していてしまいそうな気がして、自分からもう一度別れの挨拶をした。携帯電話の通話ボタンに指を持っていきかけたところで、裕太郎の声がした。
『あ、待ってくれ。もうひとつ聞きたいことがあったんだ、』少し慌てた声で言ったにもかかわらず、弟の言葉はすぐには続かなかった。落ちる間に智和が痺れを切らして口を開こうとした時に、まるでこっちのそんな気配を察知したかのようなタイミングで、ひっそりと声が向けられた。潜められて物静かなそれは、目の中に映る自分を眺められるぐらいの距離まで顔を近づけて小声で秘密事を言う様子を連想させた、誰にも言わないでねと暗に言って告げるのだ。『智和は、――俺が同じ大学に行くと困るのかな?』
「どうして?」嫌な素振りを見せただろうかと、ここまでの宮野智和を省みる。
『父さんや母さんが許さない、って言ったよな? 智和はどうなんだよ?』
目を少し見開いて、耳から離した携帯電話を目前に据えた。回線で繋がった向こう側で、裕太郎がため息をつく気配を感じた。『智和は俺と一緒にいるのは嫌なのかな。同じ大学に通う事になったら、昔みたいに一緒にできる事がたくさん増えると思うんだ。俺はそれが楽しみで仕方ないんだけど、智和はそういうのは迷惑か?』