柏木は、ゆっくりと遠ざかっていく庄治の背と止む気配のない震える携帯電話を持って親友を見送る智和を交互に戸惑った様子で見遣ってから、「宮野先輩、待ってますから早く追いついてきてくださいね」少しばかり縋るような口調で言って庄治の背中を追いかけた。悠里はといえば小さく頭を下げただけで、くるりと背中を向ける。
「工藤さん」歩き出そうとする彼女の背に、智和は声をかけていた。早く出ろと催促し続ける電話に出る前に、彼女に聞いておきたいことがどうしてもあったのだ。
怪訝そうに振り向く悠里に、「あの、岩崎会長が死んだ日の、車の中から出てきた人物、工藤さんは男には見えなかったみたいなことを言ってたけど」若干早口で言ってから、最後にひとつ息をついて訊ねた。「工藤さんにはどんな風に見えたの?」警察署で聞こうとした時には恩田によって遮られた質問だった、今も、長く沈黙が落ちるようならずっと待つわけにはいかないだろう。
愛想を尽かしてそっぽをむくように、次の瞬間にでも携帯電話の振動は鳴り止んでもおかしくはなかった。そろそろ出ないとさすがにまずいだろうと焦り始めたところで、悠里が物静かに口を開いた。
「私にはそもそも、性別も分からなかったんです。暗すぎて人だとしか言えないものを、宮野君が男だと言い切ったので驚いていました」
目を丸くする。「でも、あそこは確かに暗かったけど、性別が分からないほどじゃなかったよ」女性にも男性にも見えなかった、なんて事があるのだろうかと半ば首を捻る。
悠里は一瞬、考え込むふうに唇を一文字に結んでからまた言った。「でも、本当なんです。宮野君にはその人がちゃんと見えたのかもしれないけれど、私の目には全然見えなかったんです。だから警察の人に尋ねられた時も答えられなかったんです、だって、私は何も見ていないんですから」淡々とした言い方だった。むきになる様子もなく、自分が見えなかったものを見たと言う智和に戸惑う事もなく、その分だけはっきりと彼女の中では、今言った事だけが事実なのだと伝わってきた。何かを隠すにしても、見ていない、はあまりに陳腐な逃げ道だ。本当は何かを見ていたのなら、きっと選ばないぐらいの。
「電話。出たほうがいいと思いますよ」ちらりと携帯電話に一瞥くれてから悠里は再び歩き出した。
遠ざかって行く彼女を見遣り、その向こうで待っている親友と後輩がこっちを見ているのに気づいて笑みを作り、そうしてから手のひらの中にある携帯電話へと視線を向けた。まだ鳴っていた、小刻みな振動が手のひらから中のほうへと浸透してくる。よほど大事な用事があるんだろうな、とぼんやり思う一方で、それがもし自分が心配している事だったならどうすればいいんだろう、とも考えていた。想像する電話口からの言葉に、返す智和自身の声が絡み合って頭の中を占拠する。指先を意識的に動かして通話ボタンを押した。ぴたり、と振動が当たり前に止む。
回線の繋がった携帯電話を耳にあてた、小さく細かやな雑音がざらざらとした感触で鼓膜をなでてくる。電話越しではどうしても潰れたような、しゃがれた感じになる声が雑音を掻き分けて、智和の耳に入ってきた。
『切ろうかと思った』出るならさっさと出てくれればいいのに、と率直に非難する声に、抱えている不安がいまだぶらぶらと宙吊り状態にある喉を少し震わせて智和は笑う。自然とこぼれた苦笑だった。
「悪い。今学校帰りで、友達と帰ってたんだ」
『じゃあ、電話切ったほうがいいか?』こっちが何かを言う前に言葉どおり電話を切りそうな雰囲気だったので、「ちょっと待った。友達には先に帰ってもらったから今は大丈夫だ」電話を切る事はないと早口で伝えてから質問する。「お前がこんな時間に、しかも長々と電話で呼び出し続けるなんて何かあったんだろう? 驚かないから早く言ってくれ、裕太郎」岩崎会長の車から出てきたのはお前で、僕に見られたのを自覚していて、警察に話したかどうか気になって電話してきたのか? とはさすがに聞けるはずもない。悠里の言っていた事、あの場所が暗がりだった事、ふたつを頼りに気のせいだと割り切ろうとする気持ち半分、もう半分は本当にそれが電話をかけてきた理由だとしたら何を言えばいいのだろうかと迷う思いで、口は自然と重たくなった。
『何か心当たりがある、って言い方だな』見透かしたふうな言い方に、唾を飲み込もうとした咥内で唾液が一滴もなく干上がっているのに気づく。
喉を動かして、舌先を湿らせてから口を開いた。「お前も僕に、心当たりがあると思うのか?」名前を呼んだあの瞬間、車から出てきた人物はあっけなく背を翻して暗がりの中に隠れた。裕太郎、と呼ぶ声が人物にとって特別なものだったのかそうではなかったのは、判然としない。突き詰めて言えば車から出てきた人物が智和を見て驚いたのだって、単に死体のある車から出てきたところを第三者に目撃された事への動揺、という捉え方も出来るのだ。電話越しの遠く離れている兄弟へ当たり前に向けてくる親しみを、あの死体から遠ざける推理は幾通りもあるだろう。
それでも訊ねていた。少し空いた間の終わりに裕太郎が小さく笑う、跳ねる声というよりも息遣いのリズムが伝わってくる。『この間、智和が父さんや母さんに話していた大学進学の話、覚えてるか?』
「え? ――ああ」声で頭を打ちながらも、話の筋がずれた、と智和は漠然と芽生えた不安の中で思った。進んでいた方向を意識している中で挿げ替えられるような、行こうとしている方角はこっちではないと気づいているのに歩き続けるような、そんな気持ちになった。お前は俺に、あの夜の事を聞きたいんじゃないのか。息苦しく喉に痞えている詰問の硬く絡まった塊が、外に出て行けば楽だとばかりに咥内でほどけて、端的な質問として声になろうとする。押さえ込みどうにか体の底まで飲み込んで、当たり障りない事を訊ねた。「大学の事で、父さんか母さんが何か言ってたのか?」
言っていたとしてもあの両親は裕太郎を、智和に対する伝達役にはしないだろう。そもそも、三人が囲む食卓の空気が「智和」の単語で揺れるのを想像するのも難しかった。
両親である、あの人達が悪いのではない。かといって、智和が悪いのでもない。ただ、守らなければならない子供、と表現した時にそれは彼らにとっては、宮野裕太郎、ただ一人になってしまうだけの話だった。裕太郎は世の中でひとり生きていくには多少不便のある体をしている、だから両親は裕太郎を庇護してやらなければいけない。守ろうと思えばまず、その子の傍のある危ないものを一つ一つ取り除いていく事からはじめるものだ。裕太郎の場合は家の段差であったり、欠けてしまっている視界であったり、そもそも彼にそんな不自由を強いてしまった原因であったり。
智和は目を伏せた。「何か僕に伝言でも?」あるわけないと自覚した上で質問して、けれどもすぐにやっぱりないか、と頭の隅で完全否定する。
『いや、なんにも』だから裕太郎の返答は予想の範囲内だったのだけれど、にも関わらず多少なりとも落胆している自分を見つけて智和は、音を立てずに唇の片端を歪めて笑った。ほとんどが安堵のうちの心中でほんの一握りもない落胆ではあったけど、何を期待しているのかと呆れる気持ちでわだかまった落胆を蹴散らそうとしてみる。長々と吐き出したため息で吹き払えればよかったのだけれど、そんなにあっさりと飛ばされてくれるほど軽々しい感情ではなかった。『父さんも母さんもいつも通りだ。特に変わった事はなかったけど、――俺の用事もそっちのほうじゃないから』
「じゃあ、何の用なんだ?」自然と詰問するような言い方になっていた。さっさと白状しろ、と、もし目の前に彼がいるのなら詰め寄っていただろう。「僕になにか、用事があるんだろう?」
電話越しで、生返事に近い声が返ってきた。なんと切り出せば一番いいだろうかと考えあぐねている最中、といったぼんやりとした短い声で裕太郎は応えてから、つと黙り込んだ。さほど長くはない時間の後で、『実はさ、智和』いつになく慎重というべきか、不自然に淡々とした口調で名前を呼ばれた時、無意識にも体の筋肉が収縮して強張る感覚を智和は覚えた。息が喉元で詰まる。目の前の相手が凶器を突き出してくる、その軌跡を逃さず見極めようとするような、そんな気持ちで携帯電話に押し当てている耳をそばだてた。
『俺、』人を殺したんだよ、知ってると思うけど。と、脳裏では、言いよどんだ裕太郎の声が想像の形で続けられた。瞼を開けて、空を仰ぐ。電話の向こうで小さく息を落とす音を拾った、裕太郎が空気を肺に吸い込んで詰まっていた言葉を力任せに咥内から押し出すような口調で言う。『俺、そっちに行こうと思うんだ』
「え?」思わず聞き返していた。空から携帯電話へ、視線をやる。「そっちって、ここに?」どうして? と訊ねる事はしなかったけれど、疑問符だらけの声は回線を通じても十分裕太郎に伝わったようで、力んで吐き出したさっきの言葉の調子のままで裕太郎は応えた、
『大学。俺も受けようと思う、智和の成績には負けるかもしれないけど俺だってずっと勉強したんだ。多少頭のいい大学でも合格する自信ぐらいはある』
「用事って、本当に、大学の事だったのか?」唖然とした気持ちで訊ねた。本当は言わなくちゃいけないことを些細な事で隠しているんじゃないかと粗探しをするような気持ちで、重ねて質問する。「大学の事を聞くためにわざわざあんなに長々と呼び出していたのか? 僕を?」頭の中では苦笑いをしている。これではまるで、車から出てきた人物は自分なのだと裕太郎から告白してもらいたがっているみたいじゃないか。犯人である弟が遠く放れて暮らす兄である自分を頼ってきたのだと信じたいみたいじゃないか、見せつけられる本末転倒すぎる願望を追い払おうと、首を横に振った。
『大事な事だ。少なくとも、俺にとっては』口振りには少しばかり、苛立ちが混じっているようだった。裕太郎が言った事に対する智和の反応があんまりにないがしろすぎる、とふてくされたような言い方でもある。『智和はそっちの学校を出てもこっちには帰ってこないんだろう? 父さんも母さんも教えてくれないけれど、雰囲気を見ればそのぐらい分かる。そっちの大学に行くんだったら俺も、同じ大学に行こうと思うんだ』思う、という表現を使ってはいても、裕太郎のそれはすでに確定事項なのだろう。揺るぎなく淡々と、当たり前の事しか言っていないと開き直っている。
そっと、ため息をついていた。体の中でいっぱいいっぱいに膨れ上がっていた困惑を少し外に追い出すと、多少は頭のめぐりが早くなったような気配がした。そうしてからやっと、普段ならすぐにでも思い至りそうな単純な疑問が沸いて来て、智和は眉をひそめる事になる。回線を通じて向こう側で、事をなんでもない風に言い切った弟に質問した。本当は質問の形式だけが整っていて、半分以上は自分達兄弟が置かれている境遇を思い出させるためだったので、口調はいたって諭すものになっている。
「そんな事を、あの人達が許すと思うか?」あるわけがないな、とさっき思ったままの気持ちで考えていた。どうして僕がここにいるのか考えてみろ、と続けようとしたところで、『別に父さんや母さんに許してもらおうとか考えてないんだよ、俺は』智和の言い分を遮った裕太郎の言葉は、兄のように諭す優しさも疑問符で考えを改めさせようとする気遣いも必要ない、そう断言する強さを明確に持っていた。頑なさ、といってもよさそうだった。言われて思わず言い差しかけた言葉を飲み込んだ智和へ、裕太郎は小さくため息をつく。言葉に込める感情を充電するような間だった。
らしくない、と思えるほどに智和は裕太郎がいつもどんな口調で話すのかを知らない。それでも、自分を守ってくれている両親の気持ちをないがしろにすると言葉の端々で宣言する事に抵抗を覚える気持ちのほうは、なんとなく察する事は出来た。裕太郎だって分かっている。両親が悪いわけではない、むろん兄が悪いわけでもない。何かが絶対的に悪いのだと罵れない現実で、ただ自分が行動することを決めた時に障害になるだろう両親をそっちのけにするための動機としての苛立ちや遣り切れなさが、今の裕太郎には必要なのだろう。