納車の手続きを終えた藤原美穂は、気分爽快だった。真新しいマセラティのフロントで自撮りをし、すぐに水原千雪に写真を送った。
「千雪、昇進祝いに屿さんが限定マセラティをプレゼントしてくれたの!納車のとき初めて知ったんだけど、本当はこれ、あなたの誕生日プレゼントに用意してたんだって。半年だけ私が乗って、その後返すから、いいよね?」
昼寝から目覚めたばかりの千雪は、そのメッセージを見て吐き気がした。あの二人は、いつだって彼女の想像を超えてくる。
そういえば、以前高島健一に誕生日プレゼントは何が欲しいか聞かれたことがあった。その時、たまたま車の雑誌を見ていて、マセラティを指差しただけだった。健一は「必ず手に入れてあげる」と自信満々に言っていた。
けれど今、その憧れの車は、美穂にポジションを奪われた象徴になってしまったのだ。
胸が締め付けられるように痛む。二十年以上の友情が、こんなにも脆いものだったとは…。
千雪は親友の星野澪に電話をかけた。「今夜、黄昏の街に行かない?」
電話越しに、澪の甘く色っぽい声が響く。「行くよ~もちろん!」
夜、バー「黄昏の街」。
VIP席で、千雪は黒のバックオープン・スリットドレスに身を包み、メイクも濃く華やか。片手にカクテルを持ち、もう一方の手は無造作に白い太ももに置かれている。どこか気だるく、他人を寄せ付けない雰囲気だ。
轟音のメタルミュージック、目まぐるしく変わるカラフルなライト、香水とアルコールが混じった空気に、千雪は眉をひそめる。
あと三十分待って来なければ、帰ろう。
「ん?あれ、水原千雪じゃない?」隅の席で、佐藤景が興味深そうに呟く。
向かいの森川航も顔を上げ、バーの幻想的な光の中でその端正な顔立ちが浮かび上がる。細い目が鋭く光る。
「もしかして高島健一に捨てられて、やけになって遊びに来たんじゃない?あ、山本浩が近づいてるぞ。」
山本浩は神奈川で悪名高いプレイボーイ。女に薬を盛ることで有名だ。先月もモデルを一人“事故”で死なせたが、山本家の力で揉み消された。
佐藤景はグラスを置いた。「様子を見てくるよ。水原家とは少し縁があるし。」
森川航は手にしたグラスをきつく握り、目元が怪しく光る。「暇なんだな?」
「いやいや、翠湾のプロジェクトで忙殺されてるよ!」景は言い訳する。
「忙しいなら、余計なことしなくていい。」航は淡々と言った。
景は渋々、席に座り直した。その程度の縁で、航には逆らえない。
一方、山本浩はグラスを持って千雪の前に現れた。
黒いドレスが完璧なボディラインを強調し、白く滑らかな背中が目を引く。まるで女神の彫刻のようだ。
山本の目がいやらしく光る。こんな上物、しかもかつての水原家のお嬢様。今はもう後ろ盾もなく、俺の思い通りじゃないか。
「千雪さん、一人で飲むのは寂しいでしょ?僕がご一緒してもいいかな?」と、紳士ぶって声をかける。
千雪は冷たく一瞥した。「どいて。」
山本の目が鋭くなった。「まだ自分が令嬢だと思ってるのか?今や婚約者に捨てられ、親にも見放された落ちぶれお嬢様だろ。」
言い終わると、なぜか背筋が寒くなり、振り向くが何もない。
山本はグラスをテーブルに叩きつける。「いいから飲みな!」
千雪は氷のような表情で真紅のカクテルを手に取った。スラリとした指先、淡いピンクのネイルがグラスを一層上品に見せる。
立ち上がり、手首をひねると——
バシャッ!
グラスの中身が山本の頭に見事にぶちまけられた。
「水原千雪!人の好意を踏みにじりやがって!」山本は激怒する。
騒ぎに周囲の視線が集まり、「あれ、水原千雪じゃん?」と口笛や囃し立てる声が上がった。かつての神奈川の女神が、山本浩に絡まれているなんて。
千雪は氷のような表情で言う。「ちょうどいいわ、私は罰ゲームのほうが好きなの。」
立ち去ろうとしたその時、突然脚に力が入らず、体の奥から熱がこみ上げてくる――。
さっきのカクテル、飲んでいないはずなのに!