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第11話 彼の偏愛は鋭さを隠して

「誰が年寄りだって?」高島健一の顔が一瞬で真っ黒になる。


水原千雪はわざとらしく「あら、ごめんなさい。あなたも全然年上じゃないわよね、まだ三十歳だし。でもうちの彼は二十代前半だから、あなたより八つも若いの」と軽やかな声で言ったが、その言葉は鋭く胸に刺さる。


高島健一の胸は大きく上下し、声を震わせながら「千雪、いい加減にしろ!わがままもほどほどにしろ!」と怒鳴る。


水原千雪は無言で彼を見つめる。


この「自分じゃなきゃダメだ」という健一の自信は、一体どこから来るのかと心底呆れる。そもそも犬と人間は言葉が通じないし、これ以上話しても仕方ない。


「田中さん、部屋を見せていただけますか?」と背を向けて歩き出そうとした。


高島健一の目は暗く沈み、千雪の言うことが虚勢だと確信していた。本当に他の男のために部屋を買うつもりなら、その男が来ているはずだ。どうせ嘘だ、と。


「待て!」健一は鋭く声を上げ、藤原美穂を連れて田中の前に立ちふさがる。千雪を見ようともせず、田中に向けて命令口調で言い放つ。「田中さん、この部屋は僕が買う。」


「え、えぇ……」田中の額に冷や汗が滲む。高島家の御曹司と水原家のお嬢様。どちらも神奈川でも指折りの名家で、下手に扱えば大変なことになる。


健一は冷たく笑い、千雪を一瞥して軽蔑の色を浮かべる。「田中さん、僕は天城グループの後継者です。隣にいるのは藤原社長が溺愛する娘で、桜庭グループの次期当主。そちらの方は……」


わざと間を置き、冷たい声で続けた。「桜庭グループの相続権を剥奪された、ただのお嬢様ですよ。」


千雪の心臓が、見えない手でぎゅっと締め付けられる。


彼は、桜庭グループが祖父の全てだったことを知っている。あれが本来なら自分のものであったことも、藤原慶太と美穂が卑怯な手で奪ったことも、全部分かっているはずなのに。なのに、彼はあっさり美穂を「後継者」と認めてしまった。


「相続権を剥奪されたただのお嬢様」――そのたった一言で、二十年以上の絆が音を立てて崩れ落ちた。


千雪は目を閉じ、胸の奥に渦巻く怒りと絶望を必死に押し殺した。


痛ましい表情の千雪を見て、健一の心に一瞬だけ痛みが走る。今にも抱きしめそうになったが、彼女の反骨心を思い出してぐっと堪えた。


彼女は高慢すぎる。少しはその尖った部分を削らなきゃ、これから先穏やかに生きられない。美穂が後継者なのも、半年だけのことだ。いずれ桜庭グループは千雪のものになる。だから、罪悪感を持つ必要はない――そう自分に言い聞かせて、健一の心はまた冷たく固くなった。


「どうするんだ?」と田中に圧をかける。


田中は一瞬で判断した。高島家は神奈川一の資産家、背後の力を考えれば逆らえない。美穂も今や桜庭で勢いがあり、父の寵愛も厚い。対して、千雪の立場は……。


すぐに結論を出し、千雪に向き直って事務的な声で言う。「申し訳ありません、水原さん。この部屋、実は藤原さんが先に予約されていたんです。システムの手違いでご案内してしまいました。よろしければ、来月またご予約いただけますか?」


千雪の表情が一気に冷たくなる。「田中さん、私を馬鹿にしてるの?」


田中は露骨に不快な顔を見せる。桜庭の社員として、普段は誰からも一目置かれているのに、この口調は我慢ならない。


「水原さん、本当のことですよ。藤原さんが先に予約したんです。これ以上ごねて場を荒らすのはやめてください。さもないと警備員を呼びますよ」と追い払う。


美穂は得意げに健一の肩に寄りかかり、勝ち誇った笑みを浮かべる。健一は冷ややかに傍観し、それが当然と言わんばかり。


千雪は、この理不尽さと媚び諂う態度に吐き気がしそうになる。反論しようとしたその時、スマホが鳴った。森川航からだ。


苛立ちながら少し離れて電話に出る。「もしもし?」


「千雪、こっち渋滞で、少し遅れるかも」航の声がする。


千雪はイライラしながら、手を持ち替えて「もう来なくていい」


「どうして?」航は電話を握りしめ、声を低くする。「千雪は……僕をまた置いていくの?」


前の座席のタクシー運転手は、唐突な空気の重さにぞくりとし、バックミラーで後部座席の少年をチラリと見て心の中でつぶやく。渋滞は俺のせいじゃないのに、なんでこんな殺気立ってるんだ……。


「桜庭の部屋、もう無理みたい。来月にするか、他を探すか、自分で決めて」


「そんなはずがない」航は眉をひそめる。事前に段取りした物件が、どうして急になくなるんだ?


「予約してたのに、横取りされた」


「誰に?」航の目が鋭く光る。


「決まってるでしょ。元婚約者とその浮気相手よ」


「元婚約者」という言葉に、航はわずかに口元を緩め、ささやかな満足感が胸をよぎる。


「え?ひどいじゃないか。そんなの許せないよ」と、絶妙なタイミングで拗ねたような声を出す。


千雪は一瞬、違和感を覚える。……なんだろう、この言い方、やけに芝居がかってる。


「千雪、落ち着いて」航は優しく宥めながら、もう一台のスマホを取り出し素早くメッセージを送る。「世の中には、数字界と英語界のナンバー2が多すぎる。そんな連中に怒っても品が下がるだけだよ」


「数字界と英語界のナンバー2?どういう意味?」若者のノリについていけない千雪。


「うん、知りたい?」


「うん」


「じゃあ、キスしてくれたら教える」


千雪「……」


「冗談だよ」航は笑い、「二B(にびー)ってことさ」


千雪は一瞬呆気にとられた後、思わず吹き出してしまう。「……ほんとに、変な人」


「だから、そんなことで怒るなよ。怒るとシワができるぞ。千雪は色白で美人だし、その美しさをくだらない奴らのせいで損なうなんてもったいない」


この口のうまさは天下一品だ。千雪は苦笑しながら「今まで何人の女の子をこうやって慰めてきたの?」


「千雪以外、慰める価値のある女性なんていないよ」低く甘い声が、受話器越しに響く。その言葉が嘘と分かっていても、千雪の胸はふと震える。


少し離れたところで、健一は電話をしている千雪の様子をじっと見つめていた。彼女の表情が、今まで自分の前では一度も見せたことのないほど明るく笑顔になっているのを見て、どうしようもない怒りと嫉妬がこみ上げてくる。顔つきはますます険しくなった。


誰と話してるんだ?なんであんなに嬉しそうなんだ?


「健一さん、部屋を見に行きましょう?」美穂が声をかける。


「健一さん?健一さん!」何度も呼びかけても、健一は全く反応しない。その様子に、美穂の心には嫉妬と不安が燃え広がる。千雪の存在が、健一にとってどれほど大きいかを思い知らされる。


「健一!」思わず大きな声が出る。


ようやく我に返った健一は、美穂に絡められた腕を無意識に振りほどく。どこか抵抗を感じずにはいられなかった。


「美穂、ちょっと待っててくれ」そう言い残し、千雪の方へと足早に向かっていく。その表情は、まるで浮気現場を押さえに行く夫そのものだった。

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