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第12話 雷鳴のごとき後ろ盾

「健一兄さん!」美穂は、健一が自分を振り切り千雪のもとへ歩み寄るのを見て、心の中で動揺を隠せなかった。


その時、不動産販売オフィスの入口から一人の男が慌ただしく現れた。ピシッとしたスーツに身を包み、落ち着いた雰囲気を漂わせているが、足取りには焦りが見え、額には細かな汗が浮かんでいる。


田中マネージャーはその姿を認めると、すぐさまへつらった笑顔で駆け寄った。「伊藤さん! 自らお越しになるとは!」


伊藤振宇は田中を冷たく一瞥し、目には深い怒りが宿る。この愚か者め、誰にでも喧嘩を売るとは!自分の首を絞めるだけならまだしも、巻き込まないでほしいものだ。


田中はその視線に膝が震えた。「い、伊藤さん、本日は……何かご指示でも?」


伊藤はそっと、少し離れた場所で電話をしている千雪を見やった。彼女は微笑みを浮かべており、どうやら怒ってはいないようだ。それを確認すると、ようやく小さく息をつき、表情を引き締めて威厳を取り戻した。「いや、偶然近くを通ったので、様子を見に来ただけだ。」だが、先ほどの慌てぶりからは到底「偶然通った」ようには見えない。


健一はこの男を知らなかったが、田中の態度から只者ではないと察し、前に出て尋ねた。「田中マネージャー、この方は?」


「こちらは伊藤様、森川財閥関東地区の総責任者です!」田中は畏敬の念を込めて紹介した。


健一と美穂は同時に息を呑んだ。


森川財閥――東京の名門・森川家の中核企業であり、あらゆる業界に影響力を持つ巨大財閥。その実力は、日本経済の根幹をなすほどで、軍需産業にまで深く関与していることから、財界人すべてが一目置く存在だ。不動産販売のマネージャーですら神奈川では誰も逆らえないのに、関東全体を束ねる責任者となれば、なおさらだ。


健一はすぐさま礼儀正しく頭を下げた。「伊藤様、天城グループ代表の高島健一と申します。本日はお目にかかれて光栄です。」


伊藤は無表情のまま、冷たくうなずいた。「高島社長。」明らかによそよそしい態度だった。


しかし、健一は不満を漏らすことさえできない。森川財閥関東地区の責任者ともなれば、神奈川の市長でさえ頭が上がらないのだ。


田中は慌てて健一をフォローしようと口を開いた。「伊藤様、本日高島社長は、10号棟2101号室のご購入を希望されておりまして……」


「お客様は神様」というが、伊藤ならば健一の購入希望を考慮して、態度も和らぐだろう――そう田中は期待した。


だが、その言葉が終わるや否や、伊藤の目つきは鋭くなった。


まさか、この男が“あの方”の女性の部屋を横取りしたというのか?


「今日桜庭で出された部屋はすべて完売したと聞いているが。彼が買ったのはどの部屋だ?」伊藤の声は冷え切っていた。


「10号棟2101号室です。」田中は慌てて答えた。


伊藤の胸中には瞬時に激しい怒りが渦巻いた。しかし、“あの方”の正体は絶対に明かせない。必死に感情を押し殺した。


「2101号室の予約者は確か水原千雪さんだったはずだが、なぜ高島社長になっている?」伊藤は冷たく問い質した。


田中の顔色が固まり、苦し紛れに答えた。「伊藤様、確かに水原様からご予約いただきましたが、高島社長はその前に口頭でご希望を……」


「口頭で?」伊藤は鼻で笑い、鋭い視線を健一、美穂、田中に投げつけた。「証拠は? 君の口約束か? それとも高島社長の顔が広いからか? あるいは、この女性が特別美しいからか?」その一言で三人を一刀両断し、場の空気は一気に凍りついた。


健一の顔は苦渋に歪み、拳を握りしめて震えていた。普段ならこんな侮辱、耐えるはずもない。しかし相手は森川財閥の人間、それも関東地区のトップだ。耐えるしかなかった。


田中は冷や汗だくだくで弁解した。「伊藤様、高島社長は神奈川一の大企業の……」


「ふん? その年商を全部合わせても、私の関東地区の四半期にも及ばない天城グループのことか?」伊藤は情け容赦なく言い放った。その言葉はまさに、天城グループのプライドを踏みにじるものだった。


健一の表情は、まるで虫でも飲み込んだかのように苦々しい。


「ここは桜庭、森川家の敷地だ!」伊藤の声は一段と高まり、圧倒的な威圧感を放った。「誰であろうと、規則は守ってもらう。身の程をわきまえず、権力を振りかざそうなど、勘違いも甚だしい!」


“お客様は神様”といっても、相応の客だけだ。分不相応な連中など“お客様”とは呼べない。


伊藤は冷たい視線で健一を見据えた。「もし騒ぎを起こす者がいれば、警備員に退場してもらうことも厭わない。」――先ほど田中が千雪に言い放った脅しそのままを、今度は健一たちに返した。


健一は顔が火照り、まるで何十発も平手打ちされたかのような屈辱感に耐えながら、歯の隙間からなんとか絞り出した。「……本日は大変失礼いたしました。これで失礼します。」そう言い残して、振り返ることもなく歩き去った。美穂は慌ててその後を追った。


田中の背中は冷汗で濡れ、脚は今にも崩れそうだった。伊藤の冷たい視線が自分に向いた瞬間、膝をつきそうになった。「い、伊藤様……」


「田中マネージャー、君は解雇だ。明日、人事部で手続きしてくれ。」伊藤の声には一切の感情がなかった。


田中の顔から血の気が引き、頭の中は真っ白になった。まさか、千雪の部屋を健一に譲っただけで、即刻職を失うとは思いもよらなかった。


「い、伊藤様、本当に高島社長の方が先に……」田中は必死に食い下がろうとした。


「黙れ!」伊藤は一喝した。「君の腹黒い考えなど、私が知らないとでも? 水原さんが誰だか分かっているのか? その部屋に手を出すとは!」その言葉には強い警告が込められていた。


田中は完全に沈黙し、震えが止まらなかった。千雪はただの没落令嬢ではなかったのか? 他に何かあるのか? しかし、もう尋ねる勇気もなかった。


その時、千雪が電話を切り、こちらに歩み寄ってきた。


伊藤は瞬時に態度を変え、満面の笑顔で彼女を迎えた。「水原さん! 本日は弊社社員の重大な不手際で、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。すでに問題は解決いたしました。お詫びの印として、本日ご覧いただいた物件は、どれでも半額でご提供いたします。いかがでしょうか?」


千雪は状況がつかめず、ただ戸惑うばかりだった。健一と美穂が急にそそくさと立ち去り、何が起きたのか見に来ただけなのに、突然何千万円もする物件が半額だなんて――森川財閥は一体、どれだけ金が余っているのか。


隣の田中はさらに困惑していた。割引の件も驚きだが、伊藤の態度の豹変ぶりにはもっと驚いた――先ほどの健一へのへつらい方とは比べものにならない。


千雪は目の前の見知らぬ男性を見つめ、戸惑いながら尋ねた。「あの、あなたは……?」


「伊藤振宇と申します。森川財閥関東地区の責任者です。」伊藤は丁寧に自己紹介した。


千雪は言葉を失った。たかがマンションを買うだけで、森川財閥の関東地区総責任者自らが対応に来るなんて。これはあまりに“特別待遇”すぎるのでは――。

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