「大丈夫ですよ。今朝は特に用事もないので、むしろお待たせしてしまい恐縮です。」千雪は丁寧に微笑んだ。
航が千雪に向ける優しい眼差しは、伊藤に視線を移すと一転、シベリアの寒流のように冷たく鋭くなった。
伊藤の背中にやっと乾いた汗が、またじっとりと流れ落ちる。「いえいえ!今日はちょうど休みなんです。いくらでもお時間あります!千雪さんとご一緒できるなんて光栄です!」と、心からの忠誠を捧げるかのように必死でアピールする。
航の口元がさらに険しく引き締まった。
(こいつ、媚びすぎだ!千雪に怪しまれたらどうするつもりだ!)
伊藤は内心で焦る。(……また何かまずいこと言ったか?ご機嫌を取るには足りなかったのか?いや、これ以上どうすれば……。東京に戻ったら、諂いの達人にでも弟子入りするか。)
「千雪さん、早速お部屋をご案内しましょうか?」伊藤は話題を変えようとした。
「お願いします。」
「では、こちらです。」伊藤はすぐに先導しようと一歩踏み出したが、ふと思い出したように足を引っ込め、改めて千雪に向き直り、丁寧に手で案内した。「千雪さん、どうぞお先に。」
千雪もすかさず身を引いて、「いえ、伊藤さんこそ、お先にどうぞ。」
「いえいえ、どうぞお先に。」
「どうぞ。」
「いえ、どうぞ!」
「どうぞ。」
二人の譲り合いは一向に終わらず、後ろの田中マネージャーは状況が飲み込めず困惑するばかりで、千雪の正体がますます気になってしまう。
千雪が頑なに譲らないのを見て、伊藤は冷や汗をかきながら焦った。御曹司の大事な人の前を歩くなんて――
(やまもとさんが足を折られたのも、こんなことで……!)伊藤はこっそり航の表情を窺うと、鋭い目つきにゾッとした。
(余計なことして千雪に怪しまれたら、ただじゃすまないぞ!)
「じゃあ……みんなで一緒に行きませんか?」千雪が提案すると、
「はいはい!一緒に行きましょう!」と伊藤はすぐさま応じ、横並びで歩くことに安堵を覚える。
二人は半歩ほど間隔を空けて並んで歩き出した。航はその隙間をじっと見つめ、動こうとしない。
「航くん?どうしたの?早く来て。」千雪は振り返り、ごく自然な仕草で手を差し伸べる。
航は一瞬心臓が止まりそうになりながらも、すぐに駆け寄って、その手をしっかり握った。すると、その表情には抑えきれない微笑みが広がる。
伊藤は(……)と呆れ顔。(さっきまで俺にはあんな冷たい目だったのに!)
三人は10号棟へ向かい、田中マネージャーも少し遅れて続いた。
桜庭マンションはさすが高級物件で、静かで上品な雰囲気に溢れ、採光も抜群、緑も美しい。
2101号室の前に到着し、伊藤が初期パスワードを入力してドアを開けると、千雪は中の贅沢な内装に目を見張った。
「え……家具付きの完成済み物件なんですか?」しかも、まるで自分のためだけに作られたかのようなインテリア。ソファも大好きなエーテルのミニマルデザインだ。
「当社の物件は全て、家具付きのハイグレード仕様となっております。」伊藤は平然と説明する。
千雪は驚きを隠せなかった。普通は内装だけで家具はないはずなのに、これはまるでそのまま住める豪華仕様。田中マネージャーも同じく困惑していた。(こんなリノベーション、いつの間に?)
背中に冷や汗が伝い、(自分の知らないうちにこれだけのことを仕込める人物といえば……)と田中は顔色を失った。
「こちらはあくまでモデルルームですので、もしお好みに合わなければ、いつでもリフォーム可能です。」と伊藤が続ける。
千雪は「いや、このままで十分素敵です」と思いながらも、部屋は航のためのものなので彼に尋ねる。「航くんはどう思う?」
「とても気に入った。この雰囲気が好きだよ。」航は即答した。
千雪は思わず胸が高鳴った。こんなに好みが合うなんて――
「じゃあ、この部屋にしましょう。」
伊藤は表面上は冷静だが、内心では(当たり前だろ、この部屋は最初から御曹司の指示で全部決めたんだから)と自嘲気味だ。
「千雪さん、お目が高い!この部屋は南向きに三方海が広がり、バルコニーから神奈川の街全体が一望できます。そして番号の2101は千雪さんの誕生日と同じ。運命ですね!」
伊藤が言わなければ気づかなかったが、航の目が鋭くなり、伊藤に無言の圧をかける。
(また余計なことを……)伊藤は内心で頭を抱える。
田中マネージャーは(森川……伊藤の態度……)と、全てを悟ったように青ざめていた。
「では、この部屋でお願いします。全額払います。」千雪はカードを差し出した。
伊藤は丁重に受け取り、「かしこまりました。すぐに手続きいたします。」と、森川グループの後ろ盾で手続きは一瞬で完了する。
「おめでとうございます、千雪さん!本日システム抽選で唯一のラッキーなお客様に選ばれまして、なんと購入金額が一割になります!」
「……」
(今までの運を一気に使い果たした?何千万の部屋が数百万で手に入るなんて……)
「こちらがシステムの画面です。」伊藤がモニターを見せると、「ラッキー顧客 一割」とはっきり表示されていた。
手続きを終えて外に出る頃には、千雪もまだ夢見心地だった。「ちょっとこれ、運良すぎない?」
時計を見て、「このあとお客様と会う予定があるから、先に帰ってて」と航に伝え、スマホで交通費を送金した。
「ありがとう、千雪。」航はその場でLineの受信画面を開き、彼女にも見せてからお礼を言う。
千雪は航のスマホを見て眉をひそめた。「そのスマホ、どうしたの?」
航は一瞬動揺し、慌てて後ろ手に隠す。「い、いや、何でもないよ。」
「見せて。」千雪の声は有無を言わせない。
航は渋々スマホを差し出した。画面は蜘蛛の巣のようにヒビが入り、右上は大きく凹み、液晶にはカラフルな縦線が走り、ボタンもいくつか効かない――完全に壊れていた。