佐藤はメニューを見つめながら言った。「ここの冷やしツバメの巣、さっぱりしてておすすめですよ。航さん、どうですか?」
航の表情はさらに険しくなった。彼はスマホを取り出し、LINEを開いてテーブルの端にある注文用QRコードを読み取ると、そのまま佐藤にスマホを差し出した。「これで注文して。」
佐藤は一瞬戸惑いながらも、スマホを受け取った。……あれ?航、スマホ変えた?
「航さん、携帯変えたんですか?前の、まだ新しかったですよね?」
「彼女が選んだんだ。お揃いのやつ。」
航は口元にほんのり笑みを浮かべたが、すぐにいつものクールな表情に戻った。
その一言に、佐藤は頭が真っ白になった。
「か、彼女?!付き合い始めたんですか?!」
東京の名家の御曹司に彼女!?このニュースが広まったら大騒ぎだぞ!
しかも、さっきわざとスマホをテーブルに置いて見せてたような……まさか見せつけたかったのか?いや、航がそんな子供っぽいことするわけない。ただの思い過ごしだ。
「うん、つい最近ね。」航は淡々としていたが、どこか嬉しそうな様子が隠しきれない。
佐藤は呆然としたまま、どんどん“のろけ”を聞かされている気分になってきた。
「それと、あんまり高いの頼まないで。彼女からもらったランチ代、一万円だけだから。」
佐藤は絶句した。一万円なんて、彼らにとっては大した額じゃないのに、どうしてそんな言い方になるのか……これじゃまるで自慢話じゃないか。
「信じないなら、これ見て。」
航はスマホを取り返すと、水原千雪とのチャット画面を開き、「ちゃんとご飯食べてね」と添えられた送金記録を佐藤に見せつけた。
佐藤は何も言えず、さらに目に入ったのは送金時のメッセージ——“旦那”の文字だった。口元が引きつる。しかも航の今日の服装は、色褪せたTシャツに丈の短いジーンズ、腕には20万円程度の普通の時計。以前はイタリア製のオーダースーツや、何百万単位の高級時計しか身につけなかったはずなのに。
「航さん、その服……」思わず聞いてしまう。
「彼女が後で新しいの買ってくれるって。これは着終わったら捨てるから。」
まるで他人事のように、自然な口調で言う。
佐藤は自分の口の軽さを後悔した。「いいですね、彼女さん、すごく気を遣ってくれて。」
「うん。毎月、三万円お小遣いもくれるし。」
佐藤は内心でツッコミを入れた。三万なんて、航の生活水準からしたら微々たるものなのに……そして、その時計も……
「航さん、その時計は……」
航の表情が一瞬で冷たくなった。「他の人がいらないって言ったやつ。」
「誰が?」
「ちょっと目障りなやつさ。」航の声は冷え切っていた。
「それなのに、なんで着けてるんですか?」
「いずれ必要になるから。」
航の瞳は暗く、佐藤はそれ以上聞くのをやめた。この人の考えは推測しない方がいい。
その後のランチタイムは佐藤にとって拷問のようだった。「どうやって知り合ったの?」と何気なく聞いただけで、そこから二時間、航の“彼女自慢”が延々と続いた。新しいスマホ、服、家まで買ってくれる話に、佐藤は頭が痛くなった。
ようやく解放され、午後の仕事を理由にそそくさと席を立った。
航はスマホを手に取り、伊藤に連絡した。
伊藤が到着したとき、個室はすでに片付けられていて、航は一人で座っていた。新しいスマホがテーブルに置かれている。
「航さん、桜庭の手続きはすべて完了しました。それと、ご指示通り天城グループの二つの重要プロジェクトも止めました。警察にも対応済みで、高島健一と藤原美穂は公共の場での不適切な行為で24時間拘留、罰金処分です。」
航は軽く頷いた。
伊藤は新しいスマホに気づき、航の“隠れた愛情表現”を思い出す。
「航さん、スマホ変えたんですね?」
「うん。千雪が選んだ。ペアモデルだ。」
伊藤はすべてを察して、すかさず褒め言葉を口にした。「水原さん、さすがセンスがいいですね!このモデル、とても人気ですし、黒と白の組み合わせがお二人にぴったりです。」
「彼女は昔から見る目があるから。」航の雰囲気も少し和らいだ。
「今夜も水原さんと買い物ですか?」伊藤がさりげなく話を続ける。
航は答えなかったが、伊藤はすぐに昼間、千雪の予定を遅らせた理由を理解した。夜のショッピング、これはデートのためか。
「では、私は戻ります。彼女からもらったランチ代が少ないので、ご一緒は遠慮します。」
伊藤はその言葉に思わず笑いそうになったが、なんとか耐えた。「航さんのように、誰かにランチ代をもらえるなんて羨ましいです。私はいつも自腹ですから。」
その一言が航の心をくすぐったらしい。「年末ボーナス、三割アップだ。」
伊藤は内心でガッツポーズを決めた。水原さんのご機嫌取り、これこそがキャリア最大の成功だと確信した。
・・・
その頃、千雪は田中マネージャーと新たなプロジェクトの打ち合わせを終えようとしていた。ちょうど席を立とうとしたところ、田中マネージャーが別の案件を熱心に語り出す。結局、話し込んでいるうちに、時刻は夕方六時を回ってしまった。
「田中さん、そろそろ軽く食事でもどうですか?」と千雪が提案する。
「いいですね……」田中は答えかけたが、その時、伊藤からのメッセージがスマホに届いた。【クライアントとの夕食は禁止です。】
田中は訳が分からず戸惑ったが、森川家の指示には逆らえない。
「すみません、やはり今日は都合が悪くて。今夜は妻とエステの約束がありまして。もう少しだけ、プロジェクトの話を続けましょうか?」
千雪は苦笑しながらも、話を再開した。