水原千雪が目を覚ますと、隣にはもう誰もいなかった。
昨夜の熱い記憶が一気に蘇り、千雪は思わず布団を顔まで引き上げる。しばらくして、体のだるさに耐えながら起き上がると、自分が森川航の大きなTシャツを着ていることに気づく。下着は身につけておらず、顔がまた熱を帯びた。
慌ててベッドを降り、服を探して着替える。航が戻る前に部屋を出ようと決心し、そっとリビングへ向かった。ふと視線をソファにやると、部屋はきれいに片付いているのに、そこだけは昨夜の余韻が色濃く残っている。思い出したくない光景が頭をよぎり、耳まで赤くなった千雪は、顔を覆いながら足早に部屋を出た。
一方、森川航は朝早くに冷蔵庫の中身が空なのに気づき、千雪がまだ寝ているだろうと食材を買いに出ていた。まさか帰宅したときにはもう千雪がいないとは思いもよらなかった。
部屋中を探し回ったが、どこにも姿はない。航は表情を曇らせ、
「千雪?雪ちゃん?」
と何度か呼びかけてみるが、返事はない。
仕方なくスマホを取り出して電話をかけると、すぐに切られてしまう。間もなくLINEが届く。
【水原千雪:朝から会議があるから、先に行くね。】
その画面をじっと見つめ、航の唇は真一文字に固く結ばれた。
千雪は自宅に戻り、軽く身支度を整えてから会社へ向かった。オフィスに到着すると、藤原美穂がまだ来ておらず、朝の会議も午後に延期されていることを知る。椅子に座り、思わず一息つく。先ほど車を運転しただけで、腰に鈍い痛みが走る。
午後になり、ようやく美穂が出社した。彼女の顔色は険しく、明日の『傾国の紅』衣装チームの契約についてのミーティングでも、その機嫌の悪さは全員に伝わっていた。
会議終了後、千雪が席を立とうとすると、美穂が親しげな口調で近づいてきた。
「雪ちゃん。」
千雪の視線が美穂の首筋に止まる。そこには新しいキスマークが残っていた。
美穂はそれに気づくと、わざとらしく襟元を引き上げて隠しながら、口元に微笑みを浮かべる。
「ごめんね、昨夜は健一兄がちょっと積極的で。」
「その跡、高島健一が残したの?」
千雪は眉をひそめる。
(ひとつだけ?やっぱり年配はダメね。うちの小狼くんは毎回あちこちに跡を残すから、コンシーラーもすぐになくなるのに。高島健一はこれ一つ?持久力も疑わしいわ。)
心の中で冷ややかに笑いながらも、表面は淡々としている。
「もちろんよ。」
美穂は自信満々に答える。
「何回だったの?」
千雪はあえてストレートに聞く。
美穂は千雪が嫉妬していると勘違いし、得意げに答える。
「二回よ。」
――実際は、昨夜美穂と高島健一は警察署で一晩を過ごしていた。車の中でいちゃついていたところを警官に見つかり、そのまま二十四時間も拘留されていたのだ。このキスマークも車の中でついたもので、千雪を刺激するための小道具に過ぎなかった。
千雪はわずかに嫌悪の表情を浮かべる。
(……二回?うちの小狼くんなら、まだ準備運動にもならないわ。)
美穂はその表情を嫉妬と勘違いし、さらに得意げになる。
「そうだ、健一兄が蘭亭の別荘を私にくれたのよ。あれはあなたたちの新居だったんでしょう?本当はもらうつもりなかったけど、あなたが私から桜庭を奪ったんだから、その埋め合わせだって。仕方なく受け取ったの。」
千雪の胸に怒りが込み上げる。あの別荘は自分が健一と一緒に選び、インテリアも全て自分の手で手配した思い出の場所だった。それを健一はあっさりと美穂に渡してしまったのだ。
怒りを押し殺し、千雪は赤い唇に皮肉な笑みを浮かべる。
「気にしないで。いらないゴミが片付いて、ちょうど良かったわ。廃品回収所になってくれて助かる。それに、高島健一なんて、あんたにはお似合い。」
「なっ……!」
美穂の顔は見る見るうちに青ざめ、千雪の背中を睨みつける。彼女は千雪のその余裕ある態度が何よりも憎らしかった。
(絶対に許さない。いつか必ず、あの女を私の前でひざまずかせてみせる!)
悔しさを胸に、美穂はすぐに母・婉清を誘い、高級ブティックで五十万円もするドレスを購入した。明日の映画発表会では、誰よりも目立ってやる。自分こそが桜庭グループの本当のお嬢様であり、デザインディレクターであることを皆に示してやる、と。
発表会は朝十時開始。美穂は夜明け前四時に起き、五時間かけて完璧に身支度を整えた。これが彼女にとって初めての公式なメディアデビュー。絶対に隙は見せられない。
会場に早めに到着すると、外は報道陣でごった返していた。星野澪の影響力の大きさをあらためて実感する。海外メディアまで集まっているのだ。
(絶対に星野澪を自分の専属スタイリストにする――)
美穂の目には野心と欲望が宿っていた。
ボディーガードに囲まれて車を降りると、たちまち注目の的となり、記者たちがざわめく。
「この人は誰?」
「見たことないけど、あんなにドレスアップしてるし、『傾国の紅』の女優さん?」
「でも、女優二号は文澜さんって決まってたはずじゃ?」
美穂の心臓が高鳴る。これほどまでに注目を浴びるのは初めてだった。これまで私生児という後ろめたさから目立たないようにしてきたが、今日こそは堂々とスポットライトの下に立つ日だ。
(今日から、みんな私の名前を覚えるはず。星野澪が認めたデザイナー、桜庭グループのディレクター、藤原慶太の最優秀の娘――)
ボディーガードに導かれて会場内に入り、ようやく一息つく。中はまだ記者がいない。
「すごい人ですね。私、こんな大きな現場は初めてです。」
アシスタントの敏子が小声で感心する。
美穂は背筋を伸ばし、スポットライトの余韻を味わいながら、その瞬間を心待ちにしていた。