「……三流の代物を、よく欲しがるな」
「はあ、未体験だからさ」佐藤拓真がへらへら笑った。
高橋慎也はだるそうに応じる。「好きにしろ」
ドアの外で、小林玲奈は卑猥な会話を聞き、胸が水浸しの綿で詰まったように疼いた。心臓を押さえ、廊下のゴミ箱へよろめく。
嘔吐に襲われ、冷汗がシャツを染め、乱れた髪が青ざめた頰に貼りつく。
「大丈夫ですか?」背後で優しい男声。
振り返ろうとしたが、眩しい照明に輪郭がかすむ。見覚えのある……
唇を震わせて呟くと、意識が遠のいた。
玲奈が病院で目を覚ましたのは真夜中だった。
看護師が点滴を替えながら言う。「お目覚め?お連れ様、なかなかのお姿でしたよ」
一瞬、思考が止まる。
彼氏?高橋慎也?
妄想だ。自分勝手にまとわりつくだけの女——そう自覚した。
高橋慎也との出会いは三年前。神戸ポートタワーで橋の欄干に座っていた彼女を、通りかかった彼が引きずり下ろした。
大学で再会した時、彼は二学年上のカリスマだった。玲奈はただ黙って周囲に佇むようになる。
それでも慎也は嫌悪した。「玲奈、付いてくるな!」
彼女は貪るようにその横顔を眺めただけ。
「キチガイ」彼は手を振り払って去る。
転機はバスケの試合。慎也が相手に倒された瞬間、玲奈が狂ったようにコートに駆け込み、顔を抱えて傷を確かめた。頬の擦り傷に震え、嗚咽が止まらなかった。
「後輩、俺にそんなに夢中か?」慎也は泣き崩れる彼女を嘲笑った。
玲奈は答えず、震える指で傷を撫でる。「痛い?」
「擦り傷ぐらいで男が怖がるか」彼は手を払いのけた。
玲奈が買い込んだ軟膏で、傷跡は消えた。
慎也がふざけた調子で言う。「試すか?」
玲奈が顔を上げる。少年の誇らしげな面影は、記憶の彼とは違うのに、目の形が酷似していた。
拒めなかった。
「……うん」
声はかすれていた。
退院の朝、携帯にグループ通知が光る。
高橋慎也:【集まれ。彼女紹介する】
添付されたのはツーショット写真。
グループは水を打ったように静まり返る。
高橋慎也:【@全員 俺の彼女、美人だろ?返事しろ!】
玲奈がタップした写真に映るのは藤原美咲。舞踊科の新入生で、入学時の踊りが話題の“清純系アイドル”だ。
慎也がものにしたのか。
通知が次々更新され、やがて彼女の名前が浮上する。
【玲奈もグループにいるよな?知ったら押しかけるか?】
【賭けるわ。だって二日もシカトしてる】
【流石にないだろ?正妻がいるのに愛人なんて恥ずかしくない?】
“愛人”の文字に玲奈は口元を歪めた。
【安心して。第三者にはならない】
グループが凍りつく。
間を置き、慎也が@した。
【玲奈、折りを見て言うがな。美咲は他の女と違う。俺は本気だ】
【お前、いつもベタベタしてくるんだよ。正直うざい】
……うざい?
画面が滲む。
自分でも嫌だった。でも抑えられない。
三年も経つのに、偽りの慰めを断てない。
相変わらず、生きるのが面倒だ。
【ごめんなさい。もうしません】
【お幸せに】
二通送り、即座にグループを脱退した。
その頃、“月見”個室で。
慎也は午後に玲奈から届いたメッセージを凝視していた。
お幸せに?どういう意味だ?
無性に腹が立ち、携帯をテーブルに叩きつける。
佐藤拓真が入ってくる。「どうした?」
グループは見ていないらしい。
「クソ……」慎也はソファに倒れ込む。
拓真が周囲を見回す。「彼女は?紹介するって言ったじゃねえか」
「練習中だ。後で迎えに行く」慎也の表情は険しい。
「それでカッカしてんのか?」
「違う」
「じゃあ何が?」
「携帯見てないのか?」慎也が逆に問い詰める。
拓真がグループを開き、玲奈のメッセージに目を走らせる。
「何がしたいんだコイツ」
「知るか。また騒ぎたいだけだろ」
「玲奈、ようやく諦めたんじゃねえの?」拓真が断定する。
「あの女の言葉を信じるか?またのそのそ戻ってくるさ。三年間、完璧に振り切れたことなんて一度もない」
「でもグループ抜けたぜ」
慎也の動きが止まり、携帯を確認する。
確かに脱退していた。
つまり……本当に干渉してこない?
慎也はだらりと背もたれにもたれたが、胸の奥が重たくなった。
メンバーが集まり、美咲の不在から自然と玲奈の話題へ。
「玲奈の脱退って、高橋様への諦め?」
「彼女紹介にショック受けたんじゃない?」
「今まで何度泣かされた?数日したらまた擦り寄ってくるさ」
「賭けようぜ。今回は何日我慢するか?」
一日、二日、一週間——予測が飛び交う中、携帯を見つめていた慎也がふと顔を上げて嗤った。
「骨を投げれば、十分で尻尾振って来るよ」
哄笑が起き、皆が彼の“飼いならし方”を称賛した。
拓真が煙草をくわえながら嘲る。「おい、一つの玩具くらい諦めろよ。美咲が玲奈の百倍いいだろ?」
その刹那、個室のドアが蹴破られた。
「やべえ!大変だ!」
血相を変えた大口幸作が立っている。
慎也が眉をひそめる。「今度は何だ」
「兄貴!玲奈さんが……玲奈さんが!」幸作は言葉を詰まらせた。
「また何かやったのか?」慎也の声は苛立ちで濁る。
幸作が震える手で携帯を差し出す。「地域動画で……!」
慎也が奪い取る。神戸ポートタワー最上階の映像だ。玲奈が橋の欄干に一人、虚空を見つめていた。
夕陽が細い影を浮かび上がらせ、壊れそうな人形のよう。瞳は虚ろで、風が髪を乱しても孤独は微動だにしない。
「……クソ」
慎也の歯の間から罵声が漏れた。
やっぱり狂った女は諦めやがらない。
死で脅すとはな!
「玲奈さん……高橋様に捨てられて自殺する気ですか?」誰かが絶叫した。
「マジかよ!やべえ!」
「キモい、ホントにしつこい!」
慎也が携帯を幸作に投げ返し、髪をかきむしる。
脳裏に三年前の光景がよみがえる——同じポートタワーで、同じように座っていた彼女。
不安が心臓を締め上げた。テーブルを蹴り倒し、彼は駆け出した。
拓真が幸作を睨みつける。「バカかお前!余計なもの見せるな!」叫びながら追いかける。