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第2話 飽きた


「……三流の代物を、よく欲しがるな」

「はあ、未体験だからさ」佐藤拓真がへらへら笑った。

高橋慎也はだるそうに応じる。「好きにしろ」


ドアの外で、小林玲奈は卑猥な会話を聞き、胸が水浸しの綿で詰まったように疼いた。心臓を押さえ、廊下のゴミ箱へよろめく。

嘔吐に襲われ、冷汗がシャツを染め、乱れた髪が青ざめた頰に貼りつく。

「大丈夫ですか?」背後で優しい男声。

振り返ろうとしたが、眩しい照明に輪郭がかすむ。見覚えのある……

唇を震わせて呟くと、意識が遠のいた。


玲奈が病院で目を覚ましたのは真夜中だった。

看護師が点滴を替えながら言う。「お目覚め?お連れ様、なかなかのお姿でしたよ」

一瞬、思考が止まる。

彼氏?高橋慎也?

妄想だ。自分勝手にまとわりつくだけの女——そう自覚した。


高橋慎也との出会いは三年前。神戸ポートタワーで橋の欄干に座っていた彼女を、通りかかった彼が引きずり下ろした。

大学で再会した時、彼は二学年上のカリスマだった。玲奈はただ黙って周囲に佇むようになる。

それでも慎也は嫌悪した。「玲奈、付いてくるな!」

彼女は貪るようにその横顔を眺めただけ。

「キチガイ」彼は手を振り払って去る。

転機はバスケの試合。慎也が相手に倒された瞬間、玲奈が狂ったようにコートに駆け込み、顔を抱えて傷を確かめた。頬の擦り傷に震え、嗚咽が止まらなかった。

「後輩、俺にそんなに夢中か?」慎也は泣き崩れる彼女を嘲笑った。

玲奈は答えず、震える指で傷を撫でる。「痛い?」

「擦り傷ぐらいで男が怖がるか」彼は手を払いのけた。

玲奈が買い込んだ軟膏で、傷跡は消えた。

慎也がふざけた調子で言う。「試すか?」

玲奈が顔を上げる。少年の誇らしげな面影は、記憶の彼とは違うのに、目の形が酷似していた。

拒めなかった。

「……うん」

声はかすれていた。


退院の朝、携帯にグループ通知が光る。

高橋慎也:【集まれ。彼女紹介する】

添付されたのはツーショット写真。

グループは水を打ったように静まり返る。

高橋慎也:【@全員 俺の彼女、美人だろ?返事しろ!】

玲奈がタップした写真に映るのは藤原美咲。舞踊科の新入生で、入学時の踊りが話題の“清純系アイドル”だ。

慎也がものにしたのか。

通知が次々更新され、やがて彼女の名前が浮上する。

【玲奈もグループにいるよな?知ったら押しかけるか?】

【賭けるわ。だって二日もシカトしてる】

【流石にないだろ?正妻がいるのに愛人なんて恥ずかしくない?】

“愛人”の文字に玲奈は口元を歪めた。

【安心して。第三者にはならない】

グループが凍りつく。

間を置き、慎也が@した。

【玲奈、折りを見て言うがな。美咲は他の女と違う。俺は本気だ】

【お前、いつもベタベタしてくるんだよ。正直うざい】

……うざい?

画面が滲む。

自分でも嫌だった。でも抑えられない。

三年も経つのに、偽りの慰めを断てない。

相変わらず、生きるのが面倒だ。

【ごめんなさい。もうしません】

【お幸せに】

二通送り、即座にグループを脱退した。


その頃、“月見”個室で。

慎也は午後に玲奈から届いたメッセージを凝視していた。

お幸せに?どういう意味だ?

無性に腹が立ち、携帯をテーブルに叩きつける。

佐藤拓真が入ってくる。「どうした?」

グループは見ていないらしい。

「クソ……」慎也はソファに倒れ込む。

拓真が周囲を見回す。「彼女は?紹介するって言ったじゃねえか」

「練習中だ。後で迎えに行く」慎也の表情は険しい。

「それでカッカしてんのか?」

「違う」

「じゃあ何が?」

「携帯見てないのか?」慎也が逆に問い詰める。

拓真がグループを開き、玲奈のメッセージに目を走らせる。

「何がしたいんだコイツ」

「知るか。また騒ぎたいだけだろ」

「玲奈、ようやく諦めたんじゃねえの?」拓真が断定する。

「あの女の言葉を信じるか?またのそのそ戻ってくるさ。三年間、完璧に振り切れたことなんて一度もない」

「でもグループ抜けたぜ」

慎也の動きが止まり、携帯を確認する。

確かに脱退していた。

つまり……本当に干渉してこない?

慎也はだらりと背もたれにもたれたが、胸の奥が重たくなった。


メンバーが集まり、美咲の不在から自然と玲奈の話題へ。

「玲奈の脱退って、高橋様への諦め?」

「彼女紹介にショック受けたんじゃない?」

「今まで何度泣かされた?数日したらまた擦り寄ってくるさ」

「賭けようぜ。今回は何日我慢するか?」

一日、二日、一週間——予測が飛び交う中、携帯を見つめていた慎也がふと顔を上げて嗤った。

「骨を投げれば、十分で尻尾振って来るよ」

哄笑が起き、皆が彼の“飼いならし方”を称賛した。

拓真が煙草をくわえながら嘲る。「おい、一つの玩具くらい諦めろよ。美咲が玲奈の百倍いいだろ?」

その刹那、個室のドアが蹴破られた。

「やべえ!大変だ!」

血相を変えた大口幸作が立っている。

慎也が眉をひそめる。「今度は何だ」

「兄貴!玲奈さんが……玲奈さんが!」幸作は言葉を詰まらせた。

「また何かやったのか?」慎也の声は苛立ちで濁る。

幸作が震える手で携帯を差し出す。「地域動画で……!」

慎也が奪い取る。神戸ポートタワー最上階の映像だ。玲奈が橋の欄干に一人、虚空を見つめていた。

夕陽が細い影を浮かび上がらせ、壊れそうな人形のよう。瞳は虚ろで、風が髪を乱しても孤独は微動だにしない。

「……クソ」

慎也の歯の間から罵声が漏れた。

やっぱり狂った女は諦めやがらない。

死で脅すとはな!

「玲奈さん……高橋様に捨てられて自殺する気ですか?」誰かが絶叫した。

「マジかよ!やべえ!」

「キモい、ホントにしつこい!」

慎也が携帯を幸作に投げ返し、髪をかきむしる。

脳裏に三年前の光景がよみがえる——同じポートタワーで、同じように座っていた彼女。

不安が心臓を締め上げた。テーブルを蹴り倒し、彼は駆け出した。

拓真が幸作を睨みつける。「バカかお前!余計なもの見せるな!」叫びながら追いかける。


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