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第3話 訣別


駆けつけた高橋慎也の目に飛び込んだのは、橋の欄干から降りて海を見つめる小林玲奈の背中だった。

慎也は顔色を青ざめさせ、走り寄ると玲奈の腕を掴み、無理やりにでもその場から離そうとした。

イチョウ並木のそばを通りかかった時、玲奈が振りほどいた。

「何するのよ?」

「玲奈! お前、頭おかしいんじゃないのか!」

慎也の声は怒りに震えていた。

玲奈は眉をひそめた。

「おかしいのはあんたの方よ」

慎也は呆然とした。いつも自分の前では従順だったあの娘が、こんなふうに言い返すとは信じられなかった。やがて、冷笑が唇に浮かんだ。

「そんな手を使うつもりか? 自殺騒ぎで、俺の気を引こうってのか?」

玲奈は一瞬、言葉を失い、まるで怪物でも見るような目で慎也を見つめた。

「…何を言ってるの?」

慎也の嘲笑は軽蔑と嫌悪に満ちていた。

「たとえ俺の目の前で死んだって、お前のことなんて好きにならねえよ。諦めろ」

その瞬間、玲奈はこの男の傲慢さを悟った。

もはや弁解する気も失せ、振り返って立ち去ろうとした。

しかし、慎也が再び彼女の腕を掴んだ。歯を食いしばるような声で詰め寄る。

「玲奈! 一体どうしたいんだよ? 死んで脅すつもりか…」

「『手を放す』って言ったのは、本気よ」玲奈は彼の言葉を遮った。「美咲さんと、幸せになってね…って言ったのも、本心からよ」

慎也の表情が一気に凍りついた。

「…もう一度言ってみろ」

玲奈はため息をつき、静かに慎也の顔を見上げた。その眉目は、記憶の奥深くに眠る誰かと重なった。もう心を鬼にして別れるだけの強さは持っているはずなのに、今この瞬間も、まだ未練が胸を締めつける。

「慎也、安心して。年末には神戸を離れるから。あなたと美咲さん、お幸せに…って」

「神戸を離れる?」慎也はその後ろの言葉は耳に入らなかった。この一言だけが脳裏に焼き付いた。信じられなかった。三年もの間、彼女は命がけで自分を愛し、どんな屈辱にも耐え、去るなんて一言も口にしなかった。今更そんなことを言うのは、藤原美咲に刺激された挙句、わざと別れを迫ろうとしているに違いない。

怒りが頂点に達し、逆に笑いが込み上げてきた。

「ああ? なら今すぐにでも消え失せろよ! てめえのこと、俺が欲しいとでも思ってたのか?」

「お前なんて、ただの母親の飼い犬だろうが!」

玲奈の表情は平静だった。初めてこんな言葉を聞いた時は胸が痛んだけれど、今はもう感覚が麻痺している。彼の言う通りだった。この三年間、確かに彼に負い目はあったのだ。

「好きに思えばいいわ」玲奈は再び背を向け、去ろうとした。

その瞬間、手首が慎也に強引に掴まれ、大きな力で引き戻され、イチョウの幹に押しつけられた。慎也が顔を近づけ、キスを迫る。

唇が触れる寸前、玲奈は猛然と彼を押しのけ、反射的に手を振るった!

*パンッ!*

頬を打たれた慎也が、信じられないという表情で手を当てた。

奥歯を軋ませ、目を血走らせて玲奈を睨む。

「玲奈…! やるな…!」

玲奈は我に返り、慎也の頬に浮かんだ赤い跡を見て、胸が締めつけられた。

「ごめんなさい…痛かった?」思わず触れようと手を伸ばした。

慎也はその手を乱暴に払いのけた。

「玲奈! 後で泣きついて来るなよ! てめえのこと、二度と相手にするもんか! もししたら、俺が犬だ!」

捨て台詞を吐くと、慎也は大股でその場を去っていった。


*


寮には誰もいなかった。

玲奈は机の一番下の引き出しを開け、一枚の写真を取り出した。

こっそり撮ったものだった。白いTシャツに黒いパンツ姿の男が、イチョウの木にもたれている。カメラに気づき、顔を上げてこちを見つめていた。

玲奈は指先でそっと写真を撫でた。大粒の涙がこぼれ落ちる。

「悠斗…彼は、あなたに全然似ていないの」

玲奈ははっきりと悟っていた。この人生で、もう二度と鈴木悠斗には会えないのだと。

彼が亡くなってから、五年の歳月が経っていた。


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