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第7話 彼女は俺に怒っている


「玲奈様、奥様がお見えです」

田中執事の声がドアの向こうから響いた。


玲奈は悠斗から目を逸らし、執事に続いて長い廊下を進んだ。


書斎に足を踏み入れるやいなや、一発の整った平手打ちが玲奈の頬に炸裂した。

高橋奥様は端然と座り、和服の袖は微塵も乱れていない。諭す声には、旧華族の教養がにじむ優雅さが宿っていた。

「玲奈さん、あなたにはがっかりしましたわ」

「あの子を抑えられるのは、あなただけかと信じていたのに」

「今日はよくも、あんな女を本邸に連れ込み、結婚だなんて言い出すなんて」

「高橋家に素性知れぬ女はお断りよ」


玲奈はうつむいた。神戸の旧華族は家柄の清さを最も重んじる。高橋奥様が藤原美咲を嫌うのは当然のことだった。


「高橋奥様、私と慎也様は、もう終わりました」

玲奈の声は、微動だにしない静けさを保っていた。


高橋奥様が扇子の骨をぎゅっと握りしめた。

「終わりですって? ならば、高橋グループは即刻出資を引き上げますわ」

沈香の香りが空気中で鋭い刃へと凝り固まる。

「小林株式会社が、あと何時間持つと思っていらっしゃる? よくお考えになって」


玲奈の睫毛がわずかに震えた。『高橋慎也の手綱』になることを承諾したその日から、彼女はこの時を待っていた。


高橋家は神戸の由緒ある家柄だが、現在の奥様は一人息子を強引に政界へ押し出そうとしていた。財界以上に、政界は三世代にわたる家柄の清潔さを求める。ところが御曹司の慎也様は生まれつきの反骨精神の持ち主で、成人後は腹を抱えた女がしょっちゅう押しかけてくる始末だった。


高橋奥様は体面を重んじ、自ら息子を叱ることは決してなかった。当初、玲奈がこの暴れ馬を抑え込めることを見出すと、ようやく彼女を邸内に留めることを黙認したのである。


「あなたが高橋家の嫁にふさわしくないことは、初めてお会いした時にお話ししたでしょう?」

初対面の時、高橋奥様は露骨に言い放った。

「あの子を抑えて、トラブルを起こさせなさい。そうすれば、葉氏…いえ、小林株式会社が潰れないことは私が保証します」


それは割のいい取引だった——慎也様の嘲笑を聞くまでは。

「母上が言うには、お前は金のためだけに俺を我慢してるんだって?」


そして今、藤原美咲が堂々と本邸に上がり込んだ。

高橋奥様の扇子が机を叩きつけた。

「あの水商売の女、調べさせましたわ」


「私はできません…」

「ドイツの脳外科の権威」

玲奈の言葉を遮り、高橋奥様は続けた。

「来週、東京の東大医学部で講演を行いますわ」


玲奈は振り袖の袖を握りしめた。脳腫瘍の手術費が弟の大学志願書を押しつぶし、心臓の中で軋む音が聞こえた。


---


伊藤幸太がコートをぐっと引き寄せながら高橋本邸を飛び出した時、神戸港の寒風が細かい雪を舞い上げていた。


「ちっくしょー、このクソ天気め!」

手を擦りながら、隣の男を小突いた。

「おい、悠斗! 何ボケっとんねん?」


鈴木悠斗は、街角のバス停を見つめていた。そこには制服姿の少女が丸くなって腰掛け、雪が肩の上に積もり始めている。


「脱げ」

悠斗が突然言った。


伊藤は瞬間的にアーサーネのハイエンドスーツを守るように抱えた。

「おいおい、オレはガチのノーマルだぜ! てめえが脚長くて腰細くて腹筋バキバキでもな…」

言葉が終わらないうちに、胸元を蹴られた。悠斗は自分のバーバリーのトレンチコートを脱ぎ、伊藤に放り投げた。

「渡せ」


バス停の前で、玲奈は二人の姿を見つけるとすぐに立ち上がった。


「玲奈ちゃん」

伊藤は関西弁を前面に出して近づいた。

「雪、降ってきそうやな」

差し出したコートは、空中で止まったままだった。


「…性病、うつったりしない?」

少女の声は凍りつくように冷たかった。


伊藤のこめかみに太い血管が浮き上がった。

「あれは悠斗のデタラメだ! オレは二十二年守った純潔(童貞)だっての!」

コートを無理矢理彼女の腕に押し込んだ瞬間、119系統のバスが停車した。


バスが雪のカーテンに溶け込んでいくまで、伊藤はポルシェの助手席に戻らなかった。

「好きなら、はっきり言えよ」

蹴られた肋骨をさすりながら、伊藤が言った。

「『深い川は静かに流れる』ってやつか?」


エンジンをかけた悠斗は、バスのテールランプを追うように車を走らせた。

「…玲奈は、俺に怒ってるんだ」


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