神戸大学正門、夜。
「慎也様、今日は私が悪かったんです。怒らないでくれますか?」藤原美咲が涙ぐんだ目で高橋慎也の袖を掴んだ。
本邸を出てから、慎也様の横顔はずっと影に沈んでいた。彼女を大学まで送る車中でも、エンジンの低い唸りだけが響く。
彼は冷たく手を振り払い、スーツの皺にも冷たさが滲んでいた。「美咲、別れよう。二度と俺の前に現れるな。」
アスファルトに涙が滴った。「な…なぜ?」
「お前が何様だ?」彼の指先のタバコの火が揺らめく。「玲奈様に罠を仕掛けるだと?」
美咲は凍りついた。あの女のために自分を捨てる?高橋家で誰もが知る、慎也様が小林玲奈を嫌悪している事実を。
赤いフェラーリが夜を切り裂く中、ブルートゥースイヤホンが接続された。「拓真、集合だ。」
佐藤拓真の関西弁に含まれた嘲り。「彼女の寮まで愛の宅配便中やろ?」
「来るか?」ハンドルを握る指が白くなる。「ダメなら他の奴を呼ぶ。」
「行くで!慎也様の呼び出しやしな!」
VIP室のドアが開くと、拓真が彼の背後を覗いた。「え?可愛いちゃんは?」
「飽きた。」高橋慎也がソファに沈み、マルボロに火をつけた。
「えっ?先週月見クラブで刺身食べさせてたのに…」
カード席から哄笑が湧いた。「流れる水の恋人、変わらぬは玲奈様やなあ!」
煙の輪が慎也の嘲笑を滲ませた。拓真は彼の顎にできたかさぶたを見つめた——あの夜、金閣での衝突後、玲奈様が夜中に届けた消炎軟膏は今も彼の引き出しにあった。
「あのさ…」拓真がグラスを軽く叩いた。「玲奈様に電話してみる?」
慎也がテーブルを蹴った。「うるさい。」
「そっか!」拓真は親指を立てた。「その覚悟で行けよ、振り返ったら終わりやで?」
「振り返る?」氷玉がグラスを打つ高音。「あの女に資格あるか?」しかし彼の視線は玄関のスマホ画面に釘付けだった。
拓真は無造作にスマホを掴んだ。大学で四年間同寮した彼は、この心にもない言葉の悪癖を熟知していた。
「返せ。」
「玲奈様呼ぶねん」
「吐き気がする女を呼ぶつもりか?」高橋慎也は嘲りながらも、拓真が通話履歴を開くのを許した。
発信音が耳を貫く。「おかけになった電話は通話中です…」
拓真が固まった。「え?繋がらへん?もしかしてブロック?」
「カッ!」黒い画面のスマホがアイスバケツに投げ込まれた。慎也の目に凶暴な色が浮かぶ。「誰が触れていいと言った!」
「いや、お前のためを思って…」
「ため?」ウイスキーボトルが拓真の耳元で爆裂した。「今後、小林玲奈に連絡した者——絶縁だ!」
ガラス破片が金箔の壁に散る。慎也の頬骨を血の筋が伝い、新たな傷痕のように光った。
沈黙を破り、誰かが取りなした。「そういや玲奈様ってほんま…慎也様が熱出した夜、畳の上で氷枕替えてくれてたよな…」
「去年の台風の日、全身濡れて胃薬届けに来たし…」
「俺にこんな着物美人の嫁がおったら…」
扉が全ての音を遮った。高橋慎也はネクタイを緩めて運転席に座り、肋骨の下に酸っぱい感情が渦巻いた——馬鹿共め、いなくなってから良さを言いやがって。
まる七日間。連絡しないだけならまだしも、ブロックだと?
高橋グループの支援がなければ、小林株式会社がいつまで持つか見ものだ。
玄関の灯が高橋夫人の丸帯金紋を照らす。「藤原美咲は駄目よ。」茶筅で抹茶を攪ぜる彼女の声は茶殻より冷たい。
「母さんが気に入った女性に、いつ満足したことあります?」慎也が玄関の九谷焼の花瓶を蹴り倒した。
「三井家の令嬢が明日お茶会に…」
「もういい!」彼の首筋に血管が浮かんだ。「金融学部も行った!議員秘書もやった!女も言う通りに替えた!俺を人形だと思ってるのか!」
高橋夫人の茶杓が空中で止まった。「まさか、あの金目当ての成り上がり娘を未練がましく思ってるの?」
「金だけならいいだろ!」血染めのネクタイを床に叩きつけた。「高橋家にそんな額が困るか?」
主寝室の布団はヒノキの香りに満ちていた。高橋慎也は縮こまり、差し込む胃の痛みを押さえながら、無意識に画面をトントン叩いた。「玲ちゃん…胃が痛いよ…」
発信ボタンを押した瞬間、電子音が闇を切り裂いた。「現在、おかけになった電話は通話できません——」