冷たい「おかけになった電話は応答できません」という機械音が、高橋慎也に残っていた酔いを一気に覚まさせた。
玲奈にブロックされた。
よくもそんなことが。
これからどうすれば……。
コンコンコン……。
襖の外から山本さんの声が聞こえた。「社長、奥様が醒酒のお味噌汁をお持ちしました」
「どいてくれ」慎也は苛立った声で低くうなった。
廊下の影に立つ高橋の奥様を見て、山本さんは困ったようにした。
奥様は漆器の盆を受け取った。「私が持っていく。休んでいいわよ」湯気の立つ椀を手に、和室へと入った。
慎也が和服も脱がず蒲団に寝そべっている様子に、彼女は眉をひそめた。「身なりを整えてから寝なさい。みっともないわ」
「そうか。母上の望むのは烏帽子直衣を着た操り人形か」慎也は皮肉った。
息子の苦しげな様子を見て、奥様はため息をつき、椀を床脇机に置いた。「飲みなさい。さもないと辛いでしょう」
慎也はしぶしぶ起き上がり、椀に指を伸ばした。その瞬間、奥様が口を開いた。「三井家とのお見合いは、両家のためよ。あなたの力になれない女性を妻にしたら、後で後悔するわ」
慎也の手が止まった。
「絵麻様は東大卒、家柄も高橋家に見合う。気に入らなければ、藤原でも誰でも囲えばいいじゃない」
財閥の世界では、本妻の体面さえ守れば、愛人など問題にならない。
慎也は冷笑した。「父上と同じだと?」
奥様の帯締めがかすかに震えた。
「行くよ」慎也は適当に相槌を打ち、蒲団をかぶった。「承知した。お休み」
* * *
小林玲奈が四人部屋の寮に戻ると、田中暁がダンボールをまとめていた。
「引っ越すの?」玲奈の視線が、ぬいぐるみでいっぱいのスーツケースの上を掠めた。
「病院実習が始まるから」暁の視線が突然、玲奈が抱えた紺のスーツに釘付けになった。「わっ!高橋慎也と和解したの?」
玲奈は一瞬、きょとんとした。「してない」
「じゃあこれは?」暁は顎で、明らかに高級そうな上着を指した。
玲奈の指がウール地に食い込んだ——鈴木悠斗に妻がいるという事実が、心臓を鋭く締めつけた。
「玲奈ちゃん?」暁がそっと彼女の手首に触れた。「どうしたの?」
「……昔からのお兄様の」玲奈は声を潜めて言った。
暁の目が輝いた。「どんなお兄様?すごい人でしょ?」彼女は袖口の裏地を持ち上げた。「これ、オーダーメイドだよ。百万は軽く超えてる」
玲奈は驚いた。「そんなに高いの?」
伊藤幸太みたいなお坊ちゃまには、こんなもの要らないだろうと思って、返さずに済ませるつもりだった。でも今は……。
玲奈の表情を一瞥し、暁は耳元に近づいて囁いた。「知らなかったの?チャンスよ!」
「え?」
「百万の服を平気で貸す男なんて」暁は狡くウインクした。「絶対、気があるってことだよ」
玲奈は、手にしたスーツが急に熱く感じた。伊藤幸太とは数度会っただけなのに、六本木での派手な噂はかねがね聞いていた。
まさか……?ダメだ、すぐに返して線を引かなければ。
携帯が突然振動し、知らない番号が画面に表示された。
「もしもし」彼女は躊躇しながら応答した。
「玲奈ちゃん~」伊藤幸太の、ふざけたような関西弁が聞こえた。「俺だよ、幸太やで」
玲奈の睫毛が、眼下に陰を落とした。「伊藤様……」
「寮、着いたか?」
彼女は番号の出所を尋ねもせず、よそよそしい口調で言った。「お借りしたコート、お返ししたいのですが」
受話器の向こうで二秒沈黙が流れ、運転席から鈴木悠斗の軽い咳払いが聞こえた。
「ああ、そうか」幸太の声が急に真面目になった。「明日の正午、海音亭でどうだ」
「かしこまりました」
電話が切れた瞬間、暁が飛びついてきた。「持ち主?狙い撃ちね!」
「ありえない」玲奈はスーツをハンガーにかけた。「ああいうタイプは好みじゃない」
暁は嫌そうに口を尖らせた。「じゃあ高橋慎也みたいなのが好み?三年も無駄にしても足りなかったの?」
「今回は本当に終わりよ」
「前もそう言ってたのに」暁は玲奈が慌てふためく様を真似した。「彼が擦り傷したって聞いたら、救急箱抱えて飛んでいったじゃん」
玲奈の唇が微かに震えた。指摘は全て事実だった。
「ごめんね」暁は突然、悪戯っぽく玲奈の肩を組んだ。「そういえば鈴木錚が帰国したって。君のことを訊いてたよ」
「……そう」
「東大医学部のイケメンよ?」暁は肘で彼女を小突いた。「なんであの時フったの?」
玲奈はうつむき、スーツの襟を整えた。
「諦めなよ」ツインテールを揺らしながら暁は言った。「男なんて星の数ほどいるんだから」
玲奈は顔を上げた。「あなたは替えたの?」
「もちろんだよ~」暁のスマホ画面に高校生の男の子の写真がパッと映った。「前のオジサン?フッ、年下の方が甘え上手でしょ?」
玲奈は呆然とした。「その……年下って?」
「受験生よ!」暁はスーツケースを引きずりながら入口へ跳ねていった。「十八は最高のプロテイン!行ってきまーす!」
寮が静寂に包まれた。玲奈は窓の外、神戸港の灯りを見つめた。そろそろアパートを探して引っ越す時だ。
* * *
翌日正午、海音亭。
襖を開けた瞬間、玲奈の足が床に釘付けになった。
鈴木悠斗。なぜ彼が?
焦がれた歳月が走馬灯のように蘇る。けれど今、胸の奥で鈍く疼くのは——あの指輪の存在だった。
玲奈は入口で深く息を吸い込み、二人の前に歩み出た。