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第11話 別れないでくれ


高橋慎也は険しい表情で料亭を飛び出し、小林玲奈の手首を掴んだ。「玲奈、誰が行っていいと言った?」

玲奈は眉をひそめて振りほどいた。「離して」

「新しい彼氏に見られたくないのか?」慎也の嘲笑には毒が滲んでいた。「伊藤幸太は俺みたいなバカじゃないぞ。お前に弄ばれるような相手じゃない」

玲奈の視線が彼の喉仏を掠めた。「あんたに関係あること?」

「関係ないわけがないだろ。元彼なんだからな」

「元彼?」玲奈の口元に嘲笑が浮かんだ。「私たち、いつ付き合ったっけ?」

慎也の瞳が一瞬で細まった。月見クラブのあの夜、「うるさい、別れよう」という酔った言葉が耳朶に蘇る。

「伊藤家の裏には関西の筋がつながってる」彼の喉仏が動いた。「死にたくなければ、あいつから離れろ」

玲奈は静かに彼を見つめた。本当に滑稽だ。あの頃は悠斗に似ていると思っていたのに、今では面影すらない。

「高橋慎也、終わったのよ。あれはあなたが宣言したこと」

鈴木絵麻の下駄の音が近づいてきた。

慎也は突然、お見合い相手を引き寄せた。「紹介する、絵麻、俺の彼女だ」しかし、その目線は玲奈の顔に釘付けだった。

ひび割れもない。微動だにしない。

「本当に…不愉快だわ」玲奈の細いヒールが庭石を蹴散らして去っていった。

慎也は絵麻の手を離した。「自分で帰れ」

「明日の映画…」

「用事がある」GTRのエンジンが料亭前で轟音をあげた。


車内で「不愉快だわ」という言葉が神経を切り刻む。あの女…本当に終わりにする気か?

携帯が光り、藤原美咲からの着信が表示された。

「慎也様…お願いします」すすり泣く声が蜘蛛の糸のように絡みつく。「玲奈様の前で失態を演じてしまって、私が悪かったんです…」

玲奈は決してそんな甘ったるい声で泣かなかった。彼女の涙はいつだって静かだった。

「これからおとなしくするか?」

「はい!人形のようにおとなしくします!」

「なら別れない」


海音亭二階の展望席。

鈴木悠斗のウイスキーグラスが街の灯りを映していた。「あの小僧、玲奈と何の関係だ?」

伊藤幸太の関西弁が震えた。「怒らないで聞いてくれよな」

「言え」

「玲奈ちゃんと慎也様が、もしかして…」

ドン!

切子のグラスが檜のテーブルで星のように砕けた。血が悠斗の指の間から滴り落ち、懐紙を朱に染めた。

「続けろ」悠斗は白い麻の布で傷を押さえた。布端の梅家紋が血の色に滲んだ。

「無理です!命が惜しい!」幸太は這う這うの体で暖簾をくぐり抜けた。

廊下の奥からまた顔を覗かせた。「あ、週末のおばあ様の療養院、俺行けへん!」

足音が消えるのを待ち、悠斗は暗号化された回線にダイヤルした。「高橋慎也の全情報を…」視線はガラス越しに、バス停で時刻表を見つめる玲奈に注がれていた。119系統のバスがその姿を飲み込むまで、血に染まった指を動かすことはなかった。


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