高橋慎也は険しい表情で料亭を飛び出し、小林玲奈の手首を掴んだ。「玲奈、誰が行っていいと言った?」
玲奈は眉をひそめて振りほどいた。「離して」
「新しい彼氏に見られたくないのか?」慎也の嘲笑には毒が滲んでいた。「伊藤幸太は俺みたいなバカじゃないぞ。お前に弄ばれるような相手じゃない」
玲奈の視線が彼の喉仏を掠めた。「あんたに関係あること?」
「関係ないわけがないだろ。元彼なんだからな」
「元彼?」玲奈の口元に嘲笑が浮かんだ。「私たち、いつ付き合ったっけ?」
慎也の瞳が一瞬で細まった。月見クラブのあの夜、「うるさい、別れよう」という酔った言葉が耳朶に蘇る。
「伊藤家の裏には関西の筋がつながってる」彼の喉仏が動いた。「死にたくなければ、あいつから離れろ」
玲奈は静かに彼を見つめた。本当に滑稽だ。あの頃は悠斗に似ていると思っていたのに、今では面影すらない。
「高橋慎也、終わったのよ。あれはあなたが宣言したこと」
鈴木絵麻の下駄の音が近づいてきた。
慎也は突然、お見合い相手を引き寄せた。「紹介する、絵麻、俺の彼女だ」しかし、その目線は玲奈の顔に釘付けだった。
ひび割れもない。微動だにしない。
「本当に…不愉快だわ」玲奈の細いヒールが庭石を蹴散らして去っていった。
慎也は絵麻の手を離した。「自分で帰れ」
「明日の映画…」
「用事がある」GTRのエンジンが料亭前で轟音をあげた。
車内で「不愉快だわ」という言葉が神経を切り刻む。あの女…本当に終わりにする気か?
携帯が光り、藤原美咲からの着信が表示された。
「慎也様…お願いします」すすり泣く声が蜘蛛の糸のように絡みつく。「玲奈様の前で失態を演じてしまって、私が悪かったんです…」
玲奈は決してそんな甘ったるい声で泣かなかった。彼女の涙はいつだって静かだった。
「これからおとなしくするか?」
「はい!人形のようにおとなしくします!」
「なら別れない」
海音亭二階の展望席。
鈴木悠斗のウイスキーグラスが街の灯りを映していた。「あの小僧、玲奈と何の関係だ?」
伊藤幸太の関西弁が震えた。「怒らないで聞いてくれよな」
「言え」
「玲奈ちゃんと慎也様が、もしかして…」
ドン!
切子のグラスが檜のテーブルで星のように砕けた。血が悠斗の指の間から滴り落ち、懐紙を朱に染めた。
「続けろ」悠斗は白い麻の布で傷を押さえた。布端の梅家紋が血の色に滲んだ。
「無理です!命が惜しい!」幸太は這う這うの体で暖簾をくぐり抜けた。
廊下の奥からまた顔を覗かせた。「あ、週末のおばあ様の療養院、俺行けへん!」
足音が消えるのを待ち、悠斗は暗号化された回線にダイヤルした。「高橋慎也の全情報を…」視線はガラス越しに、バス停で時刻表を見つめる玲奈に注がれていた。119系統のバスがその姿を飲み込むまで、血に染まった指を動かすことはなかった。