週末、小林玲奈は病院へ父親を見舞いに行った。
病室の前まで来ると、一行が担架を押して出てくるのが見えた。玲奈は慌てて行く手を遮った。「何してるの?父をどこへ連れて行くの?」
先頭にいた中年の男性――佐藤マネージャー(恵子の補佐)が彼女を見つけ、足を止めた。「小林さん、社長を青松園へお移しするんです」
「青松園?」玲奈は信じられなかった。「父はここでちゃんと診てもらってるのに、なぜ療養院なんかに?」あの施設は設備もスタッフの質も悪く、送られることは死を待つに等しかった。
「社長(ケイコ)のご指示です。ご質問があれば、直接お問い合わせください」
玲奈は全身が硬直した。母がここまで冷徹だとは思わなかった。二十年来連れ添った夫ではないか。華やかな半生を送った父が、今は無言で横たわり、翻弄されている。幼い頃から十数年に渡って自分を可愛がってくれた男の、哀れで情けない姿に胸が痛んだ。それでも、玲奈は見て見ぬふりはできなかった。
玲奈は病院を後にし、タクシーで小林家へ向かった。
玄関先に立ち、インターホンを押しても応答がない。暗証番号を入力するとエラー表示が出る。眉をひそめた。六年前にケイコと大喧嘩して家を出て以来、戻ったことはなかった。番号まで変えられていたのか。
買い物袋を提げて車から降りた家政婦が、彼女を訝しげに見た。「お嬢様?」
玲奈が振り向き、うなずいた。「ええ、久しぶりで暗証番号を忘れちゃって」
家政婦の中村さんはすぐさま駆け寄り、ドアを開けた。
玲奈が家の中へ一歩踏み入れ、さっと見渡したが、人影はない。中村さんが口を開いた。「奥様は若様とお出かけですよ」その口調には気まずさが滲んでいた。
「ありがとう」玲奈は気に留める様子もなく、そのままソファに腰を下ろした。「待つわ」
中村さんは買い物袋をキッチンへ運びながら、時折リビングを気遣うように見て、ため息をついた後、忍びないように言った。「お嬢様…これから、お家に…お戻りになるんですか?」
玲奈が答えないうちに、玄関でドアが開く音がした。
次の瞬間、弾んだ少年の声が響いた。「お母さん!次は限定版のスニーカー買ってよ!高くないよ、百万ちょっとだし!」
弟の知樹だ。
ケイコが甘やかすように応じた。「はいはい、トモキが欲しいって言うなら買いましょう」
「やった!お母さんありがとう!やっぱりお母さんが一番だよ!」
「あなたは私の息子なんだから、私のものは全部あなたのものよ。あなたを可愛がらずに誰を可愛がるっていうの」
「お母さん大好き!」知樹はケイコの腕を抱き、甘えていた。
玲奈はそれを静かに見つめ、驚きはしなかった。小さい頃からケイコは、玲奈を男の子より可愛がるほどで、玲奈の方が弟に申し訳なく思っていたものだ。父に事故が起こり、会社の舵取りがケイコの肩にかかってから、急に玲奈への態度が冷たくなった。今にして思えば、全ては見せかけだったのだ。
ケイコが玲奈を見つけると、一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに取り繕った。「レイ?どうしたの?」
玲奈が立ち上がろうとしたその時、知樹が既に興奮して駆け寄り、大きなハグをしてきた。「姉ちゃん!やっと帰ってきたんだね!寂しかったよ!」
玲奈は呆気にとられ、抱きつかれたままだった。公平に言って、姉弟の仲は悪くなかった。この数年家には帰っていなかったが、こっそり会うことはあった。彼女は知樹の頭を揉みながら言った。「もうすぐ十八歳なのにそんなことして、恥ずかしくないの?」
知樹は全く意に介さない様子で、「姉ちゃんに甘えるの何が悪いの?ねぇ姉ちゃん、今度は家に住んでよ!」
ケイコがさりげなく口を挟んだ。「いい加減にしなさい、トモキ。買ったもの部屋に上げてちょうだい。お姉ちゃんとお話しするから」
知樹は買ったばかりの品物を姉に見せようとしたが、母の視線に制されて、しょんぼりと袋を提げて二階へ上がっていった。
ケイコは笑顔を浮かべて近づき、キッチンに向かって言った。「中村さん、御果園で買った葡萄を洗ってちょうだい」そう言うと玲奈の隣に座り、日常の些細な話題を振った。「どう?高橋家の方とは話はついた?」慈母のように玲奈の手を取ろうとした。
玲奈はさりげなくそれを避けた。
ケイコは傷ついたような表情を見せた。「レイ…まだお母さんのこと、恨んでるの?」
玲奈は話題をそらした。「お母さん、病院に行ってきたの」
ケイコは言葉を詰まらせ、玲奈の言いたいことを察したようだった。「私もどうしようもないのよ…会社の業績が思わしくなくて…トモキも来年大学受験、お金がかかる所ばかりで…」
「だからって父さんを青松で死なせようとするの?」
「他にどうしろっていうの?女一人でこの家を支えるのが楽だと思う?」ケイコは玲奈の手を握った。「お父さんはトモキを可愛がってた。私の気持ちも分かってくれるはずよ。家計は本当にもう彼の医療費を賄いきれないの」
玲奈の顔には動きがなかったが、心の中ではすべてを見透かしていた。お金がない?知樹が提げていた袋は、どれも六桁以上のブランド品ばかりだ。父が気の毒でならなかった。記憶の中では両親の仲はとても良く、長年愛し合ってきたはずだ。なぜ、たった十数年でケイコは連れ合いの生死さえ顧みられなくなったのか?愛情にも賞味期限があるのだろうか?もし父が意識を回復したら、何を思うだろう。
中村さんが洗った葡萄を持ってきた。ケイコはそれを玲奈に勧めた。「レイ、食べて。あなたが一番好きだった葡萄よ、覚えてるでしょ?」
玲奈は黙って首を振った。
ケイコは気まずそうに葡萄の入った皿を戻し、話題を変えた。「夕飯はシーフードにしたんだけど、一緒に食べていく?家族で久しぶりに食卓囲まない?」
結局、玲奈は残らなかった。立ち去り際、彼女は言った。「お母さんが父さんを見捨てるのは勝手だけど、私はできない。それと…葡萄は好きじゃないし、シーフードはアレルギーなの」
小林家を出て、玲奈はスマホを取り出し、高橋夫人の番号を探し、メッセージを打った。【高橋様、お話の件、承諾いたします。】既読が表示された後、携帯をしまった。
「レイ?レイなの?」懐かしい声が背後から聞こえた。
玲奈が振り向くと、悠斗の祖母が立っていた。鼻の奥がつんとした。「はい」
おばあさまは熱心に彼女の手を取った。「四、五年ぶりだねぇ、もう目が霞んじゃったかと思ったよ」
玲奈は首を振った。
「まだご飯食べてないでしょ?さあ、うちにおいで」玲奈は断ろうと思ったが、長年会っていなかったことを思い、承諾した。
「ユウト!見てごらん、誰が来たか!」家に入るなり、おばあさまはリビングに向かって声を張り上げた。
玲奈の心が沈んだ。悠斗がいた。穴があったら入りたいほど気まずかった。彼がいるなら、来なければよかった。
悠斗が近づき、おばあさまの買い物かごを受け取った。「買い物は俺が行くって言ったのに、無理しちゃだめだよ」
「あんたに新鮮なものが選べるわけないでしょ?」
「分からなきゃ渡辺さんと一緒に市場に行けばいいじゃないか。おばあちゃんが自分で足を運ぶことないのに」渡辺さんは、おばあさまを二十年以上世話してきた住み込みの家政婦で、玲奈もよく知っていた。
玲奈は玄関に立って二人のやり取りを見ていた。確かに、この数年で悠斗は随分変わった。
「玲奈?どうした?ぼーっとして」悠斗が近づくと、下駄箱からピンクのスリッパを取り出し、彼女の前に置いた――彼女が六年前に履いていたのと同じものだった。悠斗のは青だった。
おばあさまがにっこり笑った。「お嬢さん、誰だか分からないの?ユウトお兄さんだよ、学生の頃いつも後ろをついて回ってたじゃない、忘れちゃったの?」
玲奈は気まずそうに言った。「ううん…忘れてないよ」
「忘れてないならいいのさ!さあさあ入って!何年ぶりかだもの、今日はおばあちゃんが腕によりをかけて料理するからね!」玲奈の表情が固まった。おばあさまの手料理を食べて病院送りになった当時のことは、今でも覚えていた。悠斗も明らかに覚えているようだった。
彼は慌てて口を挟んだ。「おばあちゃん、落ち着いて座っててよ。俺がやる」
おばあさまは怪訝そうな顔をした。「あんた、料理できるの?」
「うん、海外では基本的に自炊してたから」
「まあ、成長したのね!」おばあさまは満足げに玲奈の手を取った。「玲奈、おばあちゃんとお話ししててちょうだい。あのガキに料理させてやろう、あんたの作るものなんて一度も食べたことないんだから」
玲奈が断る間もなく、おばあさまにリビングへ引っ張られてしまった。おばあさまは玲奈がとても好きで、あれこれ尋ねた。「玲奈、この数年は元気だった?勉強は大変じゃなかった?」
玲奈は鼻の奥がつんとし、おばあさまの手を握り返して笑った。「はい、元気でした。もうすぐ卒業です。大丈夫です」
「将来は何をするか、もう決めたの?」玲奈は首を振った。この数年はなんとなく過ごし、未来に対して何の期待も抱いていなかった。
おばあさまは気の毒そうにため息をついた。「お父さんのことは聞いたわ。深く考えすぎちゃだめよ、あなたのせいじゃないんだから」玲奈はうつむいてうなずいた。
おばあさまは彼女がその話題を避けたいと察したようで、話を変えた。「そうそう、今は鈴木様(ユウト)が戻ってきてるんだから、仕事のことなら相談してみたらいいわよ。力になってくれるはずよ」
玲奈は思わずキッチンを見た。悠斗がチェックのエプロンをかけ、コンロの前で食材を手際よく扱っていた。どこか生活感が漂っていた。
次の瞬間、悠斗が突然振り向いた。
玲奈は不意に彼の視線を捉え、気後れしてうつむいた。
「小林、ちょっと来てくれないか」悠斗の声が聞こえた。