目を覚ますと、空が近かった。
草の匂いが鼻をくすぐり、風が頬を撫でていく。頭の奥が、じんじんと重い。どこかで鳥のような鳴き声がしていたが、聞いたことのない響きだった。
(え……?)
重たいまぶたをこじ開けると、見慣れない空の色。見慣れない木々。肌に感じる日差しの強さも、どこか異質だ。
(夢……? じゃないよね)
ゆっくりと体を起こす。そして気づく。鞄がそばにある。中身は……記録ノート、観察具、行動食、簡易フィルター──
フィールド調査用の装備だ。
「え、なにこれ……ほんとに、異世界転移……?」
ぽつりと漏らした自分の声に、妙に現実感があった。どこかで聞いたような、けれど異質な言語が、風に混じって耳にすっと入り込んでくる。
(なにこれ……え、本当に? )
胸がざわつく。でも、それでも。
頭のどこか、訓練された“学者の部分”が冷静に手順を思い出していた。
転移初期マニュアル──身の安全確保、水、食料の確保。次に知的生命体との接触、調査対象の探索。
(……やるしか、ないか)
震える手で鞄を背負い直す。少し足がふらついたけど、なんとか踏み出した。
「……とりあえず、フィールドワーク開始」
声が上ずっているのが、自分でもわかった。
村にたどり着いたのは、転移から三日後だった。
ハナアカの村──と呼ばれるこの場所で、私は保護されていた。
石造りの簡素な建物、粗布の衣服、狩猟中心の生活。生活水準は中世程度。ただし、言語は……なぜか理解できた。異世界補正という便利な現象らしい。
村人たちは親切だった。だが、明らかに私を「外から来た特別な者」として扱っていた。これはフィールドワークとしては好都合だが、警戒も必要だ。
「あなたが、学者という方か」
村の中心にある集会所で、彼は現れた。
長い黒髪を後ろで束ね、落ち着いた瞳を持つ少年──いや、青年。だが、彼の存在感には風格があった。
「私はアトル。この村の族長だ」
(若っ……!)
見た目は十七、十八といったところだろうか。それでも村人たちは皆、彼に深い敬意を向けている。
「私はサキと申します。文化人類学者です。異なる文化の記録と理解が、私たちの世界ではとても大切でして」
礼を述べると、アトルは真面目に頷いた。
「それならば、ちょうど良い。今宵、この村では“祝福の儀”が行われる」
「祝福の儀……ですか?」
「この果実を半分に割り、互いに与え合う。それが祝福の印だ」
そう言って彼が差し出したのは、赤く熟れた果実だった。
「なるほど……祝福の儀式ですね」
「……うむ。神の加護を得る、大切な儀式だ」
アトルの言葉に、私は頷いた。
「その儀式、ぜひ見学させていただけませんか?」
「見学、か」
一瞬、彼は躊躇ったようだったが、すぐに静かに頷いた。
「再現という形になるが、それでも良いのならば」
「もちろん、記録用に。実演をお願いできますか?」
「……我でよければ」
焚き火が、赤々と燃えていた。その周囲を囲むように、村人たちが座している。
中央には、祭壇。私とアトルが立っていた。
(まさか、私が演者になるとは……でも貴重な資料だし!)
彼は無言で果実を取り出し、銀の小刀で真っ二つに割った。
「我より、祝福を」
差し出された半分を両手で受け取り、私も同じようにアトルに返す。
その瞬間──空気がピリッと震えた。
「……!」
光。柔らかな金の光が、私たちを包む。
「神の加護が……!」
「結ばれた……!」
村人たちの歓声。太鼓の音。どこからか花びらまで舞い始めている。
「ちょ、ちょっと待って!? なんで拍手!? なんで花!?」
腕を見ると、金色の紋章が浮かび上がっていた。アトルの手の甲にも、同じ模様が。
彼は静かに言った。
「これより、汝は我が妻。神と民が見守る中、契りは成された」
「…………はあああああっ!?」
その夜。簡素な寝所に案内された私は、混乱のまま彼に問い詰めていた。
「いやいやいや! これは祝福の“再現”儀式だったんじゃ……?」
「“再現”とは、伝統に則った形式で行うという意味だ」
「じゃあ、あれは……」
「正式な婚姻儀式だ。何か問題が?」
「問題だらけだよ!!」
アトルは困ったように眉を下げた。
「我は、汝が望まぬならば、形式上の妻でも構わぬ。だが……我は、お前を守る」
「ちょ、ちょっと待って……」
顔が熱くなっていくのを自覚する。
私、ただ文化を記録しに来ただけなんですけど!?
(どうして、私……結婚してるの!?)