翌朝。私は寝ぼけた頭を抱えながら、村の広場にいた。
宿舎から出てくるなり、すれ違う村人が皆、こう言ってくるのだ。
「おはようございます、奥さま!」
「おめでとうございます! ほんと、光すごかったですね~!」
「いやぁ、祝福の儀なんて何年ぶりかなあ。長老まで泣いてたもんねぇ」
違う。そうじゃない。何かがおかしい。
これはただの文化調査のはずだった。私は観察者で、当事者になるつもりなんて──
「……おかしいのは、あんたの思い込みだよ」
ぼそりと耳元で声がした。振り返ると、昨日も見かけた老婆が立っていた。
「アレは、神様が二人を祝福したって証拠だよ。あんなに強い光が出るのは、本物の契りの時だけさ」
「でも私、文化を記録するつもりで……その、正式な同意とか、婚姻届とか、ないですよね?(たぶん)」
「何言ってんだい。ここじゃ神の印が出たら、それで十分なんだよ。形式より、神の加護が大事なの」
老婆はにっこりと笑ったが、その目は妙に澄んでいた。まるで「あなた、わかってないねぇ」と言われているようで。
(え、これ、本当に……マジで、結婚してるやつ?)
私は頭を抱え、うめいた。
「だれか、私の立場に文化的誤解があるって気づいてぇ……!」
「サキ、こちらです」
そう声をかけてきたのは、例の夫──じゃなかった、アトルだ。
「村の掟で、新しく夫婦になった者は、共に“村の仕事”を経験する決まりです」
「へ、へぇ……そりゃあ、素晴らしい文化ですねぇ」
顔が引きつるのを必死に誤魔化しながら返すと、アトルは当然のように隣を歩き出す。
「今日は畑の手伝いです。といっても、水を撒くだけですので、心配なく」
「なるほど……共同労働。つまり生活共同体としての婚姻の意味づけですね。はいはい、記録記録……」
私が自分のノートを開いて書き留めていると、周囲の村人がちらちらと私たちを見ていた。
中にはくすっと笑っている者もいる。え、なに? 何か変なことしてる? 服、裏返しとか?
「奥さん、旦那様にお弁当持たせた?」
「んっ、べっ……べんとっ!?」
思わずノートを取り落としそうになる。
「新婚さんは、みんな作るのよ。あたしのときも、夫に焼き芋をこっそり入れて怒られたっけ」
「あのっ、私そういうの、ちょっと! 異文化なのでまだ把握が──!」
「いやあ、初々しいなあ」
「アトル様も、ちょっと赤くなってるぞ?」
「ち、違う。焼けただけだ」
わー! 待って! ツッコミどころ多すぎて処理しきれない!
(──これ、普通の異世界文化恋愛ものって、こういうのが日常になるの?)
(ていうか、私、本気で“結婚してる”前提で動かされてない?)
──でも。
アトルの横顔を見ると、彼がただ真面目に、誠実に文化を守っているのがわかる。
彼にとっては、これが「正しい結婚の形」なのだ。何の嘘もなく、ただ当たり前のこととして受け入れている。
そのことだけは、なんだか……少しだけ、胸にひっかかった。
畑は、村の東端に広がっていた。
乾いた赤土の上に、緑の苗が規則正しく並んでいる。すでに多くの村人が作業していたが、私とアトルは二人で一角を任された。
「この木の根元にある水瓶から、交互に水を汲んで、苗の根本に注いでいきます」
「了解。畑灌漑儀式……じゃない、作業ですね!」
私はバケツを手に取り、重さにふらつきながら歩き出す。
「うわっ……結構重っ……!」
「サキ、大丈夫ですか?」
「だい、じょ、ぶ! 日常生活だもんねこれ! うちのフィールドワークは体力勝負だし!」
見栄を張ってみたが、足元がよろけ、危うく苗を踏みかけた。
その瞬間、アトルの手が、私の腕をしっかりと支えた。
「……っ!」
「無理はするな。お前は来たばかりだ」
「いや、だけど……」
「我の妻に、怪我をさせたくない。それだけだ」
さらっと、当然のように言うものだから困る。
“妻”って、やっぱりその前提で動くのね!? 私が何を言っても、もうその認識なのね!?
──でも、その言葉の奥にある真剣さだけは、なぜか嘘に聞こえなかった。
作業は、だんだん慣れてきた。
アトルは最初こそ黙っていたが、水の量や苗の扱い方など、丁寧に説明してくれた。
「この野菜は“メェル”と呼ばれていて、汁にして食べると風邪に効くと言われている」
「へえ、じゃあ薬草的な扱い?」
「……薬草、とは?」
「えっと、つまり、体の調子を整える植物の総称で──」
「なるほど。お前の知識は、我らの言葉と少しずつ違うのだな」
静かにそう言われて、はっとした。
そうだ。これは、私にとっては「異文化」だけれど、彼らにとっては「日常」なのだ。
私の常識が通じないのは当然。むしろ、それを記録しに来たはずだった。
なのに──私、最初から“理解したつもり”になってたのかもしれない。
「アトルって、昔から族長だったの?」
「いや。先代が亡くなってすぐ、神託によって選ばれた。十六の時だった」
「十六……! それはまた、若いリーダーだね」
「皆が支えてくれている。だが、期待に応えられているかは、分からない」
ぽつりと漏れたその声に、彼の素顔が見えた気がした。
「今も、少し怖い。だが……隣にお前がいるなら、大丈夫だと思える」
「えっ」
思わず、目が合った。
あの落ち着いた瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
思わずバケツを落としかけたのは、言うまでもない。
──この人、真面目すぎる。
でも、嘘をついてないのが分かってしまうから、こっちの心がズルズル引っ張られる。
文化調査って、こんなに感情を揺さぶられるものでしたっけ……?
日が落ちたころ、私は寝所に戻った。
簡素な木の壁、干し草を敷いた床、そして――隣には当然のように、もうひとつの寝具がある。
アトルは、まだ村の会議に呼ばれているらしく戻っていなかった。
そのことに、なぜかほっとしたのが、少しだけ悔しかった。
(私は調査員。文化を観察し、記録する立場。……なのに)
私は荷袋から、大事なノートを取り出す。
転移してすぐに手にした、布張りの調査ノート。そこには、ハナアカ村の文化に関する情報がびっしりと書き込まれていた。
【祝福の儀について】
・果実を半分に割り、互いに与え合う儀式
・神の加護を得る象徴
・“再現”という言葉から、模倣・演出的な意味合いか
→祭事的性格が強く、形式的イベントと考えられる?
そこまで読んで、私は思わず顔をしかめた。
(違う。全然違う……)
“模倣”なんて、とんでもない誤解だ。
村人たちの目は本気だった。アトルの所作にも、迷いはなかった。
あれは彼らにとって、伝統であり、誓いであり、信仰そのものだった。
“再現”という言葉を、私は勝手に都合のいいように解釈しただけだった。
「私……ただ、文化を都合よく切り取ってたんだ」
理解したふりをして、記録という名の枠に押し込めて。
それは“学者”としては、最もやってはいけない態度だった。
ふと、昼間のアトルの言葉を思い出す。
『我の妻に、怪我をさせたくない。それだけだ』
『お前が隣にいるなら、大丈夫だと思える』
──真っ直ぐすぎて、まぶしい人だ。
私がぐるぐると難しい言葉で考えている間、彼は最初から自分の文化も感情も、まっすぐ差し出してくれていた。
(私の方こそ、ちゃんとこの文化と向き合えてなかった)
(もう一度、やり直さないと……今度は、“当事者”として)
私はノートの端に、ペンでこう書き足した。
【訂正】
→この儀式は「模倣」ではない。
→参加者は演者ではなく、誓約者。
→文化とは、外側から眺めるものではなく、ともに過ごしてこそ理解が始まる。
「……よし」
ページを閉じると、不思議と胸がすっきりしていた。
それはきっと、“研究者”としてより、“一人の人間”として、大事なことを思い出せたからだろう。