「ふむ。どうやら、わらわの力が通ったようじゃな」
耳元ではなく、脳に直接響いていたあの声が、今は自然に空気を振動させていた。視界の片隅、ビルの陰に腰かけていた少女の姿が、霞が晴れるようにはっきりと浮かび上がってくる。
翡翠色の長い髪。その毛先に、光を散らす飾り玉が揺れている。
少女は組んだ足をぶらぶらと揺らしながら、片目だけで陽葵を見上げた。
「見えるようになったじゃろ? それが“忍び”の最初のスキル、《千視〈せんし〉》の証。もはや液晶越しでなくとも、わらわを視ることが叶う」
陽葵は自分の手のひらを見つめた。感覚が、何かが、さっきと違う。
「……なんか、変な感じ。でも、動ける。ていうか、体が軽い……」
「ふふん、そうじゃとも。身体の反応は、そなたの意志とは別に整っていく。忍びとはすなわち“気配に従う者”。自らを律するよりも、自然と動くよう仕向けるのじゃ。あんずるな」
少女――しんじゅは、ふわりと立ち上がった。
その袖から、小さな小包のようなものを三つ取り出すと、陽葵の足元に置く。
「さあ、“陽葵”よ。これは、わらわからの最初の贈り物。かつて、そなたの祖が携えていた“地縁三具〈ちえんさんぐ〉”の再現品じゃ」
陽葵は思わずしゃがみこみ、三つの異なる質感と重みのアイテムを手に取った。
《黒曜刃〈こくようじん〉・朧(おぼろ)》
それは、漆黒の小刀だった。刃文に似た霧状の文様が、刀身の内側から揺らめいているように見える。
「……なんか、えっちいぐらい綺麗」
「なんじゃ、その感想は。それは攻撃の具。刺せば相手の内側を腐らせ、刃に宿る呪が防御を破る。そして投げれば、影が分かれて相手を惑わせる。忍びに最も適した刃じゃ」
《真珠煙玉〈しんじゅえんだま〉・霞珠(かすみだま)》
陽葵の指先に、虹色の光が微かに瞬いた。珠の中で、白いもやがふわふわと漂っている。
「デバフ系ってやつね。うちわけの霧……これは?」
「記憶も、方向も、反応も曖昧にする“記憶の霧”。一投すれば敵は迷い、術者の思考さえ乱す。逃げにも、隠れにも、有用ぞ」
《霊泉極湯〈れいせんごくとう〉》
最後のひとつは、冷たい瓶。握ると中の液体が微かに光を放った。
「これは……薬?」
「癒しの具じゃ。一滴で四肢の再生も、呪の祓いも成し遂げる。これぞわらわの癒力を凝縮した宝。下手な医療より効くぞ」
陽葵は三つを胸元に抱えながら、小さくつぶやいた。
「……ゲームだったら、これSSR装備とかレア枠なんじゃ?」
「その通り。三つそろえると、忍びは“地の化身”となる。そなたの戦いは、ここから始まるのじゃ」
しんじゅの視線が、まっすぐ鹿児島市庁舎の方角を向いた。
その双眸には、土地の記憶と未来を背負う者の覚悟があった。
「さあ、陽葵。わらわの愛し子よ。行け。まつろわぬものが、そなたを待っておる」
陽葵は、深く息を吸い込み、スマホの録画を止めた。
背中にしんじゅの声が、静かに重なった。
「もし自分の力を知りたくば、自撮りして視るがよい。あるいは、スキル《観察解析》を自らに使うことじゃ。忍びは、まず己を知る」
陽葵はうなずいた。
「……なんか、めっちゃ変なことになってきたんだけど」
けれど、胸の奥で何かがざわめいていた。
ずっと眠っていた何かが、音を立てて目覚めるように。
「行ってくるよ、しんじゅさま」
吹上しんじゅは、くすりと笑った。
「うむ。いってくるがよい、陽葵。今日からそなたは、“異界を歩む者”じゃ」