鹿児島市庁舎へ向かう足取りは、見た目以上に重たかった。
ただでさえスマホで半分バズってる状態なのに、途中すれ違った中学生くらいの子に「さっきの動画の人じゃね?」と小声で言われ、背筋が凍る思いだった。
(や、やば……普通に気づかれてる……ていうか、なんで私がこんな……)
道ゆく人の視線が、自分に刺さってくるような気がしてならない。
「気のせい」
「考えすぎ」
そう思いたくても、スマホを向けてくる人、撮るフリしてる人、明らかに探してる目線。
──全部、わかる。
顔を上げるのもつらくなって、私はそっとスマホを握りしめた。
「……スキル、使えるのかな、こういう時」
私はそっと、胸の内で唱えるように呟いた。
【霧歩】【隠密】
意識を切り替えるように、呼吸をゆっくりと落とす。
すると、風景がほんの少し、変わった気がした。
──世界が一歩、自分から距離を置いた。
足音がふっと消え、コートのすそが風と同化していくような感覚。
視線が、すり抜けていく。誰も私を“注視”しない。
なんという初体験!
「う、わ……これ、効いてる……!?」
あからさまに隠れているわけでもない。
なのに、人混みの中に溶け込んで、誰の記憶にも引っかからない。
それが“忍び”というクラスの初歩的なスキルの力だった。
──私、ほんとに……異能力者になっちゃったんだ。
嬉しいとか怖いとかよりも、ただただ、信じられなかった。
でもその力に、今の私は、心底救われていた。
息を潜めながら、人の波をすり抜け、ゆっくりと市庁舎へ近づいていく。
スキルを使いながらの移動は息が詰まりそうで、喉も乾いた。
けれど──ようやく辿り着いた。
鹿児島市庁舎。
そこはすでに周囲が警察によって封鎖されていて、報道陣や野次馬が遠巻きに騒いでいた。
しかしその建物は、明らかに“歪んで”いた。
黒い靄が屋上から垂れ、空気がひび割れているような奇妙な揺らぎがある。
けれど、封鎖線の向こうに立っている警官も、レポーターも、まるでそれが見えていないかのように話していた。
(あれが……ダンジョン……?)
その瞬間、しんじゅの声がふっと頭の中に滑り込んできた。
「よくぞ来た、陽葵。そこがそなたの“初手”じゃ」
私は唾を飲み込み、スマホをポケットに押し込み直した。
誰にも見つからずにここまで来られたのは、たしかにスキルのおかげだった。
でも──この先は、きっと、スキルだけじゃ足りない。
「……行くしか、ないよね」
私はゆっくりと封鎖線のすき間へと歩みを進めた。
その足取りは静かで、誰の目にも映らなかった。
まるで、最初から“そこに存在していない”かのように。
封鎖線のすき間をすり抜けた時、足元のアスファルトが一瞬だけ粘つくような感触を持った。
あれはたぶん、結界の“膜”だったんだと思う。
現実と異界の境界線。誰にも見えない、でも確かにそこにある“線”。
建物に入った瞬間、空気が変わった。
湿気と鉄と、何か生臭いにおいが混ざり合った空間。
だけど、天井の照明は普通に点いていて、自販機すら稼働していた。
「……え?」
私は恐る恐るロビーの奥を覗いたが、そこには誰の姿もなかった。
モンスターも、魔物も、生存者も──
しんじゅが言っていた「魔窟」というイメージには程遠く、ただの静まり返った市庁舎。
「なんなの……ほんとにダンジョン? これ」
でも、その違和感がじわじわと染みてくる。
廊下はきれいすぎるほど整っていて、非常ベルも鳴っていない。
非常口の案内板もそのまま、書類の散乱もない。
けれど、音がない。匂いだけが異常だ。
そして──聞こえた。
奥の階段のほうから、くぐもった呻き声。
「……っ……!」
私は思わず立ち止まり、身を低くした。
【隠密】【霧歩】を重ねて発動する。
音を殺し、空気をすり抜けるように、そっと階段を覗き込む。
その時だった。
ぬちゃ。ぐちゅ。べちゃ……。
それはまるで、素手でハンバーグをこねるような音だった。
その音に混ざって、「あ……ああ……う……」という人の声──かすれた、弱々しい悲鳴が混ざる。
私は反射的に口元を押さえた。
──階段の踊り場で、ゾンビが何体も群がっていた。
スーツ姿の男性が床に倒れ、その身体を囲むように4体ほどのゾンビ。
その顔は崩れ、皮膚が破れ、目は濁っていた。
ぐちゃぐちゃと、彼らはその男を「変えて」いた。
──それが、“まつろわぬもの”だ。
(うそ……こんなの……)
遠目に見ている分には、バレる気配はない。
息を殺せば、視線すら抜けていくこのスキル。
でも。
そのときだった。
──別の階段から、音もなく現れた一体のゾンビが、私のすぐ横を通った。
目の前を、腐りかけた顔がすっと横切る。
思わず、声が出た。
「っ……ひっ!」
それは、本当に小さな声だった。
でも、それで十分だった。
「──ァ……ア……」
ゾンビの濁った眼球が、私に向けられた。
視線が、重なった。
(やばい)
とっさに【隠密】を再発動し、【霧歩】を重ねた。
心臓が暴れていた。息が苦しい。手が震える。
でも足は、勝手に動いていた。
走った。意識せず【俊足】が発動していたがそれどころではない。
廊下を、階段を、ロビーへ。
ゾンビたちの足音が、鈍く、しかし確実に後ろから響いてくる。
走って、転んで、転がりながら──外へ飛び出した。
地面に手をついて、咳き込みながら息を吐いた。
全身から汗が噴き出している。
「──っ、はぁ……は、あ……」
心臓の音がうるさい。体が震えて止まらない。
でも、なんとか、生きてる。
そう思った瞬間、ふっと空気が変わった。
「……あれ? なんか……視線……?」
気を抜いた瞬間、【隠密】が切れていたらしい。
私は市庁舎の前、封鎖線の内側に、丸見えの状態で倒れていた。
「──あの子、いつ入った!?」
「ちょっと、囲め!」
警察の怒号と、複数の足音。
次の瞬間には、私は何人もの警官に取り囲まれ、両脇を抱えられていた。
「ちょ、ちょっと待って、わたし、あの……!」
「大丈夫ですから。いま捜査本部に案内します。医療班! 怪我の確認!」
「いや、ちが……って、あああああああもう……!!」
そのまま、私は捜査本部らしき大型テントへと連れていかれた。