(し、死んだふりをしよ)
猫がどんな存在かわからない。
野生の虎と同じなら、僕はおいしく食べる対象だ。
いくら魔導具で守られているとはいえ、刺激しないに越したことはない。
(熊には死んだふりは通じないらしいけど……)
基本的に野生動物は死因不明の死体を食べないと聞く。
死因が病気なら、自分や仲間にうつるかもしれないからだ。
それに死因が毒でも危ない。
自然界には生物由来の毒や、鉱毒などがある。
どちらにしろ、毒で死んだ動物を食べれば、自分もただではすまないかもしれない。
(めちゃくちゃみてる……)
死んだふりをしながら薄目で見ると、猫はじいっと僕を見つめていた。
そして、右前足を僕の方へとゆっくりと伸ばしてくる。
肉球も爪もでかい。
怖いが大丈夫。魔導具はとても強力なのだ。
猫の前足は、魔導具が展開する結界に触れてぼよんと跳ね返されている。
(さすが母様の魔導具! ありがと!)
僕に触れることができなければ、猫も諦めるだろう。
「んにゃ~ご?」
猫は前足でぐにぐにと結界を揉むようにする。
よほど僕がおいしそうに見えるのか諦めきれないようだ。
猫は首をかしげて、まるで悩んでいるかのような表情を浮かベながら、結界をもみもみする。
(だが、残念だったな! この結界は竜でもやぶれないと――)
――バリン
突如、ガラスが割れるような音がして、結界が砕けた。
同時にひんやりとした冷たい空気と卵が腐ったような臭いが流れ込んでくる。
きっと、さっきまで猫が戦っていたヘドロっぽい化け物の悪臭だろう。
「はうわ!」
驚きすぎて死んだふりをしていたのに、つい大声を出してしまった。
竜でも破れない結界だったはずなのに!
もしかしたら、母は悪徳商人にだまされたのかもしれない。
男爵は平民に毛の生えたようなものだから、舐められたのだろう。
優しい母をだますなんて、許すことはできぬ。
いつか成敗してやりたいが、今を生き延びることの方が大事だ。
「にょにゃあああ!(のえるはうまくない!) きしゃー!(きしゃー!)」
精一杯アピールして、同時に威嚇しておいた。
猫は一瞬びくりとしたが、僕を前足でひっくり返すと寝間着の背中部分を口にくわえる。
「にゃああ!(はなせ!)」
「……」
暴れても猫には意味が無かった。
猫は一言も鳴かず、物音も立てず、静かに僕を運んでいく。
きっと巣に持ち帰って、おいしくいただく気なのだろう。
前世知識やずば抜けた魔法の才能で無双するはずが、歩けるまで成長できないとは。
「ふぐぅ(くやしい)」
母様にも会いたい。父様にも兄様にも会いたい。
「うぅ(いきのびたいのに)!」
僕が悔し涙を流している間も猫は淡々と進む。
周囲には地面を這うような松っぽい木や、背の高い茸、密集した粘菌ぽいやつが生えている。
歩きにくそうなのに、猫は平然と進んでいく。
しばらく歩いて、猫は洞窟のなかに入っていく。きっとここが猫の巣なのだろう。
洞窟のなかには刈られた草が小山のように積まれていた。寝床なのかもしれない。
洞窟の中に入った猫は、草の上に僕を置くと「にゃああご」と鳴いた。
「きゅうきゅう」
すると、草の下から小さな動物が一匹出てきた。
僕より小さい。子猫? いや、犬だ。
生後十日ぐらいの、まだ目が開いていない小さな子犬だ。
猫は子犬の首の後ろを咥えると僕の隣に置いた。
そして、乳首が見えるようにゆっくりとお腹をこちらに向けて横になった。
「きゅうきゅう」
子犬は鳴きながら猫のお乳に吸い付いた。とてもおいしそうに飲んでいる。
「ごくり」
「にゃあご(そなたも飲むがよい)」
「はうわ!」
急に猫の言葉の意味がわかるようになった。
さすがは異世界だ。どうやら、この世界の猫は話すらしい。
僕はまだ生後八か月なのでこの世界の常識を知らなくても仕方のないことである。
「にゃあ(人の赤子に与えられるものなど、我の乳ぐらいしかない。飲みたければ飲むがよい)」
「……」
人として猫のお乳を飲んでいいのだろうか。だけどお腹がすいてたまらない。
「にゃ(ここは腐界の奥。人はたやすくは入れぬ。助けが来るとしても直ぐには不可能だ)」
「…………」
父様がすぐに助けてくれると思ったけど、そううまくはいかないらしい。残念だ。
「にゃにゃ(無理にとは言わぬ)」
「りゅ!(いる!) りゃあ!(ありがと!)」
ためらったのは一瞬だった。
母様や、父様、兄様にあいたい。そのためには今を生き延びなければならないのだ。
泥水をすすってでも!
いや、泥水に例えるのは失礼だ。ご厚意でお猫様がくださるのだから。
「ちゃちゃ~!(いただきます!)」
僕は感謝して、子犬の隣で、猫の乳房に吸い付いた。
初めて飲んだ猫のお乳は、とてもおいしかった。
乳を飲む僕を見ながら、猫が言う。
「にゃあごにゃあご(我が名はシルヴァ。この地を守護する聖獣猫である)」
「ちゅうちゅう~(ノエル)」
伝わるとは思わないが、お乳を飲みながら精一杯自己紹介しておいた。