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第3話 父の涙

 日付が変わる頃、エルファレス辺境伯の屋敷の隣で大きな爆発が起こった。

 その対処で兵やノエルの父母が動いていている間にノエル・エルファレスはさらわれたのだ。


 ノエル誘拐に屋敷の者が気づいたのは夜明け前。

 そして、昼前には誘拐犯から要求を書いた手紙が屋敷に届いた。


「何だと? 本気でこの金額を?」


 ノエルの父、オーレル男爵フィリップ・オーレル・エルファレスは驚愕した。


 辺境伯家の年間予算を遥かに超えた額、国家予算の三分の一に達する額だったからだ。


 ノエルの父フィリップは大貴族たる辺境伯の嫡子である。

 そのうえ、ノエルの祖父である辺境伯は王の叔父、つまりフィリップは王の従弟に当たる。


 それでも、身代金の額が高すぎる。


 ちなみにフィリップはオーレル男爵と呼ばれているが、男爵ではない。

 オーレル男爵はノエルの祖父である辺境伯が持つ従属爵位の一つである。


 辺境伯家の法定推定相続人の儀礼称号としてオーレル男爵を名乗っているのだ。


 ノエルは、実家を平民に家が生えたようなものだと考えていたがそんなことはなかった。

 王家に匹敵する権力と財力を持つ大貴族だった。


「男爵閣下、さすがにこの額を用意することは辺境伯家でも……」

「本当にこの額を用意して、ノエルが戻ってくるならば……」


 フィリップはノエルの祖父である辺境伯に頼み込み、領地を売ってでも用意する気はある。


「だが、誘拐犯の真の目的は金ではないだろう」


 もし金が目的なら、もっと現実的な金額を要求するはずだ。

 犯人の目的が金銭ではないのなら、払ってもノエルは帰ってこない。


「すぐに次の要求が来るはずだ」


 フィリップの読み通り、夕方前には誘拐犯からの次の手紙が届いた。

 その内容は辺境伯家だけでは判断できない要求だった。


 事実上、隣国への領土割譲だったからだ。



 次の日。ノエルが住んでいたエルファレス辺境伯の屋敷を、王の侍従長が訪れた。


「男爵閣下。陛下は誘拐犯からの要求は飲めぬと」


 フィリップはギリっと歯をかみしめる。その全身から殺気が一瞬あふれた。

 その回答は、フィリップも予想していた。それでも殺気を抑えきれなかった。


 犯人の要求は、国境沿いに辺境伯家が配備している兵を全て王都まで撤退させろと言うものだ。

 そのようなことをしたら、隣国からの侵略が始まるだろう。


 つまりノエル誘拐の首謀者は隣国の主戦派だ。


 王が貴族の子息一人のために、隣国のそのような要求を認めるわけがない。

 王の選択は正しい。


 だがそれはノエルを見捨てるというのと同義だ。

 理性では王の行いが正しいとわかっていても、フィリップは愛息を見捨てられなかった。


「陛下は、お力になれず申し訳ないと男爵閣下に伝えるようにと」


 フィリップの剣呑な魔力に気づかぬふりをして、初老の侍従長は謝罪する。


「……いた……しかたありませぬ」


 王がわざわざ侍従長を代理人にたてて、辺境伯領に派遣して謝罪したのだ。

 臣下としては受け入れるしかない。


「剣聖として王国のため多大なる功績をあげてこられた男爵閣下のお力になれず……」


 侍従長は謝罪するだけでなく、深々と頭を下げた。

 多大なる功績とは、魔物の大氾濫や、魔竜の討伐などで活躍したことを指しているのだろう。


「どうか頭を上げてください。あなたは陛下の代理人なのですから」


 だが、侍従長は頭を上げない。


「閣下に頭を下げることは、陛下のご意志です」


 そうきっぱりと言った。


「陛下は、従甥たるノエル様の為、できる限りのことをしたいとお考えですが……」

「……無理は承知しておりました」


 それでも、フィリップは我が子を取り戻したかったのだ。


「陛下は民のため、国のため、正しい選択をなされました」


 そういって、フィリップは頭を下げた。


 犯人である隣国の主戦派は王家と辺境伯家の離反を狙っている。

 その狙いに乗ってやるわけにはいかなかった。




 侍従長が退出すると、入れ替わりにノエルの母カトリーヌがやってきた。

 カトリーヌは涙を流し取り乱していた。


「ノエルを、ノエルを守っていた魔導具が……壊れたの。壊れるはずがないいのに」

「…………なんだと」


 竜でも壊せない結界を展開する魔導具だ。


「私の……私の技術がつたないばかりに……ああ、ノエルごめんなさい」


 そういって、カトリーヌは床に崩れ落ちて、大声をあげて泣いた。


「そなたのせいではない」


 そういって、フィリップはカトリーヌの背中を撫でる。

 ノエルの母カトリーヌは天才と呼ばれる魔導具師だ。


 そのカトリーヌが全力で作ったのがノエルを守る魔導具である。

 間違いなく、竜でも壊せない結界を展開する魔導具だった。


 けして悪徳商人に騙されて粗悪品を掴まされたわけではなかったのだ。


「カトリーヌ。破壊された場所はどこだ?」


 魔導具には位置探知の機能がつけられていた。

 誘拐されてから、ノエルは腐界の上空を旋回しているという話しだった。


 恐らくワイバーンの類いに乗っているのだろうと考えられていた。


 腐界の中に人は入れない。だからこそ、フィリップも手をだせなかったのだ。


「最後に観測されたのは、腐界の奥の奥。死の山の辺り」

「…………なんと」


 フィリップは言葉を無くした。

 腐界は、凶悪な魔物が跋扈する危険地帯だ。


 魔物はヘドロの様な体表をもち、全身から生物に害のある瘴気を放つ。

 その瘴気の濃度が高すぎて、人族がたやすくは入れない領域を腐界と呼ぶ。


 そんな腐界の中でも死の山は特に危険とされている場所である。


 ワイバーンに捨てられたのか、ワイバーンごと腐界の魔物に落とされたのか。

 どちらにしろ、ノエルは腐界の死の山の近くにいる。生存は絶望的だ。

 遺体すら残らないだろう。


「……だが」


 フィリップは剣を取る。

 そして、まっすぐに屋敷の外に向かって歩き出した。


「閣下! 一体どちらにいかれるのですか!」


 慌てた執事が必死の形相で止めようとする。


「ノエルのところに決まっているだろう」


 今でもノエルは腐界の中で怯えて泣いているに違いない。

 父として、我が子を助けに向かうのは当然のことだ。


「ですが、閣下! 腐界の中にいらっしゃるのでは、もはや……」


 ノエルが生きているわけが無い。執事はそう言いたいのだ。


 そしてそれはフィリップも頭ではわかっている。

 だが、それでも、ノエルのことを諦められなかった。


「父上!」


 フィリップを止めたのは、ノエルの兄フランツだった。


「父上が死んでしまいます!」


 フランツは泣きながらフィリップを止めた。


「……だが」

「腐界は広いのです! 何の情報もなく探しに行っても無駄になります」


 腐界の辺から死の山と呼ばれるエリアまでは、とても遠い。

 魔物と戦いながら進むとなると、何年かかるかわからない。


 しかも瘴気に人は耐えられない。


 瘴気に耐えたとしても、死の山の近くにたどり着くことは不可能に近い。

 あり得ないほどの幸運に恵まれて、極めて順調にいってても数か月はかかるだろう。


 しかも死の山自体が広大だ。 数十キロ四方は優にあるのだ。

 死の山にたどり着けたとしても、何の情報もなしにノエルを見つけ出すことは不可能だ。


「父上までいなくなったら、母上はどうなるのですか!」


 カトリーヌもやってきて、泣きながら何も言わずにフィリップを抱きしめた。


「ノエル……ああ、ノエル」


 剣聖と称えられ、その剣で多くの民を守ってきた。

 それなのに、最も大切な我が子を守れないとは。悔しくて悲しくて、フィリップは泣いた。

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