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第3話

その言葉が、御堂汐音を一年前のあの醜い争いの場へと引き戻した。


「いつ孕むか、いつ産むか、それによって離婚の時期も決まる。この借りが清算されるまで」、御堂司は眼鏡を押し上げると、氷を纏ったような笑みを浮かべた。「御堂汐音、逃げる? 夢でも見てろ」


「……」


司はそう言うと立ち去った。


汐音は背もたれにもたれ、胸のあたりが重く詰まった。


昨夜、あの娘が「こっそり堕ろした」と言い放った時、司の逆鱗に触れてしまったと悟っていた。


やはり覚えているのだ。


汐音は無意識に下腹に手を当てた。


子供を一人、借りがある……


ふん、自分が悪いくせに、よくもまあ。


その日、汐音は聖路加国際病院の心臓外科外来で当直だった。


個室の診察室。


腰を下ろし、呼び出しボタンを押した。


「001番の方、B3診察室へお越しください」


汐音がパソコンで001番のカルテを開くと、ドアが開き、若い女性が入ってきた。


顔を上げた汐音は、どこか見覚えがあると思った。


「初診ですか。どうされましたか?」と彼女は尋ねた。


二十歳そこそこの娘のはずなのに、妙に大人びた深いVネックのドレスを着て、ずかっと腰を下ろすと、汐音をじっと見つめた。


そして突然、口元を歪めて笑った。


「妊娠したんです」と。


「?」


「司様の子ですよ」


「……」


なるほど、見覚えがあるわけだ。


居酒屋の防犯カメラに映っていた、司に抱きついていたあの娘だ。


濃いメイクを落としたせいで、すぐには気づかなかった。


「妊娠なら産婦人科です。ここは心臓外科。番号間違えていますよ」と汐音の表情が冷たく引いていく。


「とぼけないでよ、御堂先生。司様の子供を孕んだんだから、そろそろ身を引きなさいよ?」と娘はけたたましく笑った。


「身を引け?」汐音は手にしたペンをくるりと回した。


楓町のあの女は何年も養われていながら、こんな図々しい真似まではしなかった。


こいつは随分と自信満々だ。


どうやら司がその気にさせたらしい。


「早坂先生、今すぐ、緊急予約枠で無痛人工妊娠中絶手術を追加でお願いします。患者の名前は……小野奈々さん」と汐音は返事せず、内線電話を取った。


「御堂汐音! 何をする気?! 殺す気か?! 司様が許さないわ!」と娘の顔色が一瞬で変わり、勢いよく立ち上がった。


「看護師さん、力のある方を二人お願いします。患者さんが興奮しています」汐音は電話を置いた。


奈々は彼女が本気だと見て取ると、恐怖と怒りで声を震わせた。


「御堂汐音! 図々しいにも程があるわ! 御堂家に輿入れした経緯なんて、みんな知ってるんだからね! 御堂様のお母さまと涼子様が親友だったってことで、小さい頃から取り入ってただけじゃない! 涼子様が無理やり結婚させなきゃ、司様が家族を不幸にする厄介者なんて娶るわけないだろ! 長々と独占してきた! もういい加減に身を引きなさい!」


「どうやって悪いの?」と汐音は魔法瓶の蓋を開け、身に着けた白衣をちらりと示した。


「あなたにこれ以上、司様を傷つけさせるものか!」

奈々は憎しみを込めて言い放った。


「彼のためにそこまで言うなら、願いを叶えてあげましょう」

汐音の視線が奈々の下腹に落ちた。そして、彼女はある考えを思いついた。

「彼女を産婦人科の裏口まで連れて行って、早坂先生に会わせて。先生がどうするかわかっているから」

汐音はちょうど入ってきた看護師に言った。


奈々が連れ出されていく時の悲鳴や罵声を無視し、汐音は御堂司の電話にかけた。


一本目は切られた。


彼女は辛抱強く二本目をかけた。


「会議中だ。三分間待ってて」

ようやく繋がると、向こうは気のない口調だった。


「君の小野奈々ちゃんが病院で騒いで、仕事の邪魔をしている。すぐに始末しに来い。さもないとどうなるのかはあなたの責任だ」そう言い終えると、汐音は電話を切った。通話時間三十秒。


おそらく彼女の奈々ちゃんを案じて、司は会議を終えると病院に来た。


汐音が午前中の最後の患者の診察を終え、職員室で彼を迎えた。


相変わらずの黒いスーツ、ネクタイは外し、ワイシャツのボタンも二つほど外してある。


開いた襟元から鋭い喉仏が覗いていた。


上品な見た目とは裏腹に、骨の髄まで染みついた奔放さがむんむんと漂ってくる。


「妊娠したって言うわよ、君の子だって」

汐音は思わず背もたれによりかかり、距離を取った。


司はそれを聞いても微動だにせず、金縁眼鏡が完璧に感情を隠していた。


「今、私が預かってるわ」

汐音には彼が知っているかどうか判断できなかった。


「閉じ込めたのか? 奥様、なかなかやり手だな」

すると初めて、司に興味が湧いたようだった。


汐音は心の中で思った。これでやり手? まだまだだよ。


「取引をしよう」


「十五分前に俺と取引をしたあの契約書の値段、知ってるか?」

司は口元を歪めて笑った。


「私の取引も高くつくわよ―――小野奈々の子供を生かしておいてあげる、それどころか、私が産んだことにしてやってもいい。そうすれば彼も名乗りを上げられる。宗一郎様や涼子様ともよく話せば、受け入れられないこともないかもしれない」

汐音は淡々と言った。


「そして、これで『子供』を返したことになる。借りは清算、離婚よ」


司の眉尻がわずかに跳ね上がった。


レンズ越しの瞳の色が深くなり、すぐにまた薄れた。


「奥様、数学はお得意なんですね。代替案もよく考えます」

司は皮肉を込めて言った。


汐音は彼の嘲笑を無視し、時計盤を軽く叩いた。


「考えてあげてもいい。ただし、あまり時間はかけないで。小野奈々はもう手術室に入っている。彼女のお腹の子供が守られるかどうかは、君の答え次第よ」


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