御堂司がさっと立ち上がった。
振り返って、オフィスのドアに鍵をかけた。
汐音の頭の中で警戒のアラームが鳴り響いた。
「何をするつもり?」
「奥様は実に賢くて寛大だな」
司は表情からは怒っているのかどうかさえ読み取れず、長い脚で一歩近づくと同時に腕時計を外した。
重い空気が一気に張り詰めた。
「病院中に監視カメラがあるのに、旦那様。昨夜は交番のお世話になり、今朝の夕刊フジの一面を飾りたいとお思いですか?」
汐音は素早く立ち上がり、オフィスチェアを盾にして身を隠した。
司の視線は、ゆっくりと彼女の全身をなぞる。
ごく普通の白衣が、彼女の凛とした姿勢ゆえに、逆に冷ややかな雰囲気を漂わせていた。
「夫婦の営みだ。せいぜい院内の注意通達が回るだけさ。『御堂氏は場所をわきまえろ』ってな。一面には載らんよ」口調はどこまでも気ままだった。
汐音はまずいと直感し、逃げ出そうとした!
間に合わなかった。
男の長い腕が伸びて、彼女の手首を掴むと、そのまま奥の休憩室へと押し込んだ。
汐音は狭いベッドに放り出され、肩に何かが当たって痛みを感じた。
思わず声を漏らし、ぐずぐずして先手を打たれた。
司は片膝をベッドに乗せ、両手で彼女の手首を頭上へ押し付けた。
彼の切れ長の目が伏せがちに見下ろす時、その切れ長の目尻が、一層冷たさを際立たせている。
「なかなか要領がいいが、残念だな、俺はその話には乗らない。御堂汐音」彼は言葉に力を込めた。
「俺が欲しいのは、お前が孕んだ子供だ」
汐音がもがくと、その力は尋常ではなかった。
司が身をかがめると、馴染み深くもどこか疎遠な気配が彼女を包んだ。
「何を動き回ってる? 言っただろ、子供を産んでから離婚だ。これから『離婚』なんて言葉を口にしたら、それは俺を誘ってるってことだと心得ろ」
「……」
「もちろん、誘われたからって、必ず応じてやるとは限らん」司はふざけた口調で続けた。
「だからな、奥様。ちゃんと頑張って、俺に『気分』を出させてくれよ」
「……」汐音は言葉にはしなかったが、目だけで彼女の先祖代々を罵倒していた。
司は今のところ明らかに「気分」が乗っていなかった。
目尻に疲れたような色を浮かべながら、彼女の体の下にあったゴツゴツした物を引っ張り出した。
指輪の箱だった。
軋む音で蓋が開くと、中には彼女の結婚指輪が収まっていた。
汐音はようやく思い出した。
指輪をここに置き忘れたのだ。
とっくに自分で捨てたかと思っていた。
「どうやら奥様は、この結婚を心底嫌ってるらしいな」司の口調には意味ありげなものが含まれていた。
汐音が説明しようとしたが、彼はもう彼女の手を離し、立ち上がっていた。
指輪箱を目立つ棚の上に置き、腕時計をはめ直すと、そのまま立ち去ろうとした。
彼の「奈々ちゃん」のことは構わないらしい。
「奈々さんの子供はいらないなら、楓町のあの方は? 彼女の子供だって、御堂家に迎え戻す気はないの?」と汐音が冷ややかに口を開いた。
司の足がわずかに止まった。
「ごめんなさい。私は小さい頃から愛に飢えていたんです。あの時、あなたが優しくしてくれたから、それが私だけへの特別なものだと思い込んでしまって…涼子様が結婚を提案された時も、軽々しく承諾してしまいました」と汐音は誠実な口調で言った。
「あなたが私を犬猫のように扱うこと、結婚があなたの人生を乱し、あなたの『真の愛』の邪魔になるなんて知っていたら、絶対にあなたのそばには近づかなかったのに」
司は振り返らず、言葉も返さなかった。
しかし汐音には、周囲の温度が急に下がったような錯覚を覚えた。
昔の話を持ち出され、彼が不機嫌になるのは当然だった。
汐音は続けた。
「今は償いたい。あなたを自由にしてあげたい。あなたが頷くだけで、真の愛も、子供も、すぐに手に入る。どうして意地を張るの?」
会話は、司の冷ややかな一言で幕を閉じた。
「僕の結婚を賭けにして遊んでるのか? 御堂先生、お前は自分を買いかぶりすぎだ。今離婚しないのは、ただ僕に損がないからだ。金と品がきちんと清算された時が、お前と別れる時だ」
司が去った後、汐音はベッドに倒れこみ、しばらく動く気にもなれなかった。
疲れた。
芯から疲れ果てていた。
携帯電話が鳴り、彼女は取った。
「澪?」
「汐音ちゃん!一体どういうことなのさ!あの女がここで泣き喚いてるんだぞ!周りの連中は、私が社長様の命令で悪い女に子宮を摘出してやったんじゃないかって思ってるよ!」
産婦人科の早坂澪が、声を潜めて言った。
「……ドロドロドラマの見すぎよ」汐音は起き上がった。
「妊娠は?」
「してない!超音波で子宮頸管見たけど、生理が終わったばっかり!」
「解放してやりなよ」
汐音は嘲笑った。
早坂澪は汐音の親友だ。
事情はよくわからなくても、芝居には付き合う。看護師に人を解放するよう合図しながら、「あれ、誰?」と尋ねた。
「御堂司の新しいお相手」
澪は数秒間沈黙した後、ケケケと不気味な笑い声をあげた。
「やっぱり摘出して悪い女にやっちゃう?」
「そうしたら、御堂司がお前を東京から消し去るよ」と汐音は冷ややかに言った。
「あんなの、わざわざ海外から飛んで帰ってきて俺を殴る勇気があるもんか!」と澪は強がった。
「もう帰ってきてるわ」
「……」
澪の最大の美徳は空気を読めるところにある。
「なかったことにしてくれ」
「で、離婚する気は?」としばらくしてまた尋ねた。
汐音は立ち上がり、指輪箱を一瞥した。
「『借り』の子供を返せって言われたの」
澪は驚いた。
「去年の…あれか?」
「ええ」
あの中絶手術を担当したのは澪だった。
彼女は誰よりも事情をよく知っており、一瞬で怒りが爆発した。
三十分間、御堂司に向かって激しく罵詈雑言を浴びせた。
早坂先生から、御堂家の御曹司は「ED男」の称号を授与された。
汐音はそれを聞いて、少しだけ気が楽になった。
電話を切ると、御堂涼子様からのLINEが届いていた。
御堂司の歓迎会として、今夜、御堂家の本邸に戻って夕食を取るように、という内容だった。
汐音は承諾した。
しかし、その夜、御堂家の本邸に到着したのは彼女だけだった。
主役である御堂司は、秘書を通して一言だけを伝えていた。
「用事があるから、また今度」
食卓に着いていたのは、宗一郎様、涼子様、そして汐音だけだった。
「あの小野さん、私が始末しておいたわ」と涼子様が言った
汐音は箸を止めた。
「ご存じでしたか?」
「また、辛い思いをさせてしまったわ」涼子様は軽くため息をついた。
「また」と言ったのは、楓町のあの女性のことも彼らは知っていたが、その女性に関しては決して手を下さなかったからだった。