「でも汐音、心配しないで。御堂家が認めるお嫁さんは、あなただけよ」と御堂の涼子様は優しく言った。
「司が帰国してね。宗一郎様のお考えで、彼に東京で財閥を引き継がせたいそうよ。もっと顔を合わせるといいわね」
御堂汐音は御堂の涼子様を見つめ、三年前の彼女の冠動脈バイパス手術を思い出した。
心配をかけたくない気持ちから、「はい、お母さん」とだけ答えた。
適当な返事だったが、涼子様は真に受けた。
一週間後、また電話がかかってきた。
「汐音? 司が最近、本邸に戻ってきてないみたいだけど?」
「……そうですね」汐音は時々、御堂司が帰国したこと自体を忘れていた。
「たぶん忙しいんでしょう。私も最近は……」
自分が手術で忙しいと言えば、涼子様が司を探すよう仕向ける言葉を封じ込められるかもしれない。
言葉を終える前に、涼子様がまた言った。
「聞いたのよ、司が今夜、藤原凛たちと『月見亭料亭』で飲みに行くって。あなたもこのところお疲れでしょう? 今夜は早く仕事を切り上げて、お友達とリラックスしなさい。お母さんのおごりよ」
「……」
さすがは御堂会長と共に財閥の基礎を築いた女性だ。
退路を塞がれるとは、実に巧妙だった。
汐音は仕方なく「はい」と答えた。
電話を切り、LINEで早坂澪に送った。
「澪、今夜空いてる?」
「何よ?」
「月見亭料亭まで付き合ってほしいんだけど」
……
月見亭料亭は、外観はレトロな五階建て洋館だった。
一夜の消費がフェラーリ一台分に相当すると噂される場所だ。
「聞いた話じゃ、黒幕のオーナーは謎だらけで、調べても出てこないらしい。おそらく永田町のどなたか大物なんだろうね」澪は一階のカウンター席に腰かけ、声を潜めて言った。
「御堂様、早坂様、お飲み物はいかがなさいますか?」仲居が近づいてきた。
「初めて来たのに、私たちことを知ってるの?」澪は眉を上げた。
「御堂様は『聖路加の神の手』、早坂様は『産科のニュースター』。お二人とも名医として、そのお名前はかねがね存じ上げております」と若く色白の仲居は口が達者だった。
「一番高いのを三杯。二杯は私たちに、一杯君にご馳走よ」
澪は顎を支え、その場の雰囲気に合わせて引いたアイラインが一層の不羈さを醸し出していた。
仲居は笑った。
「早坂様、ありがとうございます」そう言うと立ち去った。
澪は舌打ちした。
「月見亭はやはりただ者じゃない。東京のセレブのデータを従業員の脳みそに刻み込んでるんじゃないか?」澪は汐音を見た。
「イケメンの店員、なかなか面白いんじゃない?」
汐音はうねった長い髪を解き、少しだけ高嶺の花のような冷たさが消えた。
「好きなら、付き合ってみれば?」
澪は指を振った。
「私の好みはドS系。ワイルドで、独占欲が強くて、無理やり愛してくれるタイプ」
「……ドロドロ小説はほどほどに」汐音は軽く辺りを見回した。
来たには来たが、御堂司を真面目に探すつもりはなかった。
サボリの極意は、上司を適当にごまかすことにある。
仲居が二杯のカクテルを運んできた。
「御堂様、早坂様。季節限定となっております。ぜひお試しください」グラスを置く時、彼は汐音に近づいて小声で言った。
「御堂様は二階の『雨聞の間』でいらっしゃいます」
「……」
サービスが行き届きすぎている。
本当に会いたくはなかった。
しかし、その言葉を別の誰かが聞いていた。
「ババア! 厚かましいにも程があるわね! 司様の後をここまで追ってくるなんて! 小さい頃からおべっかばっか……きゃあっ!」甲高い女の声だった。
最後の音は裏返った。
澪が持っていた酒を小野奈々の顔に浴びせたのだ。
「二十四でババア? お前、その年まで生きられないと思ってるのか? ああ、そうか、愛人なんて千刀万切りの刑に当たるんだったわね、ちょうどいい年頃で死ねばいいのに!」
「私に酒をかけるなんて、よくも!」顔中がぐしょ濡れの奈々が絶叫した。
「司様が私をどれだけ愛してるか知ってるの? 三億円もするネックレス、私が欲しいって言ったらすぐに買ってくれたの! 私に手を出したら、司様がお前らを死にぞこないにするわよ!!」
彼女が飛びかかろうとしたが、気の利いた仲居に止められた。
「放してあげて。さっき御堂司が二階にいるって言わなかった? 今すぐ行こう、彼がどうやって私を死にぞこなしにするのか見せてもらうわ」汐音が澪の前に立ち、涼しい笑みを浮かべた。
奈々は全く臆する様子もない。
「行けばいいじゃない! 逃げたら腰抜けよ!」奈々は全く臆する様子もない。
20センチのハイヒールを鳴らし、ドンドンと二階へ上がっていった。
彼女がそんなに自信満々なのは、あの「三億円のネックレス」のおかげだった。
御堂司が御堂汐音に返したのは300万円、一銭も多くはなかった。
誰だって深く愛されていると思うだろう。
汐音は、涼子様が小野奈々を追い出したと言っていたのに、まだここにいることを思い出した……きっと司が呼び戻したのだ。
「汐音……」澪は怒りと心配でいっぱいだった。
汐音は安心させるような眼差しを澪に送り、二階へと向かった。
月見亭の内装はレトロで、シャンデリアの仄かな黄色い光に、ジャズのゆったりとしたメロディーが流れ、ヒノキの香りがアルコールの匂いと混ざり合っていた。
ガラリと、個室の扉が開かれた。
一同の視線が集まる。
汐音は一目で、一人掛けのソファに腰掛ける男を見つけた。
指の間のタバコの火が明滅し、その眼差しは深くて読めない。
御堂司は足を組んで、気ままな姿勢をとっていた。
刹那を楽しみ、薄情な男という印象がそこにはあった。
汐音の脳裏に浮かんだのは、温もりを覚えたあの日々のことで、まるで遠い昔の出来事のようだった。
小野奈々は畳の上で、彼の足に寄りかかるように座り、「司様」と呼ぶ声は恨みがましく、かつ色っぽかった。
澪は臆病ながらも勇気を振り絞り、「来たものは」とばかりに大きく足を踏み入れた。
「おお、御曹司! 帰国したんだ? お酌しようか!」彼女はテーブルのウイスキーボトルを手に取り、「うっかり」と奈々の全身に浴びせかけた。
「あら! 畳にこんなにくっついてるなんて、ペットかと思ったわ!」
「あんた!」奈々が飛び上がる。
御堂司は澪をまともに見ようともせず、騒ぎにも構わず、煙草の灰を弾いた。
半ば伏し目がちに汐音を見つめながら言った。
「御堂先生も遊びに?」