目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話

その考えは一瞬で消えた。


御堂汐音はすぐに我に返り、司を押しのけて起き上がる。


もし本当に子供ができたら、いっそう面倒なことになるだけだ。


奥様としての彼女の最後の気遣いは、夫をベッドに運んで、布団をかけてやることだった。


そして彼女自身は客間へと移動した。


翌朝、御堂汐音が階下へ降りると、御堂司はすでに身なりを整えて朝食をとっていた。


彼女が席に着くと、家政婦が朝食を運んできた。


「意外だな、御堂先生は我慢するのが上手だな」一口食べたところで、男が口を開いた。


「何が?」


「昨夜、俺が酔ったのを機会に、子供を作ろうとしなかったとはな」御堂司はゆっくりと言った


家政婦はそれを聞くと、口元を押さえながらくすくす笑い、その場を離れた。


御堂司はお茶漬けを一口すすり、「よかったよ。もしあの時できてたら、今朝、お前が俺に慰謝料を払う羽目になってたからな」と続けた。


「……」


「科学上、酔いつぶれた男にはそんなことできっこないわ。もし昨夜、あなたにその気があったのなら、酔ったふりをしたってことでしょ? 慰謝料? 御堂様、図々しいにもほどあるよ」御堂汐音は平静に言った。


「おや? つまり、御堂先生が手を出さなかったのは、酔った男には無理だと知っていたからか?」汐音が言い返しているのに、御堂司は口元を緩めて気怠げに笑った。


「言い換えれば、俺が酔ってなかったら、お前は本気で手を出そうとしてたってことか?」彼はわずかに上体を乗り出した。


……口げんかでは、彼に敵う者などいなかった。


御堂汐音は、彼と言い争うなんて自分がおかしいと思った。


彼女はお茶漬けを急いで飲み干し、病院へ向かうために席を立った。


数歩進んだところで何かを思い出し、振り返った。


「もし御堂様があなたの愛人を東京に残して、そばに置きたいなら、彼女が大人しくしているよう言い聞かせてください。私にちょっかいを出すのは構いませんが、楓町の方にまで…」


「雪村さんは体が弱いし、子供もまだ小さいんです。巻き込まれないでください」


「また『愛人』か。御堂先生はあだ名を付けるのが好きだな?」

御堂司は彼女を見た。それまでの気楽な雰囲気は消え、疲れたように言った。


御堂汐音は意味が分からなかったが、深く考えずに靴を履き替えて出て行った。


仕事の合間に、汐音はLINEで早坂澪にメッセージを送った。


【昨夜は何時に帰ったのか?】


彼女が御堂司を連れて出た時、早坂澪はまだ盛り上がっていて、小野奈々にディスコを踊らせて帰さず、かなり不思議な光景だった。


【……】

早坂澪は省略符を返してきた。


【泥酔して何かした? 誰と?】御堂汐音は軽く返信した。


【ああ、うっかり年下の男と寝ちゃって、金で解決したよ。名前も聞かずLINEも交換しなかったのが後悔だ。暇な時にまた誘おうかな】早坂澪はなんとこう返してきた。

【……】


澪のいつもの適当な戯言は信じていなかった。


スマホを置いて仕事に戻った。


再び手に取ったのは夕方で、御堂司からの数通のLINEに気づいた。


【明日は土曜だ。休みだろ? 俺と一緒に東京の結婚式に行け】


【妻としての義務だ】返信がないのを見て、追記していた。


【離婚に同意してくれるなら、行ってもいいわ】御堂汐音は返信した。


【今はお前とエッチをする暇などない】御堂司の返信。


御堂汐音はイライラした。


【お前の病院の下にいる。早くしろ、かたつむりちゃん』】

御堂司はさらに送ってきた。


御堂汐音は争いや衝突が嫌だった。


怖いからではなく、ただ疲れるからだ。


御堂司と口論するか、「まあいいや、行くだけ行くか」の二択で、彼女は後者を選んだ。


……


病院を出ると、案の定、御堂司の車があった。


汐音は見向きもせずに通り過ぎた。


ランボルギーニは退勤時間にあまりにも派手すぎて、同僚の噂が怖かった。


彼の嘲笑が聞こえたような気がした。


車が曲がり角で停まった。


御堂汐音は周りに見知った顔がいないのを確認すると、素早く乗り込んだ。


この車は2シーターのスポーツカーだったため、御堂汐音は御堂司の隣に座るしかなかった。


御堂司は片手でハンドルを握り、もう片方の手は膝の上に置いて、気だるげに言った。


「どうやら俺たち、不倫してるみたいだな?」汐音の小心さを嘲笑うように。


「誰の結婚式よ?」


御堂汐音はシートベルトを締めながら言った。


汐音くらい御堂司を無視する者はいない。


御堂司は口元を歪めてエンジンをかけ、言った。


「東京の伊藤家、知ってるか?」と。

「知らない」


実は御堂涼子から聞いたことはあった。


しかし、彼が勝手に決めたことに腹が立ち、わざと反発したのだ。


「知ってても知らなくても構わん。あそこの娘が明日嫁ぐんだ。招待状が届いてて、母さんが行けなくて、俺たちが代わりに行くことになった」


御堂汐音はしばらく沈黙した後、「そう」と言った。


御堂涼子はまた二人をくっつけようとしているのだ。


御堂司もまた、暇だからこんな役目を引き受けたのだろう。


「マイナンバーカード持ってるか?」


「持ってない」


「構わん、空港で仮発行すればいい」


二人は無言のままだった。


空港に着くと、御堂司は本当に彼女を自動発行機へ連れて行った。


御堂汐音は無駄を嫌い、カバンからマイナンバーカードを取り出した。


「強情だな」御堂司は鼻で笑った。


それきり二人は口を利かなくなった。


……


飛行機が東京に着いたのは夜の十時過ぎだった。


迎えの車が彼らをスカイツリーホテルのプレジデンシャルスイートへ運んだ。


御堂汐音はまっすぐにセカンドベッドルームに入り、身支度を済ませて寝た。


伊藤家の結婚式は盛大で、昼から夜まで賑わっていた。


御堂汐音は九時に起き、ドアを開けるとドアノブにドレスがかかっていた。


濃紺のシルクで、柔らかな光沢を帯びている。


アシンメトリーのオフショルダーデザインで、片方の肩を露わにし、もう片方はハイネックにダイヤモンドがあしらわれ、優雅で華やかだった。


着替えた。


シルクは滑らかに垂れ、身体にぴったりとフィットした。


三つのサイズが完璧に合っている。


ブランドが彼女のサイズを保管していたのか、それとも御堂司が提供したのか?


おそらく御堂涼子の手配だろう。


化粧を済ませて部屋を出た。


同時に、御堂司もマスターベッドルームから出てきて、カフスを直していた。


彼は彼女の姿を見上げると、眉をひそめて一通り見渡し、満足げに口元を緩めた。


「カフスボタンを留めてくれ」


御堂汐音が近づき、宝石のカフスボタンを受け取った。


距離が近く、彼のほのかな柑橘系の男性用香水の香りが漂い、それがまた…クズ男の匂いだ。


汐音はうつむきながらボタンを留めていると、思いはあの四泊五日の島での日々へと飛んでいった。


朝もやと波の音の中、気持ちよく伸びをして起き上がろうとすると、司に腰を抱かれ押し戻された。


布団の中は暖かく、乾いた香りが漂っていた。


司は顎鬚でそっと汐音の鎖骨をくすぐるのが好きで、彼女の笑い声を聞くのに好きで…


誰が信じるだろう?


お二人もかつては愛し合っていたのだ。


たった一年前、まだそんなに遠くない過去に。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?