「……」
御堂汐音はフレンチカフスを整え、無言で振り返った。表情は冷静そのものだった。
御堂司は彼女の背中を見た。
二人は揃って伊藤家の結婚披露宴場となっているホテルへ向かった。
御堂司は汐音を連れ、元気溌剌とした中年の夫婦のもとへ歩み寄った。
「伊藤様、奥様。」
「あらまあ、このイケメン誰?ちょっと見覚えがないわね?」
伊藤の妻が振り返ると、目を輝かせ、わざとらしい口調で言った。
「俺のようなイケメン、一度見たら忘れられないでしょう?それでも忘れるなんて、さすがに年ですかね。」
御堂司はだらりとした笑みを浮かべて応じた。
「このガキ!お母さんに言いつけるわよ!」
伊藤夫人は叩くふりをした。
「でもさあ、どうして今まで娘さんがいるって聞いたことなかったんですか?どこで拾ってきたんですか?」
御堂司は顔見知りには遠慮知らずだ。
汐音は傍観していたが、まさか即座に自分に火の粉が降りかかるとは思わなかった。
「あんたに狙われるのが怖いからよ。」
伊藤夫人は冗談めかしながらも、どこか本気を込めて言った。
「そんなことないって。俺には妻がいるんだから。御堂汐音。ご挨拶しろ。」御堂司は汐音を軽く前に押し出した。
「奥様、伊藤様」汐音は微笑んだ。
「まあ!今度は奥さんを連れてきたの?珍しいわね!私の顔が立てたってことかしら!」
伊藤夫人は汐音をぐるりと一周見回した。
確かに珍しいことだった。
これまで、ビジネスパーティでも私的な集まりでも、御堂司が汐音を連れてくることは一度もなかった。
そのため、二人は結婚式を挙げているのに、この界隈で御堂司が既婚者で、しかも妻が汐音だと知っている者は、ごくわずかだった。
楓町のあの女性の存在を知るまでは、汐音は理由がわからず、司が単に一人で行動するのが好きなだけだと思っていた。
あの人の存在を知って初めて、司が決して自分を妻として認めていなかったから、社交界に連れて行かなかったのだと、ようやく気づいたのだった。
汐音の最も得意なのは「空気を読む」ことだった。
相手が望まないなら、無理強いはしない。
披露宴の主催者に挨拶を済ませると、司に向かって言った。
「ちょっとぶらぶらしてくるわ」と
「ああ」
汐音は背を向けて去り、司と一緒に来たのと見えないようにした。
汐音は花婿と花嫁のところへ向かった。
お嫁さんは優しく、お婿さんは紳士的で、二人の瞳には深い愛情が宿り、その幸せな雰囲気は周囲の人々にも伝わってくるようだった。
汐音はグラスを手に取り、お嫁さんに近づいた。
「ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」
「ありがとうございます」新婦は笑顔で乾杯した。
汐音は立ち去ろうと振り返ったその瞬間、背後にいたウェイターにぶつかり、ハイヒールがもつれてよろめき、お嫁さんの背中にぶつかりそうになった。
間一髪、強靭な腕が彼女の腰を抱き留めた!慌てて顔を上げると、御堂司の視線にまっすぐ飛び込んだ。
「注意しろ!お嫁さんは妊娠中だ。また人様の子供にまで影響が及ぶんじゃないか?」彼は低い声で注意した。
汐音は耳の中で「ブーン」という音がしたように感じた。
まつげを震わせながら司を見つめ、喉が詰まりそうになった。
「……私は一体、どんな狂った悪女なんだっていうの?赤ちゃんを下ろさせるのが好きだと?」
御堂司は言葉を失った。
自分がそんなことを口にしたことに、おそらく自分でも驚いたのだろう。
「新婦が妊娠中だから、彼女にぶつかってどうするのと心配しただけだ。」
「わかったわ。気をつける」そう言うと、汐音は足早にその場を離れた。
「クソ」
御堂司は奥歯を噛みしめ、低く罵った。
「うちの娘の披露宴で、誰に向かってそんな言葉を吐くの?」
後頭部を伊藤夫人にペシリと叩かれた。
「俺自身に向かってだ。いいだろ?」御堂司は呆れ笑いをした。
「自分を罵る?変わってるわね」伊藤夫人は司をいぶかしげに見ると、汐音が去った方角を見た。
「あんなに急いで行っちゃって?奥さんともう少し話したかったのに。お母さんがいつも彼女を褒めてたからね。」
「母さんから他に何を聞いたんだ?」御堂司は適当に相槌を打つ。
「別々の部屋で寝てるとか?俺が浮気してるとか?夫婦仲が悪いとか?説教がしたきゃ、もっとストレートに言えよ」と続けた。
司はウェイターのトレイからカクテルグラスを取ると、「どうせ言っても聞かないけどな」と一言添えて、一気に飲み干した。
「あんたがそんな顔しててよかったわね。そうじゃなきゃとっくに追い出してるところよ。私は愛情に不誠実なのが一番嫌いだから」伊藤夫人は首を横に振った。
「誰が誰に不誠実かは、まだわからないさ」
御堂司は口元を歪めて笑ったが、その笑みは目に届いてはいなかった。
…
汐音は足早に宴会場を出て、階段を下り、庭園を抜け、前へ前へと進んだ。
夜風が髪をかすめても足を止めず、ついにハイヒールが舗装の隙間に引っかかり、体勢を崩して前方へ倒れそうになった!
咄嗟に壁に手をついたが、掌が荒れた壁面を擦り、ようやく止まった。
見下ろすと、掌の皮が剥けて血が滲んでいる。
汐音の目はどこか虚ろだった。
思わず口をついて出る言葉は、往々にして心の中で何度も繰り返し考えられた本心だ。
やはり彼は自分を恨んでいるのだ。
一年前のあの出来事は、二人の間に埋められた地雷だった。
ほんのちょっとした言葉の端々で、いつでも爆発しかねなかった。
汐音はうつむいて気持ちを落ち着けようとした。
気づかないうちに、木陰の後ろから、庭園を物色していた三人の男たちが彼女に目を付けた。
「おい、兄貴、この女じゃねえか?」
「25歳前後、青いドレス…間違いない!このやろう、電話に出やがらねえ!捕まえろ!」
三人はまっすぐに近づいてきた。
「てめえ、随分探したぜ、こんなとこに隠れてやがったな!」
汐音は息を吐き、宴会場に戻ろうとしたその時、突然腕を掴まれた!
汐音は引っ張られるまま振り返り、見知らぬ三人の男を見て、一瞬呆気に取られた。
「……何」
「自分で請け負った仕事だろ?ホテルに来てトイレ行くふりして逃げるなんざ、舐めてんのか?いいか、今日は行かねえからな!行くんだよ!さあ行け!」
先頭の丸刈りの男は、いかにもヤクザ然とした雰囲気を漂わせていた。
「人違いよ!あんたたちなんか知らないわ!」
汐音は数歩引きずられ、まったくわけがわからなかった。
「まだ知らんふりするのか!さっさと上の階に行け!龍神組の若頭様が待ってらっしゃるんだ!」
「人違いだって言ってるでしょ!龍神組の若頭様なんて知らないわ!結婚式に来てるの!」
汐音は手を振りほどいて後退りし、厳しく警告した。
「引きずって行け!」
丸刈り男は彼女が約束を反故にしたと決めつけ、これ以上無駄口は叩かず、子分に命じた。
汐音は振り返って走り出した!しかし数歩も行かないうちに二人の子分に捕まり、エレベーターへと無理やり引きずられていった!まさか五つ星ホテルでこんなとんでもない災難に遭うとは、夢にも思わなかった!
「離して!離してよ!」必死でもがき、両手でエレベーターのドアにしがみついて離さない!ただ一つの思いは、絶対に上の階には行けない!さもないと取り返しのつかないことになる!
「誰か!助けて――!」
しかし運悪く、彼女はホテルの裏庭の奥まで来てしまっており、人の気配はなく、天井の壁画に描かれた神々がただ俯き見下ろしているだけだった。
助けを呼ぶ声に応える者など誰もいない!
「さっさと中に入れろ!」
丸刈り男が彼女の膝の裏を蹴った!汐音は床に跪いた!男は怒鳴った。
二人の子分が汐音を持ち上げる!丸刈り男がパンパンと閉めるボタンを叩いた!
「んっ!んんっ!」エレベーターのドアがゆっくりと閉じていく。
鏡面に映るのは、汐音の乱れた髪と青ざめた顔だった。
その瞬間、突然、彼女は御堂司の姿を見た!
目の中に驚きと喜びが迸った!首を捻って、口を塞いでいる手に噛みついた!
「うわっ!」子分が痛みで叫ぶ!
「御堂司!御堂司!御堂司――!」汐音は声を嗄らして叫んだ。
丸刈り男が彼女の口を押さえつけた!エレベーターのドアが完全に閉じた!