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第27話

「汐音」


「汐音―――」


呼び声に朧気ながら目を開けると、窓の外はとっくに暮れていた。


壁に手をかけ立ち上がると、懐のふわふわした小さな塊がクンクンと鳴いた。


そっと頭を撫で、ゆっくりと外へ歩き出した。


影から足を踏み出した瞬間、まばゆい懐中電灯の光がまともに照らしつける。


反射的に目を閉じて顔を背け、光が和らいでから細めた目で見た。


まさか彼がここまで辿り着くとは汐音は唇をきゅっと結んだ。


司の眉間には深い皺が刻まれ、荒い息遣いは長い間捜索していたことを物語っていた。


ようやく姿を認めると、大股で近づき、まず懐中電灯で汐音の全身をくまなく照らした。


傷一つないことを確認すると緊張が少し解けたが、口を開くと火薬臭かった。


「こんな所で何してる?肝試しでもしているの?」


「別に、あなたとは関係ない?」


「それはそうだけど…ここだ」司は急に遠くに向かって叫んだ。


汐音が呆然とする間もなく、二人の警官が懐中電灯を掲げて駆け寄ってきた。


「お嬢さん、ご無事で?」


「ええ…何の事情です?」


司が警察を呼んだ?


「汐音を送ってきたタクシーの運転手が心配して、すぐに通報したんだ」夜風に乱れた司の前髪が揺れ、口元を歪めて言った。


司自身は澪の意味深な予言が気にかかり、この女が本当に極端な行動に出るのではと心配して、別件で警察に通報していたのだ。


警察側で照合して同一人物と確認し、一緒に探しに来たのだった。


「電話も出さずメッセージも返さず。スマホを少しは思いやってくれ。いつも無視されてると、鬱になるぞ」


訳の分からないことを。


「電話かかってくるのはわかってた。わざと出なかったの」

汐音はストレートに言い返した。


「また何かあったのか?」司の目が一瞬で冷たくなった。

誰が彼の電話に出なきゃと決めた?


業界で「御堂様」と持て囃されるからって、本当に自分を国王だと思い込んでるのか?


誰もが彼にへつらわなきゃいけないと?


「一人になりたかっただけ。何か問題が?」

汐音は相手にする気もなかった。


司は汐音の冷たい横顔を見つめた。


珍しくここまで怒る彼女に逆に怒りが収まり、鼻で笑って警官の方を向いた。


「家内のわがままです。お手数おかけしました」


「ご夫婦のごたごたなら仕方ないが、次からは失踪ごっこはおやめなさい。危険ですし、公共のリソースの無駄遣いですから」


警官は合点がいった様子で諭した。

「ご夫婦のごたごたなら仕方ないが、次からは失踪ごっこはおやめなさい。危険ですし、公共のリソースの無駄遣いですから」

汐音は他人に対してはいつも礼儀正しかった。


「すみません、運転手の方にありがとうとお伝えください」


警官は早く帰るよう念を押すと、その場を去った。


司はスラックスのポケットに手を突っ込み、俯きながら彼女を睨んだ。


「まだ突っ立ってるのか?野良の幽霊役を続けるつもりか?」


「…………」


汐音は無言で実家の屋敷跡を後にし、司の車に乗り込んだ。


司は懐中電灯を消してグローブボックスへ放り込み、エンジンをかけた。


「一体何しに来た?」


「両親に会いに」

汐音は窓の外に遠ざかる廃虚を見つめながら言った。


「墓参りなら墓所へ行くものだ。一人でこんな人影がない場所に分け入るなんて、危険だと思わないのか?」


汐音は答えず、ただ懐の小さな塊を無心に撫でていた。


「今月で何度目だ?汐音、急にかくれんぼにハマったのか?どうしてもやりたいなら、人数集めてやるさ。人が多い方が楽しいだろ」

司は食い下がった。



汐音は鬱陶しそうに眉をひそめた。


その瞬間、懐の中の小さな生き物が感じ取ったようにクンクンと鳴いた。


司はハッとし、視線を落とした。


汐音の懐に灰色の塊があるのに今さら気づいた。


さっきまでハンドバッグかと思っていた。


「なにそれ?」


「さっき拾った子犬」


司は眉をひそめて見つめた。


なるほど、やせ細ったみすぼらしい犬だった。


「最寄りの保護施設はどこ?」


「誰が保護施設に連れて行くって言った?」汐音が横目で司を見た、「私が飼うよ」


「無理だ」司の口調は断固としていた。


「私が坐するから、あなたに迷惑なんてかけないよ」


汐音は知っていた。


司は小さい頃から小悪党で、こういう毛むくじゃらの生き物が大嫌いだと。


中学時代、校内に野良猫の群れがいて、生徒たちがよく餌をやっていた。


やがて猫たちは人を恐れなくなり、通りすがりの生徒にすり寄るようになった。


汐音は何度も司にすり寄る野良猫を見たことがある。


司は靴先でぽんと払いのけ、「また近づいたら不妊手術してやる」と脅すほど最低だった。


もっとひどいのは、彼に惚れた女生徒が、ドラマの見すぎか、わざわざ猫を抱いて彼の下校途中で待ち伏せしたことだ。


「いっぱい食べて大きくなってね……あら?司くん、偶然ですね!」と司声をかけたら。


司は猫を一瞥した。


「三毛猫は生まれつきの凶暴犯だ。この筋肉質を見てみろ、前に犬を追いかけ回してたぞ。これ以上餌をやったら、次は警官襲撃だな」


「…………」


とにかく、この男は小動物への憐れみなど微塵もなかった。


唯一の慈悲は、殺さなかったことくらいだ。


犬を飼うことを彼に受け入れさせるのは、確かに不可能だった。


だが今回は違う。汐音は妥協するつもりはなかった。


この犬は、絶対に飼うと決めていた。


車が市街地に入り、街灯が増えてきた。


司は初音がその汚らしい物体を抱きしめているのを横目で見た。


普段は潔癖症のくせに、今は汚れも気にしないらしい。


「別居だけじゃ足りない?さらに細菌培養器を家に持ち込むつもりか?汐音、未亡人願望なら早く言え。遠回しに言わなくてもいい」

汐音は顔色一つ変えなかった。


「あなたが出て行けばいい。どうせホテル暮らしの方に慣れているから」


「医者なのに、妊娠準備期間にペットを飼うと感染リスクが高いって知らないのか?」

司は奥歯を軋らせ、理屈で説得しようとした。


医学的には男が遊びまくれば病気になるとも言うのに、御堂様はなぜ気をつけない?


「医学を理解してないなら余計なこと言わないで。ペットの細菌は主に糞便から感染するの。あなた、この子の糞便を食べるつもり?」


司は黙った。


ネオンの光が彼の険しい横顔を掠めていく。


汐音は彼が本気で怒るのを警戒し、口調を和らげた。


「まず動物病院で検査するわ。定期的にシャンプーもする。これからこの子は私のペット」と。


「もし捨てたら、私が出て行く」


司は口元をわずかに上げた。


拾ったばかりの犬と生死を共にするとはね。


「どこ行くの?」


司は指先でハンドルを軽く叩くと、突然方向を変えて別の道へと車を走らせた。


「子犬の安楽死を行える場所」


汐音は犬の耳を塞ぎながら彼を睨みつけた。


「御堂家の門をくぐるなら、まずきれいにしろ」

だが司は車をペットサロンの前に停めた。


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